伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

今の世界を信じています

2009-10-12 12:40:31 | Weblog
今日は、何故か親鸞(しんらん)の事を思い出していました。
この人は、コンプレックスの固まりでした。現代では日本最大の宗派の宗祖として、伝説の人物として神格化されていますが、実像は全然違います。現在の巨大な宗教施設群を見れば、嘆いた事でしょう。
寄付金の額により、阿(あ)弥陀仏(=天照太御神)の救いの力が差別される筈が無いと言っていました。本人自体がボロな着物を着て、国内各地の飢饉で飢える民衆の間を回り、死に掛ける人を見ては「死ぬまでに1回でも良いから、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と言い、絶対に魂を救って呉れる大いなる仏様を信じて、あの世に行きなさい」と言い続けました。
親鸞自身は本当に、人の死後に阿弥陀仏(あみだぶつ)が現れて、仏の名前を呼んだ人の魂を救う確証が在ったのでしょうか?
彼の返事は、
1.自分は、比叡山の修行も挫折して途中で止めた落第僧です。そんな確証は何も無いのです。
ただ、自分も阿弥陀様の救いを「信じて」いるだけです。
2.自分みたいな頭が悪くて、スケベな妄想が頭から離れないで苦しんでいる僧には、何の霊力も知恵もありません。ましてや悟りなんて微塵も分かりません。チンプンカンプンです。
ただ、阿弥陀様の救いを信じているのです。

では、親鸞は何故信じる事が出来たのか?
比叡山でも秀才とされた法然(ほうねん)師匠の言葉を親鸞は純粋に「信じた」のです。
「あの立派な法然先生が、南無阿弥陀仏と呼べば、必ず天国に行けると言った。だから、自分はそれを信じます。」と。
では法然は何を信じて、この「阿弥陀仏の何が何でも絶対に救う」を導き出したのか?
外国から来た仏典に書いて在る事を信じたのです。釈尊の死後の数百年後に、釈尊の又聞きを集めて作られた原典が、再度5百年以上掛けて3つ以上の言語に翻訳リレーされた本を、法然は信じました。
親鸞の本質は、ただ「信じる」事に在りました。
その信じるべき内容の証明や証拠には、関心が無かったのです。親鸞の信じ方は、中途半端ではありませんでした。
もし、その教えが間違いだったら、どうするのか?と問われれば、
「喜んで行くべき世界へと行きます。例え、それが地獄であっても、馬鹿な自分にはお似合いです。それしか生きる望みが、自分には持てなかったからです」と答えます。
そこまでして親鸞が信じた事は、単純な事でした。
「善人も犯罪人も含めたすべての人間は、大いなる見えない存在を信じて生きれば、死後に100%絶対に救われて天国に行く」でした。
見えない存在を信じるか否かで、人の生き方は違って行きます。
やはり親鸞にも、光る真理を私は感じます。

万物を生み出した大いなる根源存在なんて居ない。すべては唯の偶然の連続に過ぎない。得する奴と損する奴が居るだけ。
いや、偶然の連続こそ、大いなる物が存在する証拠だ。パチンコで100回連続でフィーバー(古~)出来るのか?・・・。などなどと、色々な次元で千年以上も論争が続いて来ました。

ただ言える事は、物事や他人を信じられる事は、尊い事です。
前世からの魂の旅の行程も関係します。
でも、悪い内容を信じる事は、本当に不幸な縁です。
自分が何を信じるかは、日頃の自分の行いと、密かに自分が思っている内容が、導いて行きます。

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コメント (517)
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