tokyoonsen(件の映画と日々のこと)

主に映画鑑賞の記録を書いています。

『LION ライオン~25年目のただいま』…無私の愛情に辿りつく話

2022-12-25 23:23:51 | 映画-ら行

 実話を元にした物語。実際のストーリーも、オーストラリアのドキュメンタリー番組としてYouTubeに上がっているが、かなりの部分を忠実に踏襲しているようだ。

 

 ドキュメンタリー番組のラストは(映画のラストとは異なり)、養母のスーもインドへ渡る。主人公のサルー、実母のファティマ、そしてスーの3人が抱き合って、語り合う様子が映されている。

 

 あらすじは、5歳のサルーは、母、兄、妹と共に、インド中西部の村に暮らしている。ある日、兄の仕事に付いて(ドキュメンタリーでは落ちている小銭を拾いに)駅へ向かうが、疲れてベンチで寝てしまう。すぐに戻ってくる、と言った兄は戻って来ず、目が覚めたサルーは動揺して泊まっていた電車に乗り込む。電車は回送電車で、そのまま約1800km離れた大都市コルカタへ。サルーはそこで浮浪児となる。

 映画の前半は、ほぼインドでの子供時代のシークエンス。サルーの家族、迷子になった日、コルカタでの生活、孤児院に入り里親に引き取られるまで、それぞれの経緯を描いている。

 前半は、抑揚に飛んでいる。愛情に溢れた母、兄との関係(寛容で優しい兄は、サルーにとって父であり母でもあり、サルーの守り神、そしてアイドルだった)は微笑ましく、幼い記憶は詩的に表現されている。

 コルカタの人混みに放り出された後、過酷な日々を生き抜いて行く。

 

 

 余談だが、世界7番目に大きな国土を持つインドは、地域によって言語が全く違うそうだ。一応、公用語は英語・ヒンディー語となっている。未だに英語が使われる理由は、民族的アイデンティティの違いがあるため、現実的にどうしても第二言語でのコミュニケーションが必要となるからだ。

 州公用語は18もあり、「一つの言語の方言」ではなく、構造も全く異なる別の言葉も多いそう。映画も言語ごとに作られ、いわゆる「ボリウッド」は北インドのヒンディー語圏の映画。

 また今年ヒットした『RRR』は、テルグ語の「トリウッド」。『RRR』が「融和の映画」と言われるのは、作内の描写のみならず、ボリウッドの俳優を起用したり、最初から他言語の吹き替えを配給するシステム創造からも、そう評価されているそう。

 ラージャマウリ監督以前は、ヒットした映画は、同じ脚本を使い、違う言語で撮り直していたそうだから驚く。「ゴジラ」のハリウッド版、を国内で幾つも作っているようなものだ。勿論俳優も違う。ゴジラは脚本は異なるので、ちょっと違うけど。ちなみにインドの観客は、字幕は嫌いだし、吹き替えは安っぽいと敬遠する傾向があるそうだ。(だとしたら国内の他言語、外国映画は観られないな。)

 歴史的にもイスラム支配や英国の植民地になる等、インドは外部の干渉を多々受けてきたが、その理由の一つに、国内が一枚岩ではない(複数民族、複数言語)ことが挙げられている。

 

 そんな、小さな島国に暮らす日本人には少し想像しがたいインドの言語事情だが、サルーも、コルカタで言葉が通じず困ってしまう。駅員にさえも、「お前は何を言っているのか分からない」と冷たくあしらわれ、雑踏の中でさまよい、兄や母を呼んで叫ぶ少年、いや幼児の姿は、とても切ない。

 そしてサルーは、家に帰ることをあきらめる。

 

 

 後半は、成長した20年後のサルー。オーストラリア人として幸せに暮らしている。ある日Google earthを友達に教わり、5年を掛けて、生まれ故郷の村を突き止める。

 5歳のサルーは、自分の村の名前を間違えて覚えていたし、自分の名前さえも正確ではなかった。そんなおぼろげな記憶の中から、景色や時間感覚の思い出を繋ぎ合わせて、コルカタから故郷への道を辿って行く。

