さてここではより興味深いテーマに移る。主クリシュナはバガヴァッド・ギータ(9-26)の中でこう言っている。
「純粋な心で私に捧げる者からの供物は、葉であれ花であれ果物であれ水であれ、信心のこもった捧げ物として私はこれを受け取る」サイババの場合、もし帰依者が何かを本当にサイババに捧げたいと願っていて、そして後になってそれを忘れるようなことがあれば、ババは捧げ物のことを本人やその友人たちに思い出させ、これを持ってこさせて受け取り、帰依者を祝福した。いくつかの事例を下記に挙げる。
さてここではより興味深いテーマに移る。主クリシュナはバガヴァッド・ギータ(9-26)の中でこう言っている。
「純粋な心で私に捧げる者からの供物は、葉であれ花であれ果物であれ水であれ、信心のこもった捧げ物として私はこれを受け取る」サイババの場合、もし帰依者が何かを本当にサイババに捧げたいと願っていて、そして後になってそれを忘れるようなことがあれば、ババは捧げ物のことを本人やその友人たちに思い出させ、これを持ってこさせて受け取り、帰依者を祝福した。いくつかの事例を下記に挙げる。
「全ての存在の中に神を見よ!」というのが本章の教訓である。ウパニシャドもギータもバグワットも、全ての生き物の中に神や神性を認めるよう強く薦めている。本章の最後に挙げた例やその他多くの事例から、サイババはウパニシャドの教えをどのように実践すればいいのかを実際に私たちに示してくれている。
このようにしてサイババはウパニシャド理論の最高の解説者であり教師として存在するのだ。
あるときタルカッド夫人がシルディのある家に滞在していた。正午になって食事の支度ができ配膳されると、お腹を空かせた犬が現れて、吠え始めた。タルカッド夫人はすぐに立ち上がってパンの切れ端を投げると、犬はとてもおいしそうにがつがつと食べた。
午後になって彼女がマスジッドに行き少し離れて座っていると、サイババが彼女に言った。「お母さん、あなたは私に豪華な食べ物を与えてくれた。私の飢えたプラナ(生命力)は満足した。いつもこのように振舞いなさい。そうすれば大いに役に立つだろう。このマスジッドに座っているとき、私は決して真実でないことは語らない。
こんな風に私に憐れみをかけなさい。お腹をすかせている者に先にパンを与え、それから自分が食べなさい。このことをよく覚えておくんだよ!」彼女は最初ババが何を言っているのか理解できなかった。そこで彼女は答えて言った。
「ババ、どうやって私があなたに食べ物を差し上げたんですか?私は他人にお世話になっていて、彼らにお金を払って食事をしています」するとババはこう答えた。「おいしいパンを食べて私は心から満足して、まだゲップが出るよ。
あなたが食事の前に見て、パンの切れ端を与えた犬は私と同じものだ。だから他の全ての生き物(猫、ブタ、ハエ、牛など)も私と同一なのだ。私は彼らの姿になって歩き回っている。このような全ての生き物の中で私を見ている主は、あなたなのだよ。
だから二元性や区別の感覚を捨て、今日あなたがしたように私に仕えなさい」この甘露のような言葉を戴いて、彼女は心を動かされ、その目は涙で溢れそうになり、息が詰まって、彼女は大変に喜んだ。
今度はタルカッド夫人のことを取り上げてみよう。彼女は3つの捧げ物をした。つまり(1)バリット(焼いたブリンジャル(ナス)に凝乳とスパイスを混ぜたもの)、(2)カチャルヤ(円形に切ったブリンジャル(ナス)をギーで揚げたもの)、(3)ペダ(砂糖菓子ボール)。ババがこれらを受け取った時の様子を見てみよう。
ババの熱心な帰依者であるバンドラのラグヴィル・バスカール・プランダーレ氏は家族とシルディに向かった。タルカッド夫人はプランダーレ夫人のところへ行って2つのブリンジャルを渡し、一つをバリットに、もう一つをカチャルヤにして、シルディに行ったときにババに捧げてもらいたいと頼んだ。
