高山清洲・世界平和 人類みんな兄弟

世界平和に導く為の語録

このままでは、脅され、奪われ、殺害される民族となる!

2013-01-27 11:56:13 | 憂国の情

海外では、セキュリティーに金がかかる!

テロの起こったアルジェリアのイナメナスのガス田は、陸の孤島であり周囲には何もない!

戦略的には、無謀な作戦である!

CIAの支援する民兵組織が、ある日突然「アルカイダ」となって石油施設を襲撃し、日本人10人を殺害したが、これは何を意味するのか?

日本企業は、アラブ人の生活が豊かになるために石油事業に協力しているのが、欧米の列強には目障りであった!

しかし、その前に無気力国民に成り果てた日本人が、世界中から舐められているという現実があることを認識しなければならない!

世界が羨望した大和魂を持つ強国である日本神話が、ガタガタと音御立てて崩れている!

これからは、類似した事件が世界中で起こるであろう!

いつの世でも、如何なる社会でも舐められたら、付け込まれることは、当たり前である!

北朝鮮を見よ!

イランを見よ!

 アルジェリア人質事件で、イスラム過激派武装勢力の計画準備や、天然ガス関連施設襲撃の状況が、現地紙や政府関係者の発言などから次第に明らかになってきたが、テロリストたちの用意周到さが分かる!

2カ月半前に命令

 現地紙シュルークが治安当局筋の話として伝えたところでは、拘束された武装勢力メンバーは、事件の2カ月半前、首謀者とされる国際テロ組織アルカーイダ系「イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ組織(AQMI)」のベルモフタール元幹部から、「(犯行)計画と命令を受けた」と供述していますが、本物のイスラム戦士であれば、仲間を売ったりしない!

「フランス人と英国人、日本人の計5人を人質にしリビアへ出国せよ」などと指示されていたとも発言しているが、イスラム戦士にしてはお喋りすぎます。

 実質犯行命令を下した組織を庇っているとしか思えない!

 つまり情報機関が、このような作戦を立案する場合には自らの存在を隠ぺいするために、まず反政府組織の中に潜入している情報機関のエージェントに対して、アルジェリア政府の施設を攻撃して政府に打撃を与えるという作戦を立てさせて実行しますが、本当の目的は日本人殺害なのです!

 当然、反政府組織は日本人殺害を知りませんが、世界を騒がせる作戦は成功したので満足して、声明を出したのです!

おそらく拘束された武装勢力メンバーは、本作戦を決行した主要メンバーであり、あらかじめ安全な場所に潜んで捕虜になったと考えます!

情報機関のエージェントということです!

かくして、買収されていた反政府の兵士たちは口封じのためにアルジェリア政府軍に混じった情報機関のエージェントに殺害されてしまったのです!

 

  さて事の顛末を検証してみましょう!

武装勢力は、カダフィ政権崩壊後の混乱が続くリビア西部の民兵組織から武器・弾薬を調達した。

カラシニコフ銃は1丁900リビアデイナール(約6万4千円)、ロケット弾は1200リビアデイナール(約8万6千円)というが、このような大金が反政府組織にあるはずもない。

 

 犯行グループは、同国で入手した車をアルジェリア治安機関の車両に偽装しリビアから密入国。武装勢力はもともと「マリ北部から来た」(アルジェリアのセラル首相)とされるが、周辺国にもアジトや支援網を確保していたことが裏付けられた?

襲撃は16日午前5時半ごろ、2グループに分かれて決行され第1グループは居住区を襲い、最初にプラント建設大手「日揮」の駐在員5人を射殺するなどして居住区を制圧、信号弾で仲間に合図を送り、外国人やアルジェリア人は広場に集められ拘束された。

 第2グループはガス生産区域に向かい、開門を拒否した地元警備員を殺害し侵入した。

このグループの一部は、同区域到着前に車が故障したため、施設から空港に向かうバスに目標を変更、この襲撃でバスに乗っていた日本人3人も殺害されました。

日本人殺害が目的であるということが、分かります!

元運転手が案内人!

