馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

37年前の夏 昭和48年8月 再掲

2014-08-31 23:28:15 | 日記

8月6日原爆の日
世界の歴史に永遠に刻み込まれる最大に愚かな行為
この時期になると甦る小さな記憶
今から37年前、西暦1973年昭和48年8月4日
夏休みを取って夕方外出しようとしていた
電話が鳴った、応対すると大学山岳部先輩から
「お前の同期が北アルプスで転落した」
8月5日早朝松本行き列車に3人で乗車。
他に大学山岳部同期一人と私が当時1年部員で4年生だった先輩
この先輩は転落した同期の高校山岳部先輩でもあった。
夕方上高地に着く、ドシャ降りの豪雨
山小屋には既にご両親と弟が到着していた。
母親は山装備をした私達をすがりつくように見ていた。
父親と弟も茫然と夏とはいえ高地で降りしきる冷雨を
傘も差さずに遭難現場に向かう私達を送った。
8月6日早朝滑落したと思われる北アルプス北尾根を登攀
名前は北尾根だがハイカールートでは無く
所謂字のごとくよじ登るロッククライミングだ。
雪山登山としては大学山岳部が目標とする先鋭的登山だ。
私達3名は滑落起点に到着、後から来る支援OB現役部員を待つ。
14時、他9名が到着。
3人が各自30メートルザイルを3本持ち
支援部隊にザイルを繋ぎ降りていった。
垂直の岩場を落石が生じさせないように静かに岩壁を
注意深く見ながら雲一つ無い紺碧の空から黒岩と白の残雪
の谷底へ250メートル下った。
緩やかな残雪混じりの傾斜地に下りた。
この高度には通常ハエがいないのだが飛んでいる。
ハエがたかっている岩と雪の間に同期は挟まっていた。
持参した寝袋に遺体を入れる、首の皮一枚が繋がっているだけだ。
ザイルでしっかり縛り上げる。
トランシーバーで引き上げ開始を伝える。
ゆっくりと尾根に向かって引きあがっていく。
私は最後に続く。
支援隊が見える所まで来た、上から怒鳴っている。
私に向かってザイルを繋げと叫んでいた。
私はザイル確保無しで登っていたのだ。
暫く待つとザイルが降りてきた。
しっかり結び頂まで着いた。
私まで滑落する二重遭難を引き起こすところだった。
暮れ行く岩峰の下に遺体を置き下山。
8月7日早朝 遺体を収容すべき11人にて登攀
岩尾根をザイルで皆繋がりながら登り下りを
無言で引っ張る。
夕方 涸沢と呼ばれるアルプス生成期の頃の氷河跡に辿り着く。
ここからは平坦な下り坂になる。
巨大リュックサックに同期を入れるため
体を二つ折にする。渾身の力で
ボキリと音がする。
私は担いだ、両肩に同期の足が出ている。
幕営地まで来た。疲れているのだろうが
心身共に高揚することとか沈むことを感じていなかった。
その夜私以外は松本に宿泊
谷底で北アルプスの岩峰が月明かりを受け漆黒の砦のごとく
何物も寄せ付けない迫力で迫っていた。
小さなテントで食べ物もなくじっとしていた
傍らにはリュックに包まれた遺体

同期は高校山岳部OB会仲間としての登山であった。
後に分かったことだが、高校山岳部の技量、体制、組織力
資金力では北アルプス北尾根登攀は力不足だった。
ザイルも持たず、しっかりしたリーダーも置かず
仲間内の暗黙ルールで登攀
現実的には高校山岳部OB組織では救助、収容作業はできず
茫然と見守る意外なかった。
元々同期は先鋭的登山を好まず、岩登り、冬山には
参加していなかった。
それが今回の登攀ではトップを受け持ち果敢に挑んだと言う。
この北尾根こそ 井上靖の小説 氷壁の舞台となり
度々 映画化 テレビ化されたナイロンザイル切断転落死事件の場所でもあった。
私の古いアルバム1968年2月 北アルプス北尾根のカラー写真がある。
紺碧の空と雪 しかし雪峰を雪崩と滑落に神経を集中しながら登った。
撮影者は現在、有名大学の学部長になり、一人はヒマラヤ遠征隊長になった。
そして後二人は中途退学と社会に出て行方不明。
山岳雑誌にも掲載された写真だ。

