憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

動き出したのか?皇位継承問題

2023-11-23 20:24:36 | 皇位継承
哄笑と追従笑い

(産経新聞)
10月30日


「自民としても(皇位継承は)喫緊の重要な課題だ。議論に貢献することを示すため、党内に総裁直属の会議体を設けた」
首相は30日の衆院予算委員会で、皇位継承に関する新組織に初めて言及した。新組織は麻生太郎副総裁を座長としていた懇談会を格上げする形となり、旧皇族の男系男子の皇族復帰案を軸に検討を進める


(産経新聞)
11月15日
内閣法制局の木村陽一第1部長は15日の衆院内閣委員会で、皇統に属する一般国民から男系男子を皇族とするのは、門地(家柄)による差別を禁じた憲法14条に抵触しないとの見解を示した。

安定的な皇位継承策を巡り浮上する皇族の養子縁組を認め、旧皇族男系男子が皇族復帰する案に関し「憲法14条の例外として認められた皇族という特殊な地位の取得で、問題は生じないと考えている」と答弁した。

産経新聞
11月17日
自民党の麻生太郎副総裁は17日、安定的な皇位継承策を検討する総裁直轄の懇談会の初会合で「具体的な方策については皇室典範などの法改正の必要性を考えなければならない」と述べた。

同じく産経新聞、11月17日
皇族復帰の養子制度は合憲 内閣法制局が見解
内閣法制局の木村陽一第1部長は17日の衆院内閣委員会で、皇位継承策を巡り、旧皇族男系男子を皇族復帰させるため現皇族の養子とする制度創設は「憲法の許容するところだ」との見解を表明した。

養子制度は、政府の有識者会議が答申に盛り込んだ一案で、自民党内で有力視されている。

その上で、皇族復帰できる対象は「皇室典範に委ねられている」とした。

😐 自民党内では「旧皇族男系男子を養子にする」案でまとまったということでしょうか。
一時、与党自民党が力を入れていた「皇女制度」より、まともな案ですが「皇女制度」が立ち消えになったように、養子案も風向き次第では立ち消えにならないとも限りません。

皇族復帰できる対象は「皇室典範に委ねられている」

皇族復帰できる対象については、これ以上のことは、今のところわかりません。
養子の受皿となる宮家の選択も課題となります。
旧皇室典範は天皇の養子は認めていませんでしたが、女系派は愛子さまの婿養子容認を主張するでしょうね。

皇室典範は男系男子による継承を前提として定められていますので、守谷さんも絢子さんのところの男子も養子の対象にはなりませんね。
さして乗り気でなかった千家国麿氏を引っ張って来る力量がある久子さまですから、その気になれば旧皇族男系男子を養子に迎えるくらいはお茶の子でしょう。
愛子さまのご両親には、欣子内親王 狙いの目が出て来たということでしょうか?
ならば、やっぱりキナ臭い。
復帰の範囲と継承順位の取り決めは要注意です。
養子は実子と同じ扱いになることを忘れているかたが案外いらっしゃるようですが、今上の婿養子は今上の実子と同じになることをお忘れなく。

お子様のいらっしゃらない常陸宮さまが旧皇族男系系男子のご養子をお迎えになるのなら、既婚で妻子のある男子でもお気に召す方なら可でしょうが、未婚の女王がいらっしゃる三笠宮、高円宮はどうなのでしょう?女王方の婿養子以外の養子では人間関係が難しくなりそうです。そもそも亡くなられた方の養子になることは出来ないのでは?

😐 養子案が出ても、女系天皇派は諦めない。
日本本来の皇位継承は男系も女系も容認の「双系」:動き出した女性天皇論議
2023.11.21 高森 明勅←😁
神道学者で皇室研究家でもあり、「愛子さまを皇太子に」運動(主宰者・漫画家小林よしのり氏)のオピニオンリーダーの高森明勅氏

例えば奈良時代の715年、女帝の43代元明天皇の後に長女の44代元正天皇が即位した。元正天皇は母親だけが天皇で父親は皇族だが即位していないので、当時の律令の規定にある「女帝の子」に該当し、母親の血筋で内親王とされた。同時代の法的な位置付けでは明らかに女系による継承だったといえる。