 武装勢力は治安機関が「ベンシェネブ」と呼ぶ男の指揮下にあり、そのかたわらにはカナダ国籍の男が通訳として参加しており、ベンシェネブらは居住区を襲ったグループにいたとみられ、襲撃後ほどなくして始まった当局との交渉では、居住区内のスピーカーで当局とのやり取りを人質らに聞かせたというから、前代未聞のテロなのです!

 一方、内通者の存在が指摘される中、武装勢力側にも施設をよく知る人間がいた可能性が出てきた。

 現地報道によると、メンバーの一人で「マンジル」と呼ばれていた男が、施設を運営する英メジャー(国際石油資本)BPで運転手として働いていたことが新たに判明したが、生死は不明、案内役だった可能性が高いが今は、処分されていることでしょう。

 居住区で武装勢力は、アルジェリア人にはある程度の行動の自由を与えていたようだ。イスラム教の礼拝時間にはアルジェリア人全員に礼拝をするよう強要し、あるアルジェリア人労働者はシュルーク紙に「怖いから従った」と話しています。

爆撃で指揮官死亡していた!

 翌17日、ベンシェネブらは人質とともに車4~5台に分乗し、別グループと合流するためガス生産区域への移動を始めたが、アルジェリア軍はヘリで車列を爆撃、ベンシェネブはこの攻撃で死亡してしまった。生存した人質は2人だけだったという。

 生産区域では日本人1人を含む外国人らが、爆発物を巻き付けられた状態で車に押し込められていた。18日、生産区域で大きな爆発が起きた。

正確な時間は不明ながら、武装勢力が設備を破壊しアルジェリア経済に打撃を与えようとしたものとみられる。

指揮官を失って、交渉が進まないことにいらだっていた可能性もある。これに前後し、アルジェリア軍との銃撃戦が始まってしまい残る外国人の人質7人が殺害されてしまった。戦闘ではアルジェリア軍が、武装勢力を圧倒し、19日早朝、陸軍が生産区域全体を制圧、当局はその後、作戦終了を宣言した。

 現地マスコミの論評!

アルジェリアでの人質事件には、多くの謎が残されている。なぜ日本人犠牲者が最多になったのか!

軍隊に守られた場所が狙われた理由、武装勢力の動機もはっきりしない。海外の事件で日本の捜査当局による事実解明は難しい上、現時点では生存者からの聞き取りも厳しく、全容判明に向けた課題も浮上している。

  政府への要求未確認!

 今回の事件での日本人の死者は10人に上ったが、各国の犠牲者と比べ、その人数は突出している。

 事件発生の16日、武装勢力が出した犯行声明では、隣国マリへのフランスの軍事介入停止やアルジェリア政府に逮捕されている過激派メンバーらの釈放を求めていたが、情報機関の巧妙な攪乱戦術である!

 日本政府に対する要求は確認されておらず、日本人を人質に取り、殺害する理由は見当たらない。日本人10人が武装勢力に殺害されたのか、アルジェリア軍の作戦中に亡くなったのかすら詳細は不明で、状況を推測することもできない。

過去に日本人が海外で拘束された事件でも、これほど多くの人が殺害された例はない。多くのマスコミが、このように報道しているがマスコミも情報機関である!

 内部協力者は、誰か?

 「アルジェリアでは作業現場が軍によって強固に守られている」

日揮は25日に会見で明かした。宿舎は軍が守る「ミリタリーゾーン」にあり、一般人は入れず、過去に一人の犠牲者も出たことはない。武装勢力がなぜ簡単に制圧できたのかに関し、当時の警備態勢も含めてほとんど分かっていない。 武装勢力の犯行動機や手口について、現地や欧州のメディアは相次いで報道した。犯行当日に予定されていた英メジャー(国際石油資本)BP幹部と日揮などの幹部会合がターゲットだったとの見方や、首謀者とされる国際テロ組織アルカーイダ系組織の元幹部が武装勢力に「フランス人と英国人、日本人の計5人を人質にしリビアへ出国せよ」と指示したとする報道もあった。内部協力者の存在の疑いも報じられている。

捜査協力は不透明!