シルディに着いてから、プランダーレ夫人はバリットの皿を持ってマスジッドに行くと、ババは食事を待って座っていた。ババはバリットがとてもおいしかったので、それを皆に配ると今度はカチャルヤが欲しいと言った。ババがカチャルヤを食べたいと言ったのを、ラーダクリシュナマイが聞いた。
今はブリンジャルの季節ではないから、彼女は困ってしまった。どうやってブリンジャルを手に入れたらいいだろう?そこでババは誰がバリットを持ってきたのかと尋ねた時、カチャルヤを捧げるよう託されてきたのはプランダーレ夫人だと分かった。そのとき誰もがババのカチャルヤについて質問をしたことの意味を知り、ババが全てを熟知していることに驚き打たれたのであった。
1915年の12月、ゴーヴィンド・バララム・マンカールはシルディに行って彼の父の葬式を行いたいと思った。出発前、彼はタルカッド夫人に会いに行った。するとタルカッド夫人は何かをババに送りたいと思った。
彼女は家中を探したが、見つかったのはペダだけで、それは既にナイヴァイディヤとして捧げてしまっていた。ゴーヴィンド少年は喪に服していた。ババへの大きな信仰心から、彼女は彼にペダを持って行ってもらうことにし、ババが受け入れて食べてくれることを願った。ゴーヴィンドはシルディに行ってババに会ったが、ペダを持っていくのを忘れていた。ババはただ待っていた。午後になって再び彼がババに会いに行ったときも、彼はペダを持たず、空手だった。
ババはそれ以上待てずに彼に率直に尋ねた。「私に何を持ってきてくれたのかね?」「何もありません」彼は答えた。ババはもう一度彼に尋ねた。同じ答えが繰り返された。それからババはこう尋ねた。「おかあさん(タルカッド夫人)は君が出かけるときに、私にと言っていくつか砂糖菓子を渡さなかったかね?」そこで少年は全てを思い出した。
少年は恥じ入ってババの許しを乞い、宿に戻ってペダを持ち帰りババに差し出した。ババはそれを手ずから受け取ると、口に入れてがつがつと食べた。そこでタルカッド夫人の信仰心は認められ、受け入れられたのだった。「人が私を信じている限り、私は彼らを受け入れる」(ギータ、4-11)は、ここでも証明されたのだった。
以前プラルタナ・サマジストであったラーマチャンドラ・アートマラム氏、別名ババサヘブ・タルカッドは、サイババの確固たる帰依者であった。彼の妻と息子も同様に、いや恐らく彼以上にババを愛していた。
あるときタルカッドの息子が母親を連れてシルディに行き、そこで夏の休暇を過ごしてはどうかという話になった。だが息子の方は行きたがらなかった。というのも彼がバンドラの家を空けてしまえば、家でのサイババの礼拝を行えず、プラルタナ・サマジストである父親はサイババの写真の礼拝は気にかけないだろうと思ったのだ。
だが彼の父親は息子がやっている通りに礼拝を行うと誓ってくれたので、母と息子は金曜の夜にシルディに向けて旅立った。
翌日の土曜日、タルカッド氏は早く起きて、プジャを行う前に沐浴をし、祭壇の前にひれ伏して言った。「ババ、私はこれから息子がやってきた通りにプジャを行います。でもどうか正式な手順でなくてもお許し下さい」そういいながら、彼はプジャを行い、ナイヴァイディヤ(供物)として角砂糖を数個捧げた。砂糖は昼食の際にも捧げられた。
その夜と翌日の日曜は、全てがうまくいった。翌月曜日は平日だったが、これもうまくやりぬいた。人生においてこのようにプジャを行ったことのなかったタルカッド氏は、息子に約束した通り全てが滞りなく満足に進んでいると、自分の中で大きな自信を感じた。