 

 後半は心理描写がメインになる。

 描かれるのは大人の世界で、前半とはがらりと色調が変わるので戸惑うが、登場人物達それぞれの思いが重層的に表され、ラストの再会シーンに厚みを加えた。

 サルーの故郷への旅は、とても静かで内省的だ。再会シーンではやっぱり涙してしまった。

 

 ただ、「Google earth で故郷を探す」というアイディアは、事実であり、またアイディアとして斬新でありこそすれ、どうも映画向きではないようだ。

 5年(実際は6年)掛けて、広いインドの鉄道路線とその周囲を探って行くのだが、その様子は決してインパクトのある映像ではない。映像としては、力に欠けるように見えた。その為か、心理描写に時間が割かれるのだが、実際の動きや時間軸に沿った現実の変化に乏しく、前半と比べると失速したように思えた。

 

 印象的なのは、実母ファティマさんの言葉。サルーが必ず戻って来ると信じ村を出なかった彼女は、ドキュメンタリーで、育ての親のスーにこんなことを言っていた。

 「気遣い、ケアし、サルーに愛情を注いでくれる人がいますようにと祈っていました。あなたがそれをしてくれた。本当にありがとう。」

 何だろう。心にじんと染みる言葉だった。

 また養父母が衝動的なエゴで行動したのではなく、養子を迎えることが、十分に思索的な選択だったというのも幸運だったと思う。

 

 その後、どうなったのか。

 サルーはインドの母に新しい家を買い、二人の妹(映画では一人になっていたけど、実際は二人いた)に、十分な教育が受けられるように援助をする。そして、オーストラリアとインドを行き来し、二人の母との新しい人生を生きている。と、ドキュメンタリーでは締められていた。

 この映画では再会するところで終わっていたけど、ちゃんとその後の彼らを描写した方が良かったんじゃないか。

 と思ってしまった。

 

 

 『LION ライオン~25年目のただいま』、ガース・デイヴィス監督、2016年、豪。119分。原題は、『Lion』。デブ・パテル、ルーニー・マーラ、ニコール・キッドマン、サニー・パワール。

 第89回アカデミー賞、作品賞/助演男優賞(パテル)/助演女優賞(キッドマン)/脚色賞/撮影賞/作曲賞、ノミネート。第74回ゴールデングローブ賞、最優秀作品賞(ドラマ部門)/最優秀助演男優賞/最優秀助演女優賞/最優秀作曲賞、ノミネート。

 

 

幼少期のサルー役、サニー・パワール↓演技未経験と言うけど、自然で生き生きとした存在感に目を引きつけられた。

養母を演じるのは、ニコール・キッドマン↓ショートヘアも素敵。

実際のサルーの書いた本(原作)↓

 

 

 


『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』…アンビバレントな私

2022-12-21 03:09:42 | 映画-あ行

  前作『アバター』(2009年)、から13年。

 何が行われるんだろうと興味津々。早速、IMAX/4Kレーザー、HFR、3Dにて観て来た。

 

 さて、何があったかと言うと。

 迫力の水、海のシーンにはびっくり。予告も見ていたし想像はしていたけど、ひねくれた私の心もあっさり童心に。手のひらで転がされるとは正にこのこと。いつまでも観ていたいと思ったし、自分も水の中で浮遊しているような感覚で、登場人物と一緒に深呼吸をしてしまった。

 見たことのない生物が、自由に浮力と重力を駆使して泳ぎ回る。優雅に光を反射するプランクトンに囲まれて、自分の周りで、水と空気が一体になったような気持ち良さだった。

 この星のこの海が、架空のものだなんて全く信じられない。それくらいのリアルさで、自分の中の水に対する愛着を思い出させられたような感じだった。

 それと同時に、水の怖さ、空気を失う怖さも体験する。

 

 私達はジェームズ・キャメロンに騙されているんじゃないか?