 犠牲者9人の遺体が到着した25日、神奈川県警は9人の遺体の司法解剖を実施した。刑法の国外犯規定に基づき殺人容疑などで捜査を始めた。日本政府も検証委員会の発足を発表した。ただ、日本の警察には国外で強制捜査する権限はなく、過去の海外での事件でも現地の警察当局との情報交換などにとどまっているのが実情という。

「現地の捜査機関がどれほど協力してくれるかは不透明な状況だ」と警察庁幹部は話すが、なんとも体たらくな話である。心身ともに「傷」を負った生存者への配慮が求められる中、早期の事情聴取は困難とみられ、事件の詳細な状況、犯行の背景事情などの解明には時間がかかりそうな状況である。アルジェリア人質事件で日本人駐在員10人らが亡くなったプラント建設大手、日揮(横浜市)は25日、イスラム武装勢力による襲撃の状況について生存者から聞き取りを進め、安全対策の検証を本格化させているが、海外では安全対策に金を使わなければならないということが理解できていない!

 日揮は25日の記者会見で、事件現場のガス田プラントや、プラントから3~4キロ離れた居住区について「軍によって強固に守られている。アルジェリア政府が保証する形で、長期間にわたり1人の犠牲者もなかった」と説明しているが、能天気にもほどがある!今回、武装勢力は、厳重な警備を突破して敷地内に侵入しているし、下請け会社の調理人が「内通者」だったとの海外メディア報道もあり、用意周到に行われた情報機関の極秘作戦であるということが解る!

 「アルジェリア軍がどのような形で交戦したのかはっきりとつかんでいない。結果的に尊い命が奪われ、とても悲しくつらい」

 真実は、ただ一つアルジェリア石油利権からの撤退要求である!

これからは、日本国内でもテロ組織の仕業に見せかけた暗殺や大規模テロが発生することが考えられます・・・・・!

 

 

 

 


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日本民族の伝統儀式と、悲劇の狭間で私は、烈士となることを深く心に刻んだ!

2013-01-27 00:31:36 | 憂国の情

本日は、四條中納言山蔭嫡流 四條司家四十一代の新年包丁儀式に来賓として、お招きいただき深く感銘を受けました。

 

明治神宮正殿にて、午前十一時三十分より厳粛に行事は行われ前列に御席を頂き歴史と伝統のある儀式に、悠久の時を感じました。

 

四条流の庖丁儀式とされる、巧みな庖丁さばきによる荘厳な技術披露が現在でも継承され、行われている。藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法を烏帽子直垂をまとった姿で再現し、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用いて、鯉・鯛・鰹などの素材に一切手を触れることなくさばいていくもので、各地の神事などで奉納される。

 

 

 厳粛な素晴らしい儀式であり、ただただ感銘するばかりでした。

午後一時からは、私学会館にて「松平恒忠さんの叙勲のお祝いと対馬丸記念会の新年会」に参加しました。

陛下のご学友の方々や、関係者の方々と懇談をして楽しいひと時を過ごしました。

 

以下転載

 

