憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

6月29日30日 皇嗣家の方々

2022-06-30 23:51:42 | 皇嗣

😊 お美しい。メイクが明らかに変わられましたね。
画像からだけの情報なので間違っているかもしれませんが、マットな肌をつくって鼻筋にハイライト。眉は柳葉?遠山?。古風な日本人形のようです。
高松宮妃殿下は晩年、瞼から頬全体を赤く塗るというフランスロココ風の個性的なメイクをされていましたが妃殿下の高貴さによく合っていたと思います。
佳子さまの御所風メイクは佳子さまのやんごとなさを引き出していると思います。

どちらかというと、現代っ子、今時風という印象が強かった佳子さま。眞子さんの結婚に関わる言動は国民を失望させたという点では眞子さんと同じ。あれは失敗だったと周囲から言われたのか、妃殿下がお諭しになったのか。
古風なメイクに変えられ、髪を切られた佳子さまは皇嗣家の信頼を回復するため、弟のために力を尽くそうとされているように見えるのですが?



佳子さまが悠仁様を心から可愛く思っていらっしゃること、悠仁殿下もお姉様によく懐いていらっしゃること、御二人の間にある信頼関係が伝わります。
佳子さまは眞子さまのために何かしたい、と思うのと同じか、それ以上に悠仁さまの力になりたいと思っていらっしゃるでしょうね。

佳子さま、乳がんの学会創立30年式典ご臨席
昨日 14:43 産経新聞
秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまは29日、横浜市の横浜ベイホテル東急を訪れ、「日本乳癌(にゅうがん)学会」の創立30周年記念式典に臨席された。 

佳子さまは式典でのお言葉で、「乳がんは多くの人の人生に影響を及ぼしており、たいへんな思いをしている方々がいらっしゃいます」とご指摘。「医療が患者さんに寄り添いながら一層進歩するとともに、乳がんに対する社会全体の理解が深まること」を願われた。

30日フジテレビの情報番組「めざまし8(エイト)」(月~金曜前8・00)
フジテレビ皇室担当橋本寿史解説委員 
「今までは文学系、または運動系、子供系のものは、いろんな中でお言葉を述べられたけれど、医学に関しては初めてということもあって、大変勉強されていたんだなというのはとにかく感じた。公務に真摯に取り組んでいかれるという(ことを感じられる)言葉にもなっていました」


© 産経新聞「日本乳癌学会」の創立30周年記念式典に臨席された秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さま=29日午前10時57分、横浜市西区の横浜ベイホテル東急(代表撮影)
😊 秋篠宮ご一家は勉強家。佳子さまもイザとなれば勉強を厭うかたではいらっしゃいません。
「めざまし8」で勉強されたことを褒めていたようですが、私にはちょっと気になるところがあります。
医療が患者さんに寄り添いながら
皇族の方々は特権的立場にいらっしゃるので、特権的立場から国民のほうへ降りて「寄り添う」という視点になれていらっしゃるのかな?と思いました。
実際には、医療(に携わる人々)と患者は疾病というものに対して対等な立場です。医療(に携わる人々)と患者は共に協力し合って疾病に立ち向かうという認識が本当は正しい。難しいですね。


秋篠宮ご夫妻、行政相談委員60年記念式典ご臨席
30日 産経新聞
秋篠宮ご夫妻は30日、東京都新宿区の京王プラザホテルで行われた「行政相談委員制度60周年記念式典」に臨席された。昨年開催予定だったが、新型コロナウイルス禍の影響で延期されていた。

行政相談委員は、行政に対する苦情や、手続きに関する相談などを受け付けるボランティアで、総務大臣が委嘱している。

秋篠宮さまはお言葉で、この制度について「国際的にも高い評価を受けております」と述べるとともに、「皆様のたゆまぬご努力により、国民が安心して暮らせる安全な社会が保たれていくこと」を願われた。

式典では、長年活動に尽力した委員らに対する表彰や感謝状の贈呈も行われ、ご夫妻は拍手を送られていた。
 
© 産経新聞行政相談委員制度60周年記念式典に出席された秋篠宮ご夫妻=30日午後2時21分、東京都新宿区(代表撮影)