 私達はと言うより、私は、だけど。何故、現実ではいけないのか。私は現実世界で水に触れることが出来る。水の豊かな日本で、蛇口をひねれば手に感じられるし、川の流れに触れ、海に潜り、雨に濡れることも出来る。空中で水滴が光るのも、丸みを帯びて髪を濡らすことも知っているし、飲むことだって出来る。

 

 ジェームズ・キャメロンは、探検家でもあるそうだ。

 2012年、ディープシーチャレンジャー号に乗って、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵に着底した。単独での潜行は世界初で、1960年トリエステ号に次ぐ人類2番目の地球最深部到達だったそう。(Wikipediaより)

 

 少年の頃から水、海、潜水艦に心を奪われていたジェームズ・キャメロンは、映画作家としても、水、海を舞台とし、液体を使った作品を作ってきた。ただ彼の体を介した水の体験は、そうは言っても、私達のそれとそう乖離していないだろう。何故なら、同じ人間だから。

 でも彼の心が体験した水、憧れた水、想像し感じ取り、味わった水は、一味も、ふた味も違うようだ。

 作中のパンドラという架空の星の、架空の海を使って、彼の心が捉えた美しさや恐怖や畏怖を、観客に伝えようとする。そのこだわりと熱情が、このとんでもなく新しい水の世界を、私に体験させてくれたようだ。

 

 

 ただね。

 私の心は、アンビバレントに引き裂かれる。大げさに言わせてもらえば。

 単刀直入に、脚本をもっとどうにか出来なかったものか。急に現実的なこと言うけども。細かい設定など、分かりづらいところは頭の中ですっ飛ばして良い部分だとして(気にするな、という監督からの合図)、にわかに賛同しかねる展開や、もやっとする部分があることは否めない。う~ん。個人の感想です。

 

 まあ、いいか。ネタバレしたくないので細かく書かないし、この過剰さの前では、そんなことどうでも良い気もしてきた。これは極上の映像詩を伴ったファンタジー。老若男女が楽しめる最先端。3時間あるけれど(!)

 何にしても、パンドラの星を世界の民に周知し、頭に叩き込み、手に入れたジェームズ・キャメロンはもう無敵なのだ。

 企画済みという第3作、4作、5作目も楽しみだ!本当に。

 

 

探検家キャメロンはこちら(ドキュメンタリーの予告編)↓ DEEPSEA CHALLENGE 3D Trailer | National Geographic

 

 

 少し心配だった3Dメガネは、軽くて、記憶よりも掛け心地が良かった。視界も広く、個人的にはほぼストレスは無かった。

 

 

 『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』、ジェームズ・キャメロン監督、2022年、米。192分。

 サム・ワーシントン、ゾーイ・サルダナ、シガニー・ウィーバー、スティーブン・ラング、ケイト・ウィンスレット。原題は、『Avatar : The Way of Water』。

 第80回ゴールデングローブ賞、最優秀作品賞(ドラマ部門)/最優秀監督賞、ノミネート。

 ちなみに製作費も第一級の約540億円。(『トップガン-マーヴェリック』は約230億円。)

 

予告でも公開されていたスーパーショット。↓人間もナヴィ族と手を繋ぎたいな。

役者さんは皆、パフォーマンス・キャプチャー撮影の為に、フリーダイビングを学んだそう。大変です。そしてケイト・ウィンスレットは何と、7分15秒息を止めることが出来るようになったらしい!(驚)

左側がケイトの演じたナヴィ族だけど、言われないと分からない。↓むしろ言われても分からない(笑)

森の民は豹のようで、海の民は魚のよう。↓ナヴィ族の耳の動きが好き。

前出のドキュメンタリー(2014、90分、米)。原題は『Deepsea Challenge 3D』↓

前作↓

 


にわかにも響く「監督のスーパープレイ」

2022-12-17 20:17:18 | 頭の中

 FIFAワールドカップ2022も、残すところ2試合。

 今晩24時に、3位決定戦のクロアチア対モロッコ。そして明日の24時には、決勝戦。アルゼンチン対フランス。

 

 ワールドカップの時だけサッカーファンになるという、「にわか中のにわか」歴も早24年。

 1998年フランス・W杯からの「にわか」で、言ってみれば根強く、筋金入りのにわかファンである。(何それ)