😱


元明天皇の子だから、女帝の子、すなわち女系の天皇だと、高森氏は言うが、、
祖父は天武天皇、父は天武天皇の皇子ですから、男系女子の天皇です。

双系とは父母がそれぞれに天皇の血を引いているということですね。
氏は愛子さまを念頭に、「天皇には天皇の子がなるべきだ」という思いに取りつかれているので、天皇の歴史をあるがままに見ることが出来ないのでしょう。
天皇の歴史は「天皇には天皇の子がなるべきだ」というせせこましい結論をもったままで見ていては理解できませんですよ。






チャールズを女系と見立ててほくそ笑む人

2022-09-25 01:05:13 | 皇位継承
昨日、23日宮皇居・皇霊殿、神殿では秋季皇霊祭儀、秋季神殿祭儀が行われました。雅子さまは遙拝・お慎みでした。漏れ聞くところに拠れば儀式そのものは15分程度で終るそうです。



高森 明勅氏は神道学者、皇室研究家というが、その思想的背景はなんだろう?論説の進め方が学者にしては我田引水過ぎる。この人、国民をミスリードしようとしている?




同国としては久しぶりに「女系」の君主が即位されることになった。新国王のチャールズ3世だ。

ミスリードです。
そもそもイギリス王室には、日本の天皇のような「天皇の正統性は男系男子継承にある。」という考え方は無い。
一応継承順位らしきものあっても、あって無きがごとく、状況次第で、どうにかしようとすれば、どうにかなったようだ。

ミスリーダー高森に惑わされないように、少しだけお復習い。

 *「イギリス」は日本語、正確には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国( United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)略してUK
国名からもイングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人がこの島の覇権を争った歴史が 浮かび上がって来る。




 *イギリスの王室に始まりは、諸説あるがノルマン朝 1066年ノルマン人のウィリアム一世即位をもってイギリスの王室の始まりとする説が有力。これ以後一人の王による国内統治が続いたため。
(実在と言われる天皇より600年くらい後だわ。しかもノルマン人ウィリアムは即位してもフランス王の臣下だった。)

最初の女王 メアリー一世 


ヘンリー八世 キャサリンーメアリー一世 (1553~1558)病死
       アン・ブーリンーエリザベス一世(1558~1603)病死
       ジェーン・シーモアーエドワード六世(1547~1553)病死

ヘンリー8世が1543年に制定した法律では、継承順位はエドワード、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世)であったが、1553年5月21日、ジョーン・ダドリーは自分の六男ギルフォードをエドワードの従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイと結婚させ、本来は継承順位が低いジェーンを後継として指名する遺言を崩御の床にあるエドワードに迫った。結局エドワードはそれを了承し、7月6日に15歳で崩御した。その4日後、ジョン・ダドリーはジェーン・グレイが女王になると宣言し、ジェーンは戴冠式に備えるためロンドン塔に入った。
ダドリー一派の目論見を危険視した政府は、急遽王女メアリー(メアリー1世)をロンドンへ呼び戻し、7月19日、民衆の熱烈な支持を受けながらメアリーは法に基づく正統の女王としてロンドンに帰還した。ジョンとギルフォードのダドリー親子、ジェーン・グレイは反逆罪で斬首刑となった。
(wikiより)
  
 ヘンリー八世が自分の血筋に拘ったチューダー朝は、5代エリザベス一世で終わり。エリザベス一世は生涯のライバルだったスコットラ女王の息子ジェームズを後継に指名。

 他に幾人かの王位継承権者がいたが、権力の移管は円滑に進められた。ジェームズの王位継承はヘンリー8世の第三王位継承法とヘンリーの妹メアリー・テューダーの系統が優先されるヘンリーの遺言を無視していた。これを調整するために議会は1603年王位継承法を可決した。議会が法令によって王位継承を統制できるか否かは17世紀を通じての議論となっている。(wiki)

自分達に都合の良い国王を立てるためなら、さっさと法を改正。



ジェイムズ一世を祖とするステュアート朝。チャールズ一世、チャールズ二世、の名がある。この二人のイメージが良くないので、チャールズ三世はチャールズ三世になりたくなかったそうだ。

ジェームズ一世の長男、チャールズ一世の子孫はアン女王で終わり、ステュアート朝も終る。アン女王には異母弟がいたがカトリックであったために、1701年議会は王位継承法を制定、王位はチャールズ一世の姉の娘ゾフィーの長男ゲオルグ(ジョージのドイツ語読み)へ。(このころドイツという国はまだ存在していない。300以上の領邦に分裂していた。)
またしても議会が新しい王位継承法を制定して、継承順位反古。
ミスリーダー高森が狙っているのは皇室典範改正による「愛子天皇」だろう。


