このようにして準備は進み、祭の重要性が徐々に増していた1912年にある変化が起こった。この年、一人の帰依者クリシュナラオ・ヨゲシュワール・ビーシュム氏(“Sai Sagunopasana”の著者)がアマラヴァティのダダサヘブ・カパルドと共に祭にやってきて、前日にディクシット・ワダに滞在した。彼がベランダで横になっていると、ラックスマンラオ、別名カカ・マハジャニがマスジッドにプジャの道具を持って行こうとしていた。その時ビーシュムにある考えが浮かんだので、カカに近寄って声を掛けた。ウルスがラーム・ナヴァミの日にシルディで祝われるようになったのには神意による配慮であった。
ラーム・ナヴァミはヒンドゥー教徒にとって非常に大事であったので、ラーム・ナヴァミ祭を実施して、この日にスリ・ラーマの誕生をシルディでも祝おうじゃないかと持ちかけたのだ。カカ・マハジャニはこのアイデアを気に入ったので、ババの許可を取ることになった。最も困難な点は、どのようにして’キルタン’を歌い主の栄光を讃えるハリダスを確保するかということだった。
だがビーシュムは、ラーマの誕生を歌った楽曲‘ラーム・アキヤン’を用意しているから彼自身が’キルタン’を行うと言い、一方でカカ・マハジャニがハーモニウムを演奏することにしてこの問題を解決した。またラーダクリシュナマイが、プラサドとして’スンタヴァダ’(生姜の粉に砂糖を混ぜたもの)を用意するよう手配にかかった。そこで彼らはすぐにババの許可をもらいにマスジッドへ行った。
事の次第を全て知っていたババは、ワダで何が起きているのかとマハジャニに尋ねた。混乱したマハジャニは質問の主旨を捉えられず黙ったままでいた。するとババはビーシュムに尋ねた。彼はラーム・ナヴァミ祭を祝うというアイデアについて説明し、ババの許可を求めると、ババはこれを喜んで許可した。皆が喜び、ジャヤンティ1祭の準備が行われた。
翌日マスジッドは薄布などで装飾され、ラーダクリシュナマイによってキャンドルが配られてババの椅子の前にも置かれ、一連の行事は始まった。ビーシュムはキルタンを演じるために立ち上がり、マハジャニはハーモニウムを演奏し始めた。サイババはマハジャニを呼びに人をやった。彼はババが祭の続行を許可しないのではないかと訝り、ババのところへ行くのを躊躇した。
だが、ババのところへ行ってみると、ババは何が起きていて、なぜここにキャンドルが置かれたのかを彼に尋ねた。彼はラーム・ナヴァミ祭が始まったので、キャンドルはそのために置かれたと答えた。するとババは’ニンバー’(壁龕)から花輪を取り、彼の首にかけると、もう一つの花輪をビーシュムの首にもかけた。それからキルタンが始まった。キルタンが終わりに近づくと、”ラーマに勝利を”の音楽が盛り上がり、バンドが演奏する中でグラル(色つきの粉)があちこちに振り撒かれた。
全員が大喜びしている中、突然怒号が聞こえた。赤い粉が乱雑に振り撒かれ、どういうわけかそれがババの目に入ってしまった。ババは激昂して、大声でののしり始めた。人々は恐れおののいて逃げ出してしまった。ババを良く知っているババに近い帰依者はこうした小言や感情のほとばしりを、憤りの形をした祝福と受け取った。ラーマが生まれたとき、ラヴァンや悪魔たちの形をとったエゴイズムや邪悪な思念に激怒し彼らを殺すのは、ババにとっては適切なことだと彼らは思っていたからだ。
彼らが知っていることの他にも、何か新しいことがシルディで行われるたびに、ババは興奮して怒るのが常だったので、彼らは黙っていた。ラーダクリシュナマイはババがキャンドルを壊しはしないかということの方を恐れて、マハジャニにキャンドルを持ち帰ってくるよう頼んだ。彼がキャンドルを緩め、外そうとしていると、ババがやってきて外さないようにと言った。
しばらくしてババは穏やかになり、マハプジャやアーティを含むその日のプログラムは終了した。その後、マハジャニ氏はババにキャンドルを外してよいか尋ねたが、ババは祭はまだ終わってないと言ってこれを拒んだ。翌日別の’キルタン’とゴーパル・カラの儀式(乾いた米に凝乳を混ぜたものを入れたポットが吊るされ、‘キルタン’の後に壊して、主クリシュナが彼の牛飼いの友達に分け与えたように、中身を皆に分配するもの)が行われた後、ババはキャンドルを取り外すことを認めた。ラーム・ナヴァミ祭が行われている間、昼は2つの旗の行進が、夜は’サンダル’の行進が華やかに行われた。これから後、’ババのウルス’はラーム・ナヴァミ祭に姿を変えていったのである。
翌年(1913年)から、ラーム・ナヴァミのプログラムの項目が増え始めた。ラーダクリシュナマイは’ナーム・サプタ’(神の御名の栄光を7日間昼夜継続して歌うもの)をチャイトラの日(7日目)から始めた。これには帰依者が交代で参加し、彼女もまた時々は早朝に参加したりした。ラーム・ナヴァミ祭が国中の多くの場所で行われるようになったので、ハリダスを確保するのが再び困難になった。
だが祭の5,6日前になるとマハジャニは現代詩人として有名なバラブアに偶発的に出会い、その年の’キルタン’を彼に依頼することができた。その翌年(1914年)は、サタラ地区のビルハッド・シッダ・カヴァテのバルブア・サタルカールが自分の町でペストが流行したため、ハリダスを演じることができなくなって、シルディにやってきた。カカサヘブ・ディクシットを介してババの許可を得ると、彼はキルタンを演じ、充分に彼の職責を全うした。
毎年起こる新しいハリダスの獲得問題は、ついに1914年サイババによって解決された。彼はこの役割を永久にダース・ガヌ・マハジャニに任せ、この時以来彼は現在に至るまでこの職務を見事に滞りなく果たしている。
1912年以降、この祭は年を追うごとに大きくなり始めた。チャイトラ月(3月~4月)の8日から12日は、シルディは蜂の巣のごとく人でごったがえした。店も増え始めた。レスラーたちも祝いの試合に参加するようになった。貧しい人々に食べ物を提供する行事も大規模に行われた。
ラーダクリシュナマイが骨の折れる仕事を真摯な努力でこなしたお陰でシルディはサンスタンに変わっていた。装具も増えた。美しい馬や輿、二輪馬車、多くの銀の道具や用具、ポット、バケツ、絵、鏡などが寄進された。また行進用に象も贈られた。このように装具は莫大に増えていたが、サイババはこれらを全て無視し、以前と同様に簡素で慎み深い暮らしをしていた。
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の両者が共に作業をし、祭の間中どちらも行進を行い、これまでのところ両者の間には対立も諍いも起きていないということは特筆すべきだろう。まず5千から7千人の人々が集まるようになり、数年でその数は7万5千人に膨れ上がったが、これまでに伝染病の流行も暴動も起きていない。