「対馬丸語り継ぐ悲劇」 

撃沈された疎開船の生き残り、記念館開館へ

著者 高良 政勝

太平洋戦争中に起こった「対馬丸」の惨事を知る人は少ないだろう。
沖縄から本土へ疎開する学童や一般県民ら千六百六十一人を乗せた疎開船対馬丸が鹿児の南約二百六十五キロの沖合で米潜水艦に撃沈され、約千五百人が犠牲になった。
○沖縄の疎開児童ら犠牲
当時四歳で船に乗っていた私が、遺族らでつくる対馬丸記念会会長の任を負って二年。次代を担う若者に平和の尊さを訴えようと、記念館開館にこぎ着けた。
対馬丸が撃沈されたのは一九四四年八月二十二日午後十時過ぎ。那覇港を前日夕に出航した船は奄美大島と屋久島のほぼ中間の悪石島付近を航行中に米潜水艦から魚雷三発を受け、十一分で沈没した。全長約百三十層の船は護衛艦二隻や他の疎開のための搬送船二隻と船団を組んでいたが、老朽船で速度も遅く敵の標的になった。
乗船者は本土疎開に参加した学童らと一般県民。生存者は一割ほどで、六~十五歳の学童は八百二十人余のうち七百七十五人が亡くなった。
○家族九人を失う
当時、沖縄近海では米水艦によって民間船舶が沈められていた。それでも船を出したのは、沖縄の島々に戦火が及ぶことは必至と考えられたからだ。日本軍は四四年七月七日のサイパン陥落とともに米軍を沖縄で迎え撃つ作戦を急いだ。軍の要請を受けた政府は沖縄県に、老人や婦女子を外に移すよう指示。本土に八万人、台湾に二万人を移した後に日本兵十万人の配備を考えていた。
私は幸運にも助かったが、父母や兄弟ら家族九人を惨事で失った。県の疎開船乗船者募集に父が応じ、鹿児島の学校に進んでいた長兄を除く一家十一人で渡航を図った。危険は父も承知していただろう。それでも子供の将来を案じ、那覇で営んでいた牛乳の製造販売を廃業。牛を売却して本土で再出発を図ろうとしたのだった。
船上でのことを私はほとんど覚えていない。甲板の下の暗い船室で遊び回っていた記憶がかすかにある程度だ。気がつくと洋上で樽のようなものにつかまっていた。救い出されて鹿児島で長兄と先に救助された姉と再会したのは事件発生から三日後の二十五日だった。全身の皮がむけ、背中に深い傷を負っていた。
当時、事件の報道は抑制され、戦後もあまり顧みられることはなかった。我々は大分県で終戦を迎え、翌年沖縄へ戻った。私は歯科医になり、毎年の慰霊祭には出たが、兄や姉は事件について話したがらず、詳しく聞くこともなかった。
○船体発見も回収不可能
そこに事件を見つめ直すニュースが飛び込んできた。九七年十二月、船体が水深八百七十㍍の海底にあると分かつたのだ。「やっぱり沈められていたんだ」と惨事の重みをあらためて感じた。船の引き揚げを求める声がわき上がった。国は船体の腐食や水深の深さを理由に不可能との見解を示した。その後浮上したのは記念館構想だ。用地は那覇市が提供、建設費は国の補助金でまかなうが運営は記念会の負担となるため遺族らからは消極的な声も出た。
そんな状況で、私は対馬丸記念会の会長に選出された。船体発見の折に、犠牲者への思いを「水に流せない過去」と題して県の歯科医師会の会誌に投稿。それが会の先輩幹部の目に触れたのだ。
記念館は船が出た那覇港を臨む旭ケ丘公園内に今年五月に完成。撃沈からちょうど六十年目の八月二十二日にオープンする。鉄筋コンクリーと造り二階建てで、延べ床面積約七百七十平方㍍。館の高さは対馬丸の甲板までの高さと同じ八・五㍍、二階に大きな吹き抜けを造って船内の雰囲気を出そうとした。
慰霊や遺品の展示だけではなく、生存者を中心とした語り部の活動も展開する。犠牲となった学童らと同年代の入館者に、罪のない人々の生命を奪う戦争の理不尽さを感じてもらいたいと思っている。
開館後は館運営を入館料や友の会会費、寄付金で切り盛りしなくてはならない。そんな中で会長になるのは火中の栗を拾うようなものという声もあったが断らなかった。
遺族らは高齢化で後世に語り継ぐ活動が十分にできないようになっているが、私はまだ六十代前半だ。沈没間際に誰かに助けられた命。ここで知らんぷりをしたらきっと後悔する、と思った。前途は多難だが、こうした惨事が起きるような世の中にはするまいとの思いが私を突き動かしている。(たから・まさかつ=対馬丸記念会会長)

「日本経済新聞」 大阪版では平成十六年六月二十五日掲載分から転載

この記事の掲載に当たり ご著者 高良政勝 様から「世界の平和を願うものとして、少しでも多くの人に対馬丸のことを知っていただけたらと思います」(ご主旨のみ抜粋)とのメッセージを頂いております。掲載ご許可ありがとうございました。

戦争でお亡くなりになられた数多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

以上転載

伝統と悲劇の狭間で、憂国の情抑えがたく涙しました!


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