1714年ジョージ一世即位、ハノーバー朝の祖。現イギリス王室のはじまり。

家名の改名 ハノーバー朝、ゴータ朝、ウィンザー朝
1901年のヴィクトリア女王の崩御後は、夫(王配)であったアルバートの家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。
その後、第一次世界大戦中に、ジョージ5世が敵国ドイツ帝国の領邦の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。


英国で女系の国王が即位したのは、ヴィクトリア女王の後に即位したエドワード7世(在位期間は1901年~1910年)以来のことになる。 

ミスリードです。
スチュアート朝の祖ジェームズ一世も現王室の祖、ハノーバー朝の祖ジョージ一世も女系の国王です。

>ところで日本国内では、「女系」による皇位継承は、王朝の断絶・交替を招き、皇位の正統性が失われ、国民の分断を惹ひき起こして、日本はもはや日本ではなくなる……などという穏やかならざる主張が一部でなされている。

果たして、このたび「女系」の新国王が即位した英国でそのような事態が起きただろうか。

ミスリードです。
見て来たように、日本の皇位継承と英国の王位継承は意味が違う。
男系男子による継承に正統性を見て続けて来たのですから、そこを変えたら天皇ではなくなる。皇統とは種の継承です。男は種、女は大地。古代日本人の農耕民族らしい素朴な信仰がもとになっていることを忘れてはいけない。
英国の王位継承は王権の相続、すなわち、地上の権力の相続。まったく違いますね。
王権は男でも女でも手にすることができるでしょうが、種はそうは行きません。

そんなこと神道学者の高森が知らない筈が無い。
知っててミスリードするからイヤですね。


”もう一つの天皇家”伏見宮

2022-07-09 23:27:11 | 皇位継承
一般社団法人日本文化振興会とはどういうところなのでしょうか。
ある集まりに出向いたところ席上で知人が表彰を受けることになったと発表があり受賞式が行われた。総裁の代理として表彰状とメダルを携えてきた老人に私のアンテナは何故か胡散臭いものをキャッチした。

帰宅後検索。
一般社団法人日本文化振興会 

総裁伏見博明氏 失礼ながら25代男系で続く伏見宮家ご当主の想像をうらぎる怪しい御風貌。日本文化振興会HP掲載の元写真はこれと思われる。
博明氏、サイトによって24代25代26代と重ねた代数が違う。日本文化振興会が25代としているので、一応25代とする。

現在の総裁は旧伏見宮家25代当主伏見博明氏であるが、初代総裁東久邇宮稔彦 氏 2代梨本徳彦氏 4代六條有康氏(昭和天皇従兄弟)と元皇族元華族の名が並ぶ。 
初代会長山田無文師、顧問北村西望 (長崎平和祈念像作成)現在の名誉会長は赤塚健。副総裁ドクター中松こと中松義郎。と有名人が並んでいる。
が、創始者桟勝正、会長八山元(張 永祥) とは何者?

事業内容は「顕彰」・・ますます胡散臭い。


ネットを検索したらこの写真がヒット。こちらの写真の博明氏の胡散臭さはまだましだが、この女性も受賞されるとは、やっぱり怪しい賞?。笑。
知人がどういう経緯で受賞することになったのか、探ってみましょう。

プレゼンターは件の老人以外にもそれぞれ社会的地位がある女性が二人付いてきて、それぞれ記念品を知人に手渡していたが、女性達の雰囲気が某宗教団体の婦人部長のそれに似ているのが気になった。

老人は挨拶の中で、博明氏が「殿下」と呼ばれて国際的に活動されていること、”伏見宮はもう一つの天皇家”であると崇光天皇から始まる伏見宮の歴史を簡単に紹介した。
まあ、確かに見ようによっては、伏見宮は”もう一つの天皇家”と言えなくもない。と妙に納得するとともに、自民党保守派が目論む「男系男子継承」の光景がふと見えたような気がした。
伏見宮自体は博明氏に男子がいないので、博明氏で男系は絶えてしまうが、現皇室を同じ崇光天皇を祖とする伏見宮の系統は流れを増やして現在に続いている。