 

 今回は、「もう選手の名前も分からないし、見ない。」と決めていたけど、そんな決意も、崩れ落ちた。元サッカー部の旦那と、世の広告機関からの波状攻撃に、ディフェンス失敗したのである。

 

 で一回見ちゃうと、見ちゃうんですね。

 

 選手もサポーターも、監督も、ボールを追いかけ声を張り上げ、全身全霊で走り、喜び、悲しんでいるのを見るのは、本当に楽しい。そして、飛び出すスーパープレイに目を見開く。必ずどちらかのサポーターが喜び、どちらかのサポーターは悲しんではいるのだけど。

 

 スーパープレイを見ると、その時に感じる胸が躍るような感覚は、アクション映画のスーパーアクションを見ている時と似ているな、と思う。

 もちろん映画では、様々な演出やCGが使われている訳だけど、その瞬間、観客の心の機微を意図する映画監督の采配に、役者さんの身体性に、カタルシスを感じる。

 

 

 日本代表が敗退した後も、変わらずW杯を見てしまうのは、奇跡を見たいのかな。

 スーパープレイも凄いけど、選手も監督もサポーターも、全員が熱狂してその瞬間に没頭している。それだけでもう奇跡みたいなもんだ。

 

 

2年間で2841万回再生の監督スーパープレイ集。↓W杯関係なく、時々無性に見たくなります(笑) 

 

 


『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』…愛+愛=愛

2022-12-15 20:14:38 | 映画-か行

 『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』、ギレルモ・デル・トロ、マーク・グスタフソン共同監督。2022年、116分、米。原題は、『Guillermo del Toro's Pinocchio』。

 原作は、カルロ・コッローディ、『ピノッキオの冒険』(1883/伊)。

 

 12月9日からNetflixで配信されているけど、遅ればせながら劇場で鑑賞。

 

 ストーリー的にはとてもすっきりと、まとまっていたように感じた。

 ピノッキオのストーリーは、時代に合わせて、また映画化される度に少しずつ改変されるが、こちらもギレルモ風のピノッキオ。

 時代設定も第一次世界大戦頃に変更されている。

 

 ギレルモ・デル・トロ監督と言えば、造形の妙が注目され、SFやホラーのイメージがある。こちらの作品も個々のキャラクターや世界観は独特で、少し気味悪くもあり、いわゆる「かわいい」キャラは出てこない。

 ピノッキオさえも、洋服を着た「人間風」ではなくて、松の木目や裂け目もそのままの、いかにも「人形」といった造りだ。

 ただこれが、大きな意味を持っているようだ。

 

 丹精を込めて作られたのではなく、悲しみと怒りと絶望と、そして酒に朦朧としながら作られた、未完成の人形。

 原作のようにピノッキオは「人間の男の子」になるのではなく、そのままで、ありのままで、愛情や友情、思いやりとともに生きて行く。

 

 作中の誰しもが、「これが標準」という価値観を目指すのではなく、ある意味異形のまま生きて行く。「良い子」はいても、「普通の良い子」はいない。そんな世界観を表すのに、デル・トロ監督のピノッキオは最適役ではないだろうか。

 怪奇な世界で、どストレートに愛を語る。「ダーク・ファンタジー」と言うと、観客を驚かす、また奇をてらうような印象もあるけど、これはそういう作品ではなかった。むしろ「驚かないで」と言い聞かせてくるのだった。

 

 ラストシーンは最高だった。

 好きなラストシーンのマイ・ベスト5に入るかも(ランクを付けていないので感覚ですが)。後味の良い映画って、やっぱりいいなあ。

 

 

 第80回ゴールデングローブ賞最優秀長編アニメーション映画賞、第95回アカデミー賞最優秀長編アニメーション映画賞、受賞。

 

 ちなみに2008年にデル・トロ監督が、「ダーク・ファンタジー化したピノッキオ」の企画を発表してから、約14年。

 美しいストップモーション・アニメを作り上げてくれた、監督とスタッフの皆さん、そして出演者の皆さんに感謝です。表現された愛も素晴らしいけど、作り上げた愛と情熱にも感謝。

 

予告編 - Netflix

職人技の舞台裏 - Netflix

 

ピノッキオ役のグレゴリー・マン君の声がめちゃかわいい。↓透明感とはこのこと?