最近 山での高齢登山者の遭難は度々ニュースとなる。
個人的な気持ちを言えば
無謀と危険、冒険の境目が理解出来ないのだろう。
先年、ある方に11月のアルプス登山を誘われたが
登山する方の年齢、山歴を聞いて参加を断った。
冷雨と寒風、氷、雪混じりの危険を理解せず
私に「意気地ない」と冷笑した。
登山の基本的知識と山での生活技術を教わることなく
商業ベース化されてしまった娯楽に潜む危険
募る方も参加する方も無知と無謀が一瞬の隙を突いて
山では襲い掛かることを体験していない。
体験した時は既に手遅れ
 
その夏終わり頃、深夜、寝ていた。
古い木造家屋で雨戸も戸板だった。
突然、大風で雨戸がガタガタ揺れた。
まどろみの夢なのか分からないが
6畳の部屋が黄金色に輝いた。
私は目を開けたような気がした。
黄金色の輝きで眩しく薄めで見た。
眼前に親指程のものが見える。
小人が正座してニコニコして私に向かって
お辞儀している。
「おお!来たか」と叫んだ。
やはり同期は来たのだ。
私は直ぐに寝入った。


それから2年後 同期の在籍していた高校山岳部から
彼の遺稿集 山仲間の思い出 が届けられた。
淡淡と遭難報告経緯と記録、当人が書いた文章、山仲間の追悼文があった。
私の名前はなく 只、大学山岳部OB協力と記されていた。
この同期の墓も知らない。

8人いた山岳部同期は私一人になり
輝かしき70年以上続きヒマラヤ遠征3回を誇る体育会山岳部も
時代の趨勢に合わず在籍部員が一人もいなくなり
自動的に廃部となってしまった。
6月25日食道癌で亡くなったあいつはその事を知っていて
「厭世気分」になるなよと励ましてくれた。
その友人は未だ墓に入らず私の住まい近くで
骨壷にいる。

私は下から2番目にいる。バテているわけではないが最後の男が身長182センチ
私は165センチ前と後ろで歩幅合わず上下動が辛かった。

正面が氷壁 後方の峰直下から転落
同期転落原因は前日の豪雨で岩が緩み取り付いた岩が抜け落ちて
その岩を抱いたまま滑落した、一度傾斜地で止まったが、恐らく気を失った
彼は踏み止まれずに250メートル滑落。
彼は社会人2年目 大手メーカーに勤務 当時25歳
今、生きていれば62歳
遺稿集に交際していた女性の追悼文があった。
その最後の文に
これからも毎年夏がおとずれるたびに、彼のことを思い浮かべるでしょう
何時までも良い想い出として。


新作 蝶ネックレス スターリングシルバーバタフライネックレス。

2014-08-31 16:15:27 | 日記

8月22日(金)

午後、2時 ガラスペンをリボン包装して明日午前着で送って欲しいとの

電話依頼があった。

ご依頼のお客様は男性である。

弊社に在庫してあるので、直ぐに包装して宅急便で送り出す。

金曜日は、緊急発送が多い。

プレゼント品に悩み、ギリギリ時間に注文するのでしょう。

   

2月の豪雪の時、ご注文頂いた海外土産品の蒔絵ボールペンが

交通遮断で納品日に届かなかったことがあった。

 

緊急依頼には懸命に対応するが、想定外アクシデントがある。

お客様も依頼された私達も天候には十分気配りしましょう。

 

デザイナー女性が、新作の

 

 

 

蝶ネックレス スターリングシルバー バタフライネックレスを製作した。

秋近し、女性の胸元に蝶が舞い降りる。

 


減ルスメーターは肥ルスメーター?

2014-08-30 21:24:02 | 日記

8月30日(土)朝8時 外は小雨。

前夜 食べ過ぎ飲み過ぎだった。

雨が止んだのでの、9時、ジャージ姿で外へ

マンション中庭で夏祭りの準備が始まった。

 

通常はウオーキングなのだが、ジョギングすることにした。

足底筋膜炎の少々痛むが、トロトロ歩む。

雨上がりの遊歩道は路面が濡れていて

 

太陽の照り返しを防ぐので走り易い。

大きなお腹を揺すりながら、ゼイゼイ、ふーふー息弾ませ

幕張へ向かう。

 

朝 役所から私宛の郵便を開いた。

担当、包括支援課

内容は生活機能がよい状態に保たれているようです。

チェックリストを書いた記憶ないのだが?