伏見宮家の始まり。


順当なら崇光天皇の第一皇子栄仁親王が皇位継承するはずだが、皇位を継承したのは崇光天皇の異母弟。光厳天皇の第二皇子弥仁親王。
時は南北朝時代。皇位を巡ってまあ、ゴタゴタが。崇光天皇は栄仁親王の即位を強く願っていたが叶えることが出来ないままに崩御。このまま崇光天皇の系統に皇位は巡って来ることなく、南朝に三上皇 と皇太弟直仁親王を拉致された京都で三種の神器も無いままに即位した後光厳天皇の系統が後小松天皇の代に南北統一も出来、そのまま続くかと思ったら称光天皇の後が続かずあっさり終わり。
崇光天皇の曾孫、栄仁親王の孫の兄が後花園天皇、弟が伏見の宮家を継承して今日に至る。

伏見宮家は皇統が戻ったと喜んだが、貞成親王の兄、影の薄い治仁王が気になる。
治仁王は兄、貞成親王は弟。治仁王は貞成親王を猶子にして、栄仁親王薨去後跡を継いだが数ヶ月前で急逝。貞成親王に兄毒殺の嫌疑がかけられた。
「長子が~」と声高に主張する人々は、現在の皇室の家祖である後花園天皇の実父が弟であったこと、そして兄毒殺の嫌疑をかけられていたことを何と思われるやら。


奈良県五條市賀名生の皇居跡。
足利尊氏に追われた後醍醐天皇が吉野へ向かう途中滞在し、南朝後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の皇居になった。現在も正統の天皇は南朝、と主張する人々もいる。



😊 兄彦仁王が後花園天皇に、弟貞常親王が伏見宮当主になって以降、現天皇家と伏見宮家は絡み合いながら歴史を重ねて行く。
私は伏見宮家一族は後花園天皇から始まる現天皇家の伴走者と理解しているが、”もうひとつの天皇家”という主張も解るような気がします。


正統性とは別の話?・・『江戸後期の女性皇族の地位』森暢平

2022-06-29 00:42:58 | 皇位継承
光格天皇

伝皇女欣子内親王 御掻取
 紅綸子地柴垣松桜菊総繍肩裾御所解文様 江戸時代後期

現皇室の祖である光格天皇が即位したのは1780年譲位1817年。
フランス革命の緒となったパリ・バスティーユ牢獄の襲撃1789年。ヨーロッパ王室は大騒ぎとなるが日本では幕府はまだまだ安定。皇室と公家は幕府の支配下でそれなりの権威を保って、それなりに安定した日々。
そんな皇室に一大事出来。天皇が一人娘を残して遷化。
次代天皇の座を巡って色めき立つ人々。それなりの権威でも権威には諸々の実益が伴う。

安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家である閑院宮から新帝を迎えることになった。

後継候補者として
伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、
閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)
の3人があげられた。

先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。 (wiki)

推しとメンバーを眺めただけで権力闘争があったのだろうな。幕府と皇室メンバー関係者が右往左往したのだろうな、ということは誰でも分る。伏見宮家5歳の嘉禰宮 、閑院宮家9歳の祐宮。それぞれ一長一短ありで互角の勝負。祐宮に決定するまでには人間くさい話がいろいろとあったことでしょう。

以上を念頭に「サンデー毎日」の記事を読んで見ましょう。
 
江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か? 社会学的皇室ウォッチング!/38=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
<全文>
<抜粋>
今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。
当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。

これが森氏が今回言いたかったことのようだが…。
タイトルとは指し示すものが微妙に違うようにも見える。欣子内親王を例にして森氏は何を語りたいのか。詳しく読んでみよう。

*1816(文化13)年2月25日、20歳で出産した男子を2ヶ月で亡くして以来出産が無かった中宮欣子(36歳、満年齢に換算)は高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)を産む。
*その時、既に側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)に皇子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)15歳がいた。
寛宮恵仁親王は9歳のときに立太子の儀式を経て皇嗣(次の天皇)の地位にあった。(原文のママ)
森暢平、イヤラシイ書き方しますね。立太子した皇嗣なら、素直に皇太子と書けば良いところを皇嗣(次の天皇)と書くのは秋篠宮殿下の立場を当てこすっているのでしょう。
何故なら森氏は寛宮恵仁親王は即位するものの、傍系の「中継ぎ天皇」と見做されていたと後述している。
ところが<傍系の中継ぎ天皇>のはずがいろいろあって現皇室の先祖となって、その子孫を取り巻く人々が皇統は直系だ、長子だ、傍系に皇統が移るのはケシカランと大騒ぎ。
御先祖さまを見ろ!傍系の中継ぎ天皇の子孫なのに直系だ傍系だとオカシイでしょう。大笑。


