馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

余命旦夕迫る

2010-04-25 20:47:14 | 日記
4月25日(日)11時半、食道癌の友人と互いの自宅から
中間距離にある台湾料理の店で食事
昨夜も近くの居酒屋で飲食。
その時は山芋の千切りを少し食べ
ビールをコップ一杯、日本酒を
1合飲む。
今日の昼も餃子を二切れで
ビールコップ半分、酒1合
急速にやつれている。
私と飲むのは理由が彼なりにある。
61歳独身、しゃべれず、
抗がん剤治療の副作用なのか
食欲が全く無い。
誰かと食事すれば少しは食べることが出来ると言う。
殆ど食事しない日々。
その後、ララポートでレバーペーストと
駄菓子屋で酢漬けの菓子を買う
明日から又再入院
病院で食べると言う。
旦夕迫る余命。
漁港の橋を渡り帰る後姿は見たくない。

スカイツリーカフェ

2010-04-25 11:18:16 | 日記
建設中のスカイツリータワー下
足元近くの古い木造家屋が正面を改装して
見物人相手にスカイツリーを模したソフトクリーム
ジュース等を販売している。
この家の住人、まさかこんな物出来て
自分達もこんな事するなんて思って見なかっただろう。
弊社の事務所も25年前に購入したが
まさかスカイツリーが素晴らしいアングルで見え
鉄橋渡る総武線、首都高、屋形船が
神田川、隅田川交差地点から眺められるとは
思っていなかった。

スカイツリータワー348m

2010-04-25 10:57:00 | 日記
4月24日(土)午後1時半、会社(柳橋)を出て
隅田テラスを厩橋までウオーキングしながら
スカイツリータワーに行った。
徒歩約60分 圧倒される鉄骨の巨大丸管が
ジャックと豆の木のごとく伸びている。
弊社の窓からは時折テッペンに雲がかかっているのが見えた。
現在348mの高さ。格子状の鉄骨
遠くから見るのが綺麗とは思うが
「痘痕も笑窪」納得
見物人が大勢、トイレの臨時案内板まである。

再び40年ぶりの再会

2010-04-18 22:17:26 | 日記
4月17日(土) 午後3時携帯電話が鳴る。
卒業以来会っていない同期からの電話だ。
今、船橋駅近くの中国料理店で食道癌になった同期と
食事している。
他にも見舞いの為来た者がいる。
店内2階でそれらしきオジサングループはいない。
外に出て携帯で確かめると、2階に居ると言う。
やはり、40年ぶりの再会は浦島太郎になった。
下関から来た同期は頭が禿げ上がり、髭伸び
服装は青の縞模様繋ぎに、だぶだぶのカーディガンを
羽織っていた。まるで地元ヤクザのかっこうだ。
私に向かって「お前腹出て、顔丸く面影無い」
「これじゃ分からへん」
この男大学で花の応援団 団長していた。
野球部がリーグ戦 初優勝した時の団長
下関の漁業組合に勤めていた。
癌になった同期が2年前下関にやって来て関門海峡の夕日を眺めながら
明け方まで酒飲んだ話をしていた。
他に団長の奥さん、体育会執行部元役員
元副団長 この男仮出所中という
何の犯罪したのか聞きたくなかった。
11時半から飲み続けている。
午後4時店側から「時間ですと」追い出された。
船橋駅で応援団長 励ましのエールを切る。
雑踏の改札口で大声で叫ぶ
「快復して 下関で夕日見ながら 酒飲んで
フグたらふく食べようぜ」!
精一杯の励ましなのだ。
暮れ行く青春

歌を忘れたカナリア

2010-04-17 23:37:42 | 日記
4月15日(木) ビッグサイトで開催されている
プレミアムインセンティブショーを午後見に行く
リーマンショック後、企業は販促品を作らなくなった。
それに伴いプレミアムインセンティブショーに出展
する業者やバイヤーも減少。
西館で2.3ホールのみで開催
数年前まで花々しく出展していた業者は殆どいない。
新興業者が1ブースでの出展が目立つ。
弊社も6年前までは出展したが全く商談が成立しなかったので
止めた。現在は年2回のギフトショーに出展していて連続24回になる。
場内を2時間かけて見たが目新しい商品無し。
知り合いの業者に挨拶して5時には銀座に向かった。
今回、プレミアムインセンティブショーを見るのが目的
ではなく、弊社の仕事を台湾でフォローしてくれる
台湾人がビッグサイトで開催されているLED照明展を
見に来たのでついでにプレミアムインセンティブショーを
見ることになった。
午後5時半、銀座三越前で待ち合わせ
台湾から二人 上海から一人が来た。
上海から来た男は銀座アバクロで買い物をした。
当人の装いや体型からはこの店のファッションは似つかわしくないと
思えるのだが。
彼は店内を揺るがす音楽の中
音を打ち消すさらなる大声で上海に携帯電話で
しゃべっている。
上海のお客から頼まれた衣類を購入しているのだ。
上海に住んでいるのだが、台湾人で大陸の女性と結婚
台湾では既に両親は亡くなっている。
上海に渡って20年、その間事業を起こし
2度失敗、台湾に逃げ帰った時、空港での所持金は
日本円で300百円しかなかった。
3度目の挑戦、不動産バブルに燃える魔都上海で
ショッピングモールを立ち上げ大成功
初めて来日、湯水のごとく銀座でブランド品を買い上げ
上海の取引先にプレゼントするのだ。
彼は言う。
中国ビジネスには高邁な理想や屁理屈は要らない。
ただ、人脈あるのみ 裏返せば金欲、物欲、性欲を
顧客に提供満たしてあげればよいのだ。
突然はじける景気の前に稼げるだけ稼ぐのだと言い切る。
その後、新橋の高級焼肉店で飲食。
3人とも経営的立場の人間だ。
彼らの話は興味深い。
アジアで不況は日本のみだと言う。
確かに先進国欧州、北アメリカは深刻な不況だ。
日本は「歌を忘れたカナリア」だと言う。
本来持っている日本人の勤勉性、感性をないがしろにして
物造りに怠慢になってしまった。
グローバル化やITの急速な発展で 
日本人は一般的に製造は下と見て
海外工場に任せてしまった。
なやら訳分からん金融工学だとか
ネットを活用して商売しようとする
仮想商売に浸ってしまった。
 弊社が輸入する軽工業品や雑貨は
日本で造るノウハウが失われてしまった。
造りたくとも 機械設備や技術を受け継ぐ労働者が
いなくなってしまったのだ。
現場で立って、身体全ての五感を磨いて物を作ること
忘れてしまったのだろうか。
私は16歳の時から働き始めた。
ガソリンスタンド、証券会社での相場黒板書き
小学校の用務員、ビルの窓拭き
朝6時半起床、労働、勉強帰宅は午後10時半
辛くは無かった。
弊社は徽章、バッジをデザイン製作しているが
表向きはその仕事の看板は掲げていない。
徽章会社の下請けなのだ。
日本にバッジ等を作る職人さんが消えつつあり
私のような輸入貿易会社に依頼するようになった。
徽章会社は今ではブローカー的位置になり
製造ノウハウが失われてしまった。
今はアジア諸国に作らせている。
まもなく、ゴルフアマチュア選手権の記念品バッジを製作にはいる。
5月連休は検品と詰め作業、発送を
63歳の私と60歳の妻ですることになる。
貧乏でも誇り高く懸命に働き
自らの価値と存在を守りたい。