 

役所からウオーキングを勧められるなんて

田舎行政も変わったな?

 

茜浜海岸沿いを走り、いつもウオーキングすると

海猫に餌を与えるオジサンが必ずいる。

そこで折り返し

腹筋台で腹筋20回、腕立て25回をこなす。

11時20分 自宅エントランス着。

中庭では祭りが始まっていた。

舞台ではフラダンスの女性群。

  

何で中年女性はフラダンスするのだろうか?

ふんわり衣装なので体がストーレート現れず

動きもスローだから?

  

シャワー浴びて減ルスメーターに乗った。

体重が3キロ減るすしていた。

 

昼飯にヘギソバとビール、ホッピー飲み

午睡した。

18時 入浴後、プラスメーターに乗った。

体重が3キロプラスになった。

 

前夜 水増し、した。

今日午前 水抜きしたが

午後、水は逆流した。

 結局 ジョギングは何だったのだろう?

 

沖縄にいる娘からメール。

砂山ビーチは綺麗だ!

昼ご飯は海の幸 てんこ盛り。

沖縄の魚旨いのかな?

 

 

本日の歩数計

19.338歩

16.127m

919カロリー

異常でした。

 


娘の旅支度。

2014-08-28 18:50:24 | 日記

8月27日(水)20時半帰宅。

娘が大型スーツケースと格闘中。

明日、始発電車で羽田空港に向かう予定だったが

沖縄、宮古島直行便のフライト時間に間に合わないことが判明。

職場を定時に終えて急いで帰宅準備。

急遽、今日羽田空港のホテルに宿泊することになった。

4泊して月曜夜に帰宅する。

 

海外旅行でもないのに、大型スーツケースとショルダーバッグ。

鍵が掛けられない程詰め込んだ。

21時半 小雨の中、ガラガラ引っ張り、肩にショルダー

右手に傘挿し、小柄な娘がケヤキ並木を歩いて行く。

 

7月に沖縄旅行だったが台風でキャンセルになり伊勢に行った。

 

9月から仕事が忙しくなる。

今年も、1月から6月までは土日祝日全て仕事

殆んど毎日午前過ぎの帰宅だった。

 

今年、最後の休暇を楽しむ。

 

昨夜は0時を回った頃にハイヤーで帰宅。

割と名の知れた記者だか評論家のような方と会食して

その方のハイヤーに便乗したそうだ

 

親父はハイヤーなど乗ったことは一度もない。

今後 あるとすれば、乗ったご本人は知らない霊柩車に乗るだけだ。

 

学業は今一だったが、ディズニーが好きで

高校はバイト禁止だったが、内緒でディズニーでバイトした。

大学入学後もディズニーのバイトと奨学金

日雇いのバイトもこなして学費を捻出。

 

ディズニーでの経験は社会人になって、大変役立っている。

ディズニー教育は学校教育より優ると言われる。

就職に有利らしい?

 

娘が生まれて直ぐに私は失業した

 

深夜、娘がハイハイして私に纏わりついた。

私は泣いていた。

これから、どうやって生きていけばいいのか?

2歳の息子と娘を何としてでも育てなければ!

 

絶えず死への誘惑が耳元で囁いた。

その囁きを振り払うためにも

屈辱に耐え、韓信の股くぐりも

泥水を浴びさせられるとことも耐えた。

 

娘は両親が自宅で夜なべ内職をしているのを見ていた。

 

息子の台湾留学費用も苦境であった私に代わって

今は介護病院にいるお袋が出してくれた。

 

老いてから、私は子供達に支えられている。

 

娘が嫁に行かないのが心配だ。

 

捨てる神あれば拾う神。

 

去っていく者あれば

黙って支える者あり。

 