😊 皇嗣御夫妻は安定の公務。完璧です。 
雅子さまに続いて紀子さまも「白」? 妃殿下が素敵に着こなしていらっしゃるし殿下がスーツなので問題はありませんが、皇后の「白」と皇嗣の「白」が令和流なら勘弁して欲しい。

正統性とは別の話?・・『江戸後期の女性皇族の地位』森暢平

2022-06-29 00:42:58 | 皇位継承
光格天皇

伝皇女欣子内親王 御掻取
 紅綸子地柴垣松桜菊総繍肩裾御所解文様 江戸時代後期

現皇室の祖である光格天皇が即位したのは1780年譲位1817年。
フランス革命の緒となったパリ・バスティーユ牢獄の襲撃1789年。ヨーロッパ王室は大騒ぎとなるが日本では幕府はまだまだ安定。皇室と公家は幕府の支配下でそれなりの権威を保って、それなりに安定した日々。
そんな皇室に一大事出来。天皇が一人娘を残して遷化。
次代天皇の座を巡って色めき立つ人々。それなりの権威でも権威には諸々の実益が伴う。

安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家である閑院宮から新帝を迎えることになった。

後継候補者として
伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、
閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)
の3人があげられた。

先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。 (wiki)

推しとメンバーを眺めただけで権力闘争があったのだろうな。幕府と皇室メンバー関係者が右往左往したのだろうな、ということは誰でも分る。伏見宮家5歳の嘉禰宮 、閑院宮家9歳の祐宮。それぞれ一長一短ありで互角の勝負。祐宮に決定するまでには人間くさい話がいろいろとあったことでしょう。

以上を念頭に「サンデー毎日」の記事を読んで見ましょう。
 
江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か? 社会学的皇室ウォッチング!/38=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
<全文>
<抜粋>
今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。
当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。

これが森氏が今回言いたかったことのようだが…。
タイトルとは指し示すものが微妙に違うようにも見える。欣子内親王を例にして森氏は何を語りたいのか。詳しく読んでみよう。

*1816(文化13)年2月25日、20歳で出産した男子を2ヶ月で亡くして以来出産が無かった中宮欣子(36歳、満年齢に換算)は高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)を産む。
*その時、既に側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)に皇子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)15歳がいた。
寛宮恵仁親王は9歳のときに立太子の儀式を経て皇嗣(次の天皇)の地位にあった。(原文のママ)
森暢平、イヤラシイ書き方しますね。立太子した皇嗣なら、素直に皇太子と書けば良いところを皇嗣(次の天皇)と書くのは秋篠宮殿下の立場を当てこすっているのでしょう。
何故なら森氏は寛宮恵仁親王は即位するものの、傍系の「中継ぎ天皇」と見做されていたと後述している。
ところが<傍系の中継ぎ天皇>のはずがいろいろあって現皇室の先祖となって、その子孫を取り巻く人々が皇統は直系だ、長子だ、傍系に皇統が移るのはケシカランと大騒ぎ。
御先祖さまを見ろ!傍系の中継ぎ天皇の子孫なのに直系だ傍系だとオカシイでしょう。大笑。


光格天皇は、閑院宮家出身である。曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。

光格天皇の母の出自が卑しい。と言っていますね。だから何なの?
男系男子継承では母の出自は二儀的なものです。重要なのは畑ではなく「胤」ですから。

1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。
1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。

*1820年夏、人々。
 光格上皇(48歳)皇太后欣子(41歳)高貴宮(4歳)
 仁孝天皇(20歳)鍠宮(0歳)

光格天皇はまだ若い。譲位したのは皇太子寛宮を天皇にして、すぐに退位させ、欣子の子高貴宮を天皇にする筋書きだったのでしょう。

つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。 

中宮欣子に子が無く致し方なく側妃の子を皇太子としたら中宮に子が出来た。
中宮派としては、側妃の子を皇太子にしたのは早まった!と悔やんだことでしょうね。では中宮の子高貴宮が天皇になる目は無いのか。中宮欣子派は知恵を絞ったことでしょう。
欣子派が策を練っているうちに思いがけないことが起きる。

1821年、仁孝天皇が即位して4年。高貴宮(5歳)死亡。鍠宮(1歳)死亡。
1823年、仁孝天皇の正妻(女御)鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)(25歳)死亡。 