狂言回しのクリケット(コオロギ)役はユアン・マクレガー。↓

 

 

 

 


『ある男』…しかし言葉は接着剤でもある。

2022-12-14 01:26:47 | 映画-あ行

 『ある男』、石川慶監督、121分、2022年。妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜々。原作は、平野啓一郎『ある男』(2018)。

 

 中々のオールキャスト作品。

 たっぷり2時間という長めの映画だけど、柄本明やでんでんなど、節々に登場する大御所がぐいっと引っ張ってくれて、飽きさせない。

 安藤サクラの息子役、坂元愛登(まなと)くんが、良かったな。ラスト近くのシーンで母親の安藤さんと話をするんだけど、この重要なシーンはとても記憶に残った。自分の中では、作品のメインとも言える大切な台詞だった。

 

 別人に成り代わって生きることを選んだ、ある男。

 その是非を問うているストーリーでないことは明らかだ。では何を軸に生きて行くのかと言うと、先述の残された妻と息子の会話が全てだと思える。

 二人は「ある男」のことが好きだったし、「ある男」も、二人のことが好きだった。こう書くとまるで童話の中の文みたいで、少し笑ってしまう。けれどそれ以上に何があるだろうか。私の中で、結論はとてもシンプルだ。

 ラストで一つ、また展開を向かえるのだが、それは私にはあまり心地のよいものではなかった。

 

 身体性や今ここの感覚に基づかない世界の中で、堂々巡りをしている。

 

 そういう側面が私達にあるなら、それはそれで別にいい。

 しかし私達がそもそも、言葉のない世界に、完全なものとして(精神的に)生まれてきたんだとしたらどうだろう?

 「おぎゃあ」と生まれたその瞬間、その世界に、制約するものとしての言葉は何も無かったはずだ。自他を分断するものは無かったはずだ。おそらく、全てに満ち足りて、最初のひと呼吸をしたに違いない。ああ、大満足である。

 

 こういう映画を見ると、時々はそんな瞬間に戻りたくなる。

 

 さあとりあえず布団に入って、ぬくぬくと寝よう。しかし布団って気持ちいいなあ。

 

 

柄本明が出てくると目が覚める。↓素晴らしい怪人っぷり。

清野菜々さん。↓もう一人の「ある男」と彼女の涙が、母子の会話と対を成す。↓

言葉での関係性を築くまで、彼は絵を描いていた。↓

 

 


御殿場旅行

2022-12-11 01:21:25 | 日記

 静岡県の御殿場に行って来た。

 

 東名を西へ。御殿場の手前で、大雄山の最乗寺に寄った。

 曹洞宗のお寺。山を使った広大な境内には、至るところに天狗様の像が。奉納された高下駄も沢山。600年の歴史あるお寺は、樹齢何百年と思われる杉に囲まれていた。天狗に守られているという伝説があるそうだが、確かに何かに見下ろされていてもおかしくないような雰囲気だった。

 

 翌日は、箱根外輪山の乙女峠までハイキング。霧に煙った寒さの中、汗だくになって峠に到着。このまま箱根方面に下りることも出来るけど、来た道を戻る。峠からの富士山は、霧が濃くて見えなかった。

 

 午後には晴れ間が戻り、近くの平和公園へ。

 日蓮系の日本山妙法寺の境内が、そのまま公園になっている。一丘を使った広い公園で、インド風の門構えにも異国情緒を感じる。奥には大きな白亜の仏舎利塔。三十三体の観音様がずらりと並ぶ小道を通り、門近くの展望台まで戻ってくる。

 展望台からは富士山が見えた。「世界平和を祈る丘」と書かれていた。

 