光格天皇は、閑院宮家出身である。曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。

光格天皇の母の出自が卑しい。と言っていますね。だから何なの?
男系男子継承では母の出自は二儀的なものです。重要なのは畑ではなく「胤」ですから。

1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。
1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。

*1820年夏、人々。
 光格上皇(48歳)皇太后欣子(41歳)高貴宮(4歳)
 仁孝天皇(20歳)鍠宮(0歳)

光格天皇はまだ若い。譲位したのは皇太子寛宮を天皇にして、すぐに退位させ、欣子の子高貴宮を天皇にする筋書きだったのでしょう。

つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。 

中宮欣子に子が無く致し方なく側妃の子を皇太子としたら中宮に子が出来た。
中宮派としては、側妃の子を皇太子にしたのは早まった!と悔やんだことでしょうね。では中宮の子高貴宮が天皇になる目は無いのか。中宮欣子派は知恵を絞ったことでしょう。
欣子派が策を練っているうちに思いがけないことが起きる。

1821年、仁孝天皇が即位して4年。高貴宮(5歳)死亡。鍠宮(1歳)死亡。
1823年、仁孝天皇の正妻(女御)鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)(25歳)死亡。 

光格上皇(55歳)皇太后欣子(48歳)仁孝天皇(23歳)が残される。

😐 森氏は仁孝天皇を欣子の義理の息子と言い、欣子に子が年齢的に望めないことをもって1820年代の皇統の危機というが、どこが皇統の危機なのか理解に苦しむ。欣子には義理の息子でも光格天皇には実子の男皇子である。
天皇の実子である男皇子がいるのなら皇統の危機ではない。仁孝天皇は23歳。常識的に考えて子を何人か儲けることは可能でしょう。
実際、仁孝天皇には側室との間に何人か男子が生まれている。

またもし、仁孝天皇が男皇子が得られなくても世襲親王家のどなたかが天皇になられたでしょうから、皇統に危機などあり得なかったはずです。
そのようなこと森氏は当然充分に知っているだろう。それなのに、内親王欣子に子供が望めなくなったことをもって皇統の危機という。
此処まで読んでおおよそ結論は予測できるが先を見てみよう。
、、、

そのうちの一人、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。 

ハイ!おっしゃるとおり光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成の天皇、令和の天皇。。秋篠宮文仁親王。。悠仁親王と 皇統は保たれて行くでしょう。

維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。

孝明天皇即位の年まで生きたという欣子さま。一応形の上では仁孝天皇の母である。明治天皇から見れば曾祖母、三代前の天皇の皇后。盛大な陵墓石塔も明治の天皇の先祖への孝心と威信を示すためでもあったでしょうね。

愛子さまの正統性

😇 ほら来た!やっぱりね。

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

起こってません。女系天皇派、愛子天皇派が女系天皇、愛子天皇の実現を叫んでいるだけです。
また、始めに書いたように現皇室の祖である光格天皇がそもそも世襲親王家出身なのですから、愛子さまは直系、悠仁殿下は傍系と言い立てるのはナンセンスです。
では119代後桃園天皇の一人娘欣子さまはどうかと言えば、


上記の系図113代東山天皇の父112代霊元天皇は110代、111代天皇の兄弟。
107代後陽成天皇のそのうえは、

南北朝でぐっちゃぐちゃ。

こんな図だけ眺めて、森氏の言うことを聞いていると男系男子継承の本質が理解できなくなりますよー。

1何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。2江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、3愛子さまの継承には正統性が増す
 今回、強調したいことは、4皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。


😇 間違っているところに線を引いてみました。

1「何が何でも皇位継承は男系男子」という考えは近代の理論ではありません。
2 江戸時代の継承規則とやらに則しても愛子さまのほうが正統性が高いということはありません。天皇の娘のほうが世襲親王家の息子祐宮より正統性が高ければ欣子さまが即位していたはずです。
3愛子さまが男系男子と結婚しても愛子さまの正統性が増すということはありません。愛子さまには皇位継承の資格が無いからです。

光格天皇が欣子さまを皇后にしたのは、欣子さまを皇后にすることが天皇になる条件だったからです。
親が居ない幼い内親王が生きて行くには有力な後ろだてを得て有力な者と結婚するしかない。どんな有力者と結婚しても皇后以上の地位が与えられることはないでしょうしね。

 コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。

男女共同参画と宗教的背景を持つ皇位継承は別枠で考えるべきでしょうね。
それでも愛子さまをダシにして男女共同参画を語るのなら、せめて正確に事実を語っていただけませんでしょうか。