光格上皇(55歳)皇太后欣子(48歳)仁孝天皇(23歳)が残される。

😐 森氏は仁孝天皇を欣子の義理の息子と言い、欣子に子が年齢的に望めないことをもって1820年代の皇統の危機というが、どこが皇統の危機なのか理解に苦しむ。欣子には義理の息子でも光格天皇には実子の男皇子である。
天皇の実子である男皇子がいるのなら皇統の危機ではない。仁孝天皇は23歳。常識的に考えて子を何人か儲けることは可能でしょう。
実際、仁孝天皇には側室との間に何人か男子が生まれている。

またもし、仁孝天皇が男皇子が得られなくても世襲親王家のどなたかが天皇になられたでしょうから、皇統に危機などあり得なかったはずです。
そのようなこと森氏は当然充分に知っているだろう。それなのに、内親王欣子に子供が望めなくなったことをもって皇統の危機という。
此処まで読んでおおよそ結論は予測できるが先を見てみよう。
、、、

そのうちの一人、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。 

ハイ!おっしゃるとおり光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成の天皇、令和の天皇。。秋篠宮文仁親王。。悠仁親王と 皇統は保たれて行くでしょう。

維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。

孝明天皇即位の年まで生きたという欣子さま。一応形の上では仁孝天皇の母である。明治天皇から見れば曾祖母、三代前の天皇の皇后。盛大な陵墓石塔も明治の天皇の先祖への孝心と威信を示すためでもあったでしょうね。

愛子さまの正統性

😇 ほら来た!やっぱりね。

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

起こってません。女系天皇派、愛子天皇派が女系天皇、愛子天皇の実現を叫んでいるだけです。
また、始めに書いたように現皇室の祖である光格天皇がそもそも世襲親王家出身なのですから、愛子さまは直系、悠仁殿下は傍系と言い立てるのはナンセンスです。
では119代後桃園天皇の一人娘欣子さまはどうかと言えば、


上記の系図113代東山天皇の父112代霊元天皇は110代、111代天皇の兄弟。
107代後陽成天皇のそのうえは、

南北朝でぐっちゃぐちゃ。

こんな図だけ眺めて、森氏の言うことを聞いていると男系男子継承の本質が理解できなくなりますよー。

1何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。2江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、3愛子さまの継承には正統性が増す
 今回、強調したいことは、4皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。


😇 間違っているところに線を引いてみました。

1「何が何でも皇位継承は男系男子」という考えは近代の理論ではありません。
2 江戸時代の継承規則とやらに則しても愛子さまのほうが正統性が高いということはありません。天皇の娘のほうが世襲親王家の息子祐宮より正統性が高ければ欣子さまが即位していたはずです。
3愛子さまが男系男子と結婚しても愛子さまの正統性が増すということはありません。愛子さまには皇位継承の資格が無いからです。

光格天皇が欣子さまを皇后にしたのは、欣子さまを皇后にすることが天皇になる条件だったからです。
親が居ない幼い内親王が生きて行くには有力な後ろだてを得て有力な者と結婚するしかない。どんな有力者と結婚しても皇后以上の地位が与えられることはないでしょうしね。

 コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。

男女共同参画と宗教的背景を持つ皇位継承は別枠で考えるべきでしょうね。
それでも愛子さまをダシにして男女共同参画を語るのなら、せめて正確に事実を語っていただけませんでしょうか。

私の結論
欣子さまが皇室内で力をもっていたのは、天皇の娘であり皇后後に皇太后であるという社会的に高い立場を得ていたからです。
愛子さまもまた同様に天皇の娘という社会的立場にによって手厚い待遇を受けている。
即ち欣子さまにも愛子さまにも皇位継承に関わる正統性は無いが、社会的立場は高い。


スカスカから隠蔽へ?・・天皇御夫妻の予定表

2022-06-27 18:00:04 | 令和の天皇家
毎月曜日、朝日デジタルに宮内庁が発表した皇族方のご予定がUPされる。
以前は会員登録しないと全てが読めなかったので、無料会員に登録して内容を記事にしていたがその後間もなく会員登録しなくても読めるようになり今に至っている。

