レトロの小部屋

紙物を中心に古物を集めています。
ついでに所蔵品の思い出も。

年賀状 1 亥と子

2019年12月31日 09時58分31秒 | 絵はがき

ゆく年くる年。
亥年1911年、明治44年の年賀状です。

どちらも製造元は同じです。

製造元は違いますが、翌1912年、明治45年子年の年賀状です。

使用されていますが、モノクロ印刷で電報のデザインでもあり、めでたさが半減する雰囲気です。
予感していたかの様に、この年明治天皇は崩御されました。


最後の黒電話

2019年12月27日 11時35分08秒 | 民具、雑貨

受話器を外すと交換手が出る。
相手を伝えるとつないでくれる。

そんな時代の東京三越呉服店の絵はがきです。

「お急ぎの場合はお電話で」。交換手の女性が並ぶ写真と、発送のため荷造りしている写真です。

我が家の押し入れには最後の頃の黒電話が眠る。

ある日のこと、電電公社から「電話機を2000円で買い取りませんか?」と電話があった。

聞けば、毎月基本料金に200円のレンタル料が付随しているとの事。
10か月で元が取れる。買いますと即答した。

交換手を経なくても相手の番号のダイヤルを回すと直接つながる時代になると、爆発的に加入者が増えた。
しかし10年償還の債権を買って加入しなければならないので、電話を設置する事はちょっとかこいい?

転居する場合は電話機を引き取りに来て、転宅先では新しい番号と電話機が来た。
買い取ってからは、転居するときは電話を外して持って行った。
そのため電話機は掃除をしても次第に汚れてきた。

FAXや留守電機能でプッシュ式、電電公社もNTT、電話機は電機店で買う時代。

光回線にした現在、もうこの電話機は我が家では使えない。


外地への絵はがき 今と昔 港の絵

2019年12月19日 15時44分10秒 | 絵はがき

明治43年、瓜哇スラバヤへ。
瓜哇 この字ジャワと読むそうです。インドネシアです。

1920年あちらから、同じ港の絵はがきが届きました。
1920年は大正9年です。

双方の消印から判断しました。
赴任地ジャワへ届いた絵はがきを持ち帰り、日本にいる家族も送られてきたものを大事にしていた。

スマホのようにパラパラめくれるわけでもなく、何度もじっとながめて、死ぬまで大事にしたんでしょう。残っています。


軍事郵便 3 

2019年12月12日 13時13分21秒 | 絵はがき

軍事郵便の絵はがきです。

それぞれに男の子と女の子、支那風俗と書いてあります。

支那とは中国のことで戦前まではこう呼ばれていたそうです。
平成元年に逝った祖母は生涯、支那人とか、支那そば(ラーメン)と言っていました。

シナも、チャイナも語源は同じだそうです。

中国に置かれていた日本の機関から兵士に支給された絵はがきを、退役の折、持ち帰ったものと推察します。


平和記念絵はがき

2019年12月06日 15時56分14秒 | 記念(紀念)絵はがき

1918年(大正7年)11月11日、ドイツ休戦条約調印、翌1919年6月28日ベルサイユ講和条約成立で、第一次世界大戦が終結して、平和が回復したのを記念して同年7月1日、逓信省より袋入り2枚組10銭で発行されました。

少年少女と鳩、鏑木清方画。

収穫の図 南薫画。

記念切手とスタンプ。袋と各絵はがきは、別々に入手してセットを完成しましたので、このようになりました。

 当時、中国領土内の日本郵便や朝鮮管内の朝鮮総督府発行銘でも発売されました。

記念切手は1銭5厘、3銭、4銭、10銭の4種発行されました。上の切手は1銭5厘です。
当時、はがきは1銭5厘、手紙は3銭、海外へのはがきは4銭でした。10銭はなんでしょうか?