私の結論
欣子さまが皇室内で力をもっていたのは、天皇の娘であり皇后後に皇太后であるという社会的に高い立場を得ていたからです。
愛子さまもまた同様に天皇の娘という社会的立場にによって手厚い待遇を受けている。
即ち欣子さまにも愛子さまにも皇位継承に関わる正統性は無いが、社会的立場は高い。


御身位の事 (3)皇位継承の絶対条件は「男系男子」

2022-05-09 15:05:03 | 皇位継承
雀の学校


今更言うまでもないが、皇位継承の絶対条件は「男系男子」です。

皇室典範 第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

皇室典範が決めたから、皇位継承の絶対条件が「男系男子」になったわけではない。皇室典範は、天皇の始まりから皇位が男系男子によって継承されてきたことを明文化しただけです。
いつ、と知れないくらいずっとずっと昔から、皇位は男系男子によって継承されてきた。いつ、と知れたあたりからでも1600年くらいは続いている。それが「天皇」です。




皇位継承の絶対条件は「男系男子」
長子相続は皇位継承資格のある男性の順番を定めるための方便ですね。
大半のものが納得できる物差しで順番を決めておかないと争いが起きるからね。
居並ぶ男系男子達に長子優先の物差しを当てて順番を決めて、その順番を「身位令」に明記しておいてさえ、「愛子天皇系列の皇位継承」を目論むものが出て来る。

「愛子天皇」派は「皇位は最近親の系統に伝える」が皇位継承の絶対条件だと、こともあろうに男系男子による継承を前提として書かれている皇室典範を引いて主張する。

曰く
皇位継承の絶対条件は「皇位は最近親の系統に伝える」 
皇室典範は直系優先の原則を示している。


↑「愛子天皇」派が添付している画像。
②に赤線を引いて強調して曰く
継承の"順序"の基となっている継承条件は、
・最近親の系統の皇族  [第1章皇位継承 第2条2項]
・長子優先                         [第1章皇位継承 第2条3項]
・皇統に属する男系男子 [第1章皇位継承 第1条]

😱 皇位継承の絶対条件 皇統に属する男系男子 を順番を決める物差しの下に置いてはダメでしょー。

第一条は皇位継承資格の明記。
第二条は皇位継承順位の明記。
内容が別物です。
継承順位について定めている第二条をもって継承条件を語るのは間違いです。恣意的言葉を換えているのなら、かなり悪質です。


②第二条第二項 前項各号の皇族がないときは・・即ち一~七までの全員ないときは、
一~七までの全員がないとはどういうことでしょうか親等図を見てみます。

図の3伯父叔父とその子4従兄弟・・まで絶えていたら、
②皇位はそれ以上で最近親の系統の皇族にこれをあたえる。
この図でいえば、4親等の祖父の兄弟(伯叔祖父)
この図は一般人向けなので、女性親族も記載してあるが、皇室典範第二条は皇位継承資格のある男子のためのものです。

😱 「愛子天皇」派は一~七の全てが絶え場合を想定した第2条2項を根拠に秋篠宮殿下は正統な皇位継承者ではないと主張する。
曰く
最近親の系統は、天皇の血縁者の中で最も血縁が近い方とその子孫である。
→それは愛子さまだと言いたいらしい。

血縁関係の遠近に性別は関係ないので、男子の中で最も血縁関係が近い方とその子孫は、最近親の系統とは認められない。
今上の子である愛子さまのほうが、今上の弟である秋篠宮殿下より血縁関係が近い。最近親の愛子さまを差し置いて皇位継承者を名乗っている秋篠宮殿下は皇位簒奪者だと言いたいらしい。

最近親の系統が女子のみで継承1位が最近親の系統ではない場合、継承条件をすべて満たしていない為、法的な問題が生じる。
男子である事より最近親の系統の皇族である事の方が重要なのである。
皇室典範 第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
     第二条六皇兄弟及びその子孫
の両方を満たしているのですから秋篠宮殿下が皇位を継承されるのに法的な問題は何もありません。
「愛子天皇」には法的根拠はありません。

近親の系統の皇族が必ず皇位に就く
という前提で、皇族の序列は、最近親の系統が上位を占めるように「直系優先」となっているのだ。
→違いますよ。御言葉を借りて言うならば
男系男子の皇族が必ず皇位につく。という前提で、皇族の序列は長子優先で決められている。です。
お間違えのないように。ね。