tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

埃ホテル

2016-06-14 19:26:45 | 日記
 最近気が付いたんだけど、掃除というのはどうやら化学らしい。

 これまでも重曹やクエン酸を買ってみたことはあったけれど、面倒になって、結局市販の薬剤を使っていた。
 それが、汚れというのは酸性かアルカリ性で、酸性の汚れにはアルカリ性を、アルカリ性の汚れには酸性を使えばよく効くという。

 と思ったら、何だか楽しくなってきて、手に取るものや目に見えるものを「これは酸性?アルカリ性?」なんて考えてみたりする。人間は、ビオレUによれば弱酸性らしい。生き物は弱酸性なんだろうか。なので人間の出す皮脂にはアルカリ性の重曹や、セキソ炭酸ソーダが効くらしい。酸性とアルカリ性が、中和して手を取り合って、なじむ様子がほほえましい。そして去って行くのだ。見方を変えて、酸性の皮脂汚れが悪、それを退治するのがアルカリ性、と思うと辟易する。

 とはいえ、やっぱりこざっぱりした所に住みたいのである。

 理想は、持ち物は過不足ない実用品のみ、あるべきものがあるべきところにあり(探したりしない)、物と言う物の上には塵一つ落ちていない。棚の上を指ですうっと撫でても、埃が寄ったりしない。
 ぴかぴかである。ぴかぴかで、余計なものは一つもない、というのが理想。

 でも自分でそうするのは難しい。たとえ一瞬出来たとしても、維持するのはまず無理だろう。物も塵も人間も、入って来ては、出て行って、そしてまた入ってくるのである。

 
 重要なのは、なぜそうあるのか、ということだ。

 それによって捉え方も違ってくる。
 
 いくらぴかぴかの清潔できっちりゴージャスにしてあっても、場合によってはそれが窮屈や嫌味に感じられたりするかもしれない。
 ホテルがぴかぴかの清潔でも嫌味に感じられないのは、「お客様に気持ち良く過ごしてもらおう」という前提を、こちらも了解しているからだ。じゃあ、自分の家をぴかぴかにする理由は。
 自分自身や家族をもてなしたい、ということになる。

 自分自身をもてなしたく、なくはないけれど。どちらかというと自分をもてなしたいところだけども。
 この場合もてなすのも、もてなされるのも、自分である(ややこしい)。だから、もてなす自分ともてなされる自分が、適当なところで手を打つというか、そこそこなところでバランスを取るのである。だから私の場合、ぴかぴかにならない。


 それでホテルだけれど、私は案外、埃が残っていたり蜘蛛の巣が張っていたりするホテルも嫌いではない。(程度によるけど)

 多分、その場合は、それがそのホテルの趣き、趣向だと私の感覚が捉えるんだろう。だからむしろ、ホテル側の気配りが行き届いているとさえ言える。
 そこの、そこに残った、埃のひとかたまりにさえ、綿密な心配りが行き届いているホテル。ありがとう、ホテル。ありがとう、コンシェルジュ。これも雰囲気ですね。

 いや、さっさと埃取れ、て感じもするけど。

 最悪なのは、心配りでない、ただのものぐさと悪意の埃ホテルに当たってしまった時だ。
 その時にはさらにその先へ飛び、その、悪意と佇まいを世の中の見聞として、楽しんでしまうしかないんだろう。もちろん、二度と泊まらない。

 


 

仮説を立てるということについて

2016-06-07 01:31:13 | 日記
 兵庫県の美方郡というところにある、安泰寺のHPに行ってみた。 → 安泰寺
 
 時々、かなり多めの時々、お坊さんの話を聞きに行ったり、坐禅の会に参加してみたり、そういうことをしてみたいなあと思うけれど、これもなかなか行かない。
 何故だろう。
 何だかわざわざ行くと、むずがゆくなってしまう気がするのだ。HPを覗くだけならむずかゆくならない。

 それで、安泰寺はすごい。
 修行といっても、一週間とかの体験修行みたいなものは無く、「最低でも3年間」と明記してある。ううむ。
 ちょっと3年くらい修行体験してこようっと。という発想は出てこないだろうな。カレンダーに予定入れておかなくちゃ。って言っても、入れる予定は当然出発の日だけで十分である。

 坐禅もすごい。

 「坐禅は龍の蟠るが如く颯爽たる姿勢と凛々たる気魄が籠っていなければならぬ。」

 「『此の身、今生に度せずんば、さらに何れの生に向かってか此の身を度せん』との熱烈な求道心に燃え、一分一秒をも惜しんで全身心を坐禅の一行に投げ込まねばならぬ。」

 HP内「坐禅の心構え」、「澤木興道老師の言葉より」からの抜粋である。
 しかもこれが、最初の一行と、次の一行である。華麗ささえ感じ、少し胸が熱くなる。
 一に坐禅、二に坐禅、三に坐禅のこのお寺では、ぼんやり気を抜いてる時などないに違いない。

 その後、九世住職であるネルケ無方さんの、先月出版された本に関するインタヴューを読んだ。→ インタヴュー記事
 「本書ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教ほかいろいろな宗教の経典およびその伝播が紹介・解説されていますが、(略)」とインタヴュアーが仰っている。読んでみたい。いや読みたい。いや読む。地球上を大移動した(ドイツから日本にという意味で)ネルケさんが、いかにその精神を浮遊させないでいられるのかが、それで少しは分かるかもしれない。

先月出版された本はこちら。↓
  仏教の冷たさキリスト教の危うさ (ベスト新書)

 今日の日記は、自分へのメモ書きだ。すぐに忘れちゃうから。忘れちゃうというより、毎日に流されてしまう。今日ももう終わりだ。あっという間。何かをしたようで、ほぼ何もしてない。「夕飯を作った」というのが唯一何かをしたと言えることだろうか。「作った」というには、ちょと簡単だったかもしれないけど。なのに、一日があと3時間くらい長ければいいのに、とも思ったりもする。でも実際一日があと3時間長かったら、疲れちゃってしょうかないような気もする。

 最初に書いたタイトル、「仮説を立てるということについて」をすっかり忘れていた。
 今、プレビューを見てびっくり。タイトルを書いておいて、忘れるなんてことがあるんだろうか。あった。仕方ないので、「仮説を立てるということについて」はまた今度。
 もう一度プレビューをチェックして、誤字脱字を直したらおやすみなさいということで。

 

 

『光の墓』

2016-06-02 16:21:34 | 映画-は行
 『光の墓』、アビチャッポン・ウィーラセタクン監督、2015年、タイ・英・仏・独・マレーシア。

 どうも映画が観られない、映画館へ足が向かないと言っていたけど、昨日久しぶりに新百合ヶ丘のアルテリオにて。

 何んでだろう、ウイーラセタクン監督の映画なら観たい、観られると思った。もう一本『世紀の光』というのをしていて、こちらは今日観に行こう。二本続けて観ようかと思ったけど、病み上がりなので(笑)一本でやめておいた。

 この監督は、無理に世界を切り取らないでいてくれるからかもしれない。切り取るなら切り取るで、もう思いっきり「他は知りませ~ん」という見ざる聞かざるのあっけらかんさならいいのだけれど、中途半端が一番、病にはいけない。


   


 『ブンミおじさんの森』のアソシエイト・リンクも、もう一度貼っておこう。


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