伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

悟りの「後」が大事

2010-01-22 11:01:11 | Weblog
悟り、目覚める、意識の上昇・・・を目指す。などと、よく見聞きします。
多くの人々は、さも素晴らしい心境が存在すると憧れる様です。
その様な未知の心境を目指して瞑想をしたり、有料のセミナーに通ったり、東に聖者が居ると聞くと駆けつけ、西に覚醒したと自称するオヤジが居れば会いに行きたいと思う人が多い様です。
この様な間違った錯覚を一言で打ち破る事が出来ます。 それは、どんな言葉か?
「悟った後、何をするのですか?」
この一言に尽きます。 悟りや目覚めを目指す「過程の話」や方法論は、昔から嫌なぐらい既に在ります。しかし、悟りを得た後の話が、全ての自称聖者には抜けているのです。
目覚めたと自称する人は、その体験を広める商売を始めて人生を終える人が大半です。それが本当に悟りの後にするべき行動なのでしょうか?
多くの人を導く為だと言うでしょう。
では、導いた多くの人々がもし覚醒すれば、その弟子も同じ様に悟りを広める商売をするのですか?
正道とは、国民の全員が実践したとしても、社会が継続し子供が育つ社会を創りだします。覚醒の体験を聞かせる商売の人間ばかりに成れば、社会生活は止まります。
つまり、人様に覚醒や悟りの体験を聞かせる時点で、それは真実から離れているのが真相です。真の覚醒とは、そのような行動を取らせる物ではありません。ましてや有料ならば、有り得ない所業です。悟りでは無く、社会と家庭から離れさせる魔境への誘いです。

宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩には、本当の覚醒をした後の人間の姿が描かれていると感じます。
「日照りの時は涙を流し。寒さの夏はおろおろ歩き・・・」
これが、悟った人、覚醒した人間の姿です。
え、スーパーマンでは無い?ただのダメ親父だと?
そうです。カッコ良くは無いけれども覚醒者の行動です。
誰の為に悲しんでいるのか?なのです。
奇異な体験を覚醒体験としては生けません。奇異体験への道を覚醒への道としてはダメなのです。
他の為に働ける人や慈悲深い人は、既に覚醒した人です。家庭の主婦も働く父親も、家族や社会の為に働く人は全員が既に覚醒者です。その自覚が出来無いだけの事なのです
現状の生活が苦しくても、その中でも感謝すべき事に気が付ければ、それは真理の断片に触れています。
奇異な偽物の覚醒体験を経験せずに通り越えて、いきなり覚醒後の生活を知らずにしている人がカンナガラ(内在神と共に生きる事)な人間です。
覚醒や悟りを目指す時点で、逆向きの精神の後退をしている事に成っているのが真相です。
今のままで良いのです。今の中で現状への感謝を置いて行く事が人生の目的であり、
悟り=「(さと)(り)れるな!」を歩いている事に成るのです。

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コメント (498)
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