2010年6月の手紙 2 再掲

2014-08-28 16:49:49 | 日記

2年前、2010年 3月に長い長い年月を経て友人に手紙を書いた。

それから梅の実熟す雨期がやってきた。

既にあいつはリバーサイドマンションには帰れなくなり

衣類を病院へ持って行くようになった。

郵便受けに葉書があった。

あいつへの病状回復励まし文面だった。

「食道癌に打ち勝って、関門海峡の夕日を眺め

酒を飲み、ふぐを腹一杯食べよう」

差出人は山口県下関、下関漁協に勤める大学同期で応援団長だった。

梅雨空の谷津干潟遊歩道を歩き病院へ向かった。

私はその葉書を持って緊急病室に入ったが

目を開くことも、私が読み聞かせることも出来なかった。

 

そして 私は又病状を知らせる手紙を書いたのだった。

安田団長殿

6月11日(金)上京され岡山君へ見舞い誠にご苦労様です。

お会い出来なかったのは残念です。

同日同時間、品川駅にて岡山君と合気道部同期で

副将をしていました薄井信幸君と岡山君の病状について

説明していました。

薄井君は大手建設会社の役員をしており

大阪に単身赴任中 奥様も合気道部です。

 

走馬灯のごとき過ぎ去った白金キャンパス

無頼の青春みんなで過ごしました。

そして壮年期、我々団塊世代はアジア諸国随一の高学歴

青年が日本の経済成長を押し上げました。

現在の世間からあまり評価されませんが

この団塊パワーがあったがため日本が一流国になったと

自負しています。

50代まで必死に働きました。

その間、学生時代を振り返る余裕とてなく

激務にまい進してまいりました。

今、60代 還暦を向かえ懐かしき友と酒酌み交わす

時がやってきました。

岡山君も懐かしき友を訪ねて関門海峡の夕日を眺め

酒酌み交わしたと、楽しそうに私に話してくれました。

 

11日 岡山君は元気であったと聞き驚きました。

お会いして心身に少し命の火が強くなったのでしょう。

10年前 山岳部同期であった坂本君が脳腫瘍で

危篤状態になり富山の病院に駆けつけました。

私はベッドの傍らで2時間以上眠り続ける坂本を

見ていました。

ふと、彼は目を開け私に手を差し出しました。

握り返すと目蓋は閉じ目元が振るえ 頬が動きました。

私がいることが分かりましたが思いを表すこと叶いませんでした。

それからまもなく旅立ちました。

今は立山連峰を仰ぎ見る富山平野から田の畔道にぽつんと立つ

墓標があります。

32歳で亡くなった父と共に彼が愛した剣の頂を見ています。

又同じく山岳部同期の羽山君も24歳の時北アルプスで転落死

最後を看取りました。

同期8人いましたが退学、退部等で

同期は私一人になりました。

又山岳部も現社会の若者に受け入られず

4年前、部員がゼロになり廃部となりました。

 

年年歳歳、花相似たり

歳歳年々 人同じからず

 

日暮れて道遠し

 

叶うなら40年前に戻りたい

 

6月20日の岡山君の状態は

殆ど眠るがごとき時折人の気配を感じると

目蓋が動き瞳孔が少し開くだけです。

分かっているのでしょうがいかんともし難い状態です。

妹様も医師より今後延命措置の有無を聞かれ

緊急処置をしないことに同意しました。

今後の事は追って本田君に伝えるつもりです。

取り急ぎ現在の状況をお知らせしました。

又、妹様からの希望で葬儀等はしない旨を皆様にお伝えくださいとのことです。

今後は親族とは関係無く、岡山君の偲ぶ会を

合気道部同期中心となって開きたいと存じます。

 

※       大変勝手で失礼なことでしたが貴君が岡山君宛

への励ましの手紙読ませて頂きました。

岡山君宛郵便物は私が数日おきに引き取り妹様に郵送しています。

 

6月20日午後3時弓道部にいた伊藤満君が来まして

谷津病院での容態を知らせてくれました。

かすかに瞳孔が動くのみで全身は動かず

息遣いが激しい。

見舞い訪問は無理だとのこと。

妹様と私と妻とで岡山君マンションで書類整理をし出しました。

今後法的事務処理は射撃部にいた綱嶋君が行政書士をしていますので

お任せする予定です。以上でございます。

 

2010年3月14日