 そして、羊羹で有名なとらやさんの「とらやカフェ」。目当てのどら焼きは売り切れで、あんみつとお茶をいただく。

 お隣の東山旧岸(信介)邸は以前に寄ったので、今回は寄らず。吉田五十八による近代数寄屋建築(1969年竣工)とのこと。市に寄贈され、現在はとらやのグループ企業が指定管理者となっている。

 

 御殿場プレミアムアウトレットモールは、それまでとは打って変わって賑やかな雰囲気。お寿司をいただいて帰宅した。

 


『ザ・メニュー』…天才シェフと、一糸乱れぬスタッフ達

2022-12-03 00:51:05 | 映画-さ行

 『ザ・メニュー』、マーク・マイロッド監督、107分、米、2022年。原題は、『The Menu』。

 レイフ・ファインズ、アニャ・テイラー=ジョイ、ニコラス・ホルト。

 

 伝説の料理人と言われる男がオーナー・シェフを務める、孤島のレストラン。ある晩、そこへ招待された十数名の男女が、とある「至高のフルコースメニュー」を提供されるのだが・・・というサスペンスもの。

※現在公開中の作品のため、これから観る予定の方は以下ネタバレにお気をつけください。

 

 

 さて、この作品。メニューが提供されるごとに、含まれる狂気が増して行く。それらは全て、精神的に未成熟なまま孤高のカリスマとなった、スローヴィクの人となりを表すものだった。

 

 もう一人の主人公、アニャ・テイラー=ジョイ演じるマーゴは、予定外の言動を通し、彼の別の一面を観客へ見せることになる。ただしその事が、レストランのコースメニューに変化を与えることはなく、つつがなく終焉を迎えるのが、伝説の料理人と、超高級レストランの気概のようなものを感じさせ、スクリーンにある意味恐ろしい崇高さを醸し出した。

 面白いのは、終始皇帝のように振る舞うスローヴィクが、全てを創造しコントロールしているわけでもないこと。

 「男の過ち」と名付けられたメニューの考案者である女性スタッフが、「今夜のコースのラストも私が考えた」と言っていて、具体的な死刑判決を下したのは、彼女であることが分かる。彼女の案(罰と言い換えても良いかも)を「至高のフルコース」に採用したのは、もちろん料理長であるスローヴィクだが。

 副シェフのシーンでは、スローヴィクが「お前は偉大にはなれなかった」と彼に語りかけていたが、私にはスローヴィク自身に向けた言葉のように聞こえた。当然この言葉は、数秒後に死ぬことになる副シェフにも当てはまる。だが、「偉大になれなかった」と自分を評価し、そんな自分を憎んでいるスローヴィクの独白であってもおかしくないだろう。

 なにせ今夜のサービスは、孤島に閉じこもった男の、脳内メニューなのだから。

 ベトナム出身のホン・チャウ演じるエルサも、興味深い存在だった。

 彼女はコンシェルジュの役割をしていて、まるで老練の執事のように職務をこなすのだが、後半マーゴとのやり取りの中で別の狂気を見せる。その際の彼女は、家父長制度の中の妻、夫に忠実に従い、自負と共にひたすら仕える妻を彷彿とさせる。もちろんそれは彼女だけのストーリーなのだが。

 

 

 この作品の、突拍子もないシチュエーションと展開に説得力を与えるのが、上記のように挟まれて行く描写だと思うのだが、それでも私自身はちょっと腑に落ちかねる。

 事あるごとに被害者を気取るスローヴィクだが、スタッフは何を共有していたのだろう。客はともかく(?)、自分達もコースメニューの為に仕入れられた材料となることに、何の喜びを感じたのか、今一分からない。

 とにかくシェフ役のレイフ・ファインズの顔が怖い。これぞ狂気の天才顔か。

 

 

フェリーに乗ってやってきた今夜のお客様達。↓料理が出される前に、一つ一つ説明を受ける。

イラつくけど少し可哀想な役回りはニコラス・ホルト(右下)↓

世界一緊張を強いるシェフ、スローヴィク。↓

アニャはライダースジャケットで登場。↓そして足元はブーツ。いいぞアニャ!