朝日デジタルになる前の朝日新聞のサイトには皇族がたの予定が今よりもっと細かく報じられていて、誰でも見ることができていた。
皇太子皇太子妃時代の今上と雅子さまのご予定は他の皇族の方々に比べて「スカスカ」「殆ど何も書かれていない。」「一体毎日何をしているのか」と噂されていたが、「何も無い」も予定の一つであろう。

ここ3週間、天皇御一家の予定は白紙どころか、まったく何も発表されなくなった。
では本当に何もしていないかと言えば、ご活動はその都度事後報告されている。
活動報告されるご活動はどれも準備を要するものばかりで、その日の朝に思い立って出来るようなことではない。何故予定発表できないのか。
令和の天皇御一家は矢っ張りオカシイ。

今日も今日とて、ご予定発表されていないお出ましがあったようです。

両陛下、日本学士院授賞式に出席 「お体に気をつけて研究を」と激励
朝日デジタル
天皇、皇后両陛下は27日、東京都台東区の日本学士院会館を訪れ、日本学士院第112回授賞式に出席した。 

今年度の日本学士院賞の受賞者は9人で、うち1人は恩賜賞も受賞。また、日本学士院エジンバラ公賞の受賞者は1人だった。授賞式後、両陛下は受賞者2人から説明を受け、研究について、天皇陛下は「どういう分野に役立つと思われますか」、皇后さまは「どういうことでこの分野に興味を持たれたんですか」などと質問。陛下は「お体に気をつけてご研究をお続けください」と激励していた。(多田晃子)


© 朝日新聞社日本学士院第112回授賞式に出席した天皇、皇后両陛下=2022年6月27日午前10時51分、東京都台東区の日本学士院会館、代表撮影


今年の芸術院賞授賞式。


昨年の日本芸術院賞授賞式。

昨年の日本学士院受賞式

天皇モーニング、雅子さまホワイト系のセットアップ。
が令和流のようです。

「白」は高貴な色、清らかさを表す色、だから天皇がモーニングを召されるような場に皇后が白のセットアップ(スーツ)を召されるのは間違っていない。という主張を愛子天皇派女系天皇派のブログで見かけたことがあるが…。

白いものさえ着ていればなんでもいいんかーい!?


6月27日~7月3日 ご予定

2022-06-27 15:17:55 | ご予定
宮内庁は6月27日~7月3日の予定を発表した。秋篠宮家の次女佳子さまは29日、横浜市内で「日本乳癌(がん)学会創立30周年記念式典」に出席する。

天皇御一家のご予定は今週も発表されていません。
連続3週続けてご予定に発表が無いのは初めてですが、今後はこれが常態になって行くのでしょうか。
注意して見続けて行きたいと思います。


皇嗣家(秋篠宮ご一家)
6/28(火)
秋篠宮ご夫妻 赤坂東邸(皇宮警察永年勤続功労者と面会)

6/29(水)
佳子さま 横浜ベイホテル東急(「日本乳癌学会創立30周年記念式典」に出席)

6/30(木)
秋篠宮ご夫妻 京王プラザホテル(「行政相談委員制度60周年記念式典」に出席)

7/1(金)
佳子さま 赤坂東邸(重要無形文化財「鍛金」保持者らから説明)

常陸宮家
6/30(木)
常陸宮さま ホテルオークラ東京(令和4年度全国発明表彰式)

三笠宮家
6/30(木)
瑶子さま 神嘉殿前庭(大祓の儀)

高円宮家
6/29(水)
久子さま 高円宮邸(日本サッカー協会会長らと面会)

7/2(土)
承子さま 東京アメリカンクラブ(米国独立記念日式典)

7/3(日)
久子さま 読売新聞東京本社(高円宮杯第74回全日本中学校英語弁論大会本部委員英語弁論大会決勝大会)


6月28日は先週の天皇皇后に引き続いて皇嗣皇嗣妃殿下が皇宮警察関係者とご面会。
ところで皇宮警察のほうから皇族方へ謝罪のことばはあったのでしょうか。
皇室に失望した皇宮警察が反乱でも起こすつもりなら別ですが、いくら皇族方の人柄が気に入らなくても部下の前で皇族方の悪口を言ってよい理由にはなりません。