翌火曜日、彼はいつも通り朝のプジャを行って仕事に出かけた。正午に家に帰ってきたとき、彼は食事の準備ができてしまってから、捧げるプラサド(砂糖)がないことに気づいた。彼の召使の料理人は、彼は朝も捧げ物をしておらず、プジャのその部分(ナイヴァイディヤを捧げること)を完全に忘れていたと言った。
これを聞くと、彼は席を立って祭壇の前にひれ伏して後悔の気持ちを表現すると同時に、ババに全てを正規の手順に収めるにはどうしたらいいか教えて欲しいと請うた。それから彼は息子に手紙を書いて事実を告げ、ババの足元にひれ伏して彼の許しを請うてくれるよう求めた。
これが火曜の正午頃にバンドラで起きた出来事であった。
同じ頃、シルディでは正午のアーティが始まろうとしていたが、ババがタルカッド夫人に言った。「お母さん、私は食べ物をもらうためにバンドラの家に行ってきました。ドアには鍵がかかっていたが、どういうわけか中に入れてね。でも残念なことに、バウ(タルカッド氏)は私に食べ物を何も残しておいてくれなかった。だから私はお腹を空かせたまま帰ってきたんですよ」
夫人はババの言っていることを理解できなかったが、そばにいた息子はバンドラでのプジャで何か間違いがあったのだということを悟り、ババに帰宅する許可を求めた。ババはこれを拒んだが、彼にはそこでプジャを行うことを認めた。そこで息子は父に手紙を書き、シルディで起こったことを記して、父親に家でのプジャを怠らないよう懇願した。
この2つの手紙は互いに入れ違いになり、それぞれに翌日になって届いた。素晴らしいことではないか?
さてここで托鉢についての疑問に戻ろう。ババは大変に偉大な人物で神の化身であるのに、なぜ生涯を通して物乞いの鉢に頼らなくてはならなかったのか、という疑問を持つ人がいるだろう。この疑問は2つの観点から考え、答えることができる。
(1)誰が物乞いの鉢で生きていく権利を持っているのか?シャーストラでは、3つの主な欲望、すなわち(1)子孫、(2)富、(3)名声を取り除いて自由になった後で、サニヤスを取った者が施しを受けるにふさわしい人物だとしている。彼らは料理を作ったり、自分の家で食事をすることはできない。
彼らに食事をさせる義務を負っているのは家長である。サイババは家長でもなければ、ヴァナプラスタ(隠者)でもなかった。彼は独身のサニヤシ、つまり少年時代からのサニヤシであった。彼が強く確信していたのは、宇宙が彼の住処であり、彼は主ヴァースデーヴァ - 宇宙の維持者であり、不滅のブラフマンであるということだった。だから彼には施しを受ける充分な権利があるのだ。
(2)ではパンチャソーナ - 5つの罪とその償い、という観点から見てみよう。私たちは皆、食事を用意するためには、家長が5つの工程を経なくてはならないことを知っている。つまり(1)カンダニ - 打つ、(2)ペシャニ - 粉砕する、(3)ウダクンビ - ポットを洗う、(4)マルジャニ - 掃除をし清潔にする、(5)チュリ - 炉床に火を入れる。これらの工程には、小さな昆虫や生き物を殺すことも含まれており、だから家長はその罪を負うのだ。この罪を償うために、私たちの思想では6種類の捧げ物をするよう定めている。
すなわち(1)ブラフマ・ヤグニャ、(2)ヴェーダディヤヤン - ブラフマンへ供物を捧げることまたはヴェーダの勉強をすること、(3)ピトリ・ヤグニャ - 先祖に供物を捧げること、(4)デヴ・ヤグニャ - 神へ供物を捧げること、(5)ブータ・ヤグニャ - 生き物に供物を捧げること、(6)マヌシャ・アティヒ・ヤグニャ - 招かざる客に贈り物をすること。シャーストラが定めている通りにこうした捧げ物がなされるなら、心の浄化がなされ、これが知識と自己認識を得る上で役に立つのだ。
ババは、家々を回ることで、家人に彼らの神聖な義務を思い出させていたのであり、家にいながらにしてババから教訓を得た人々は幸運であった。
ムンバイに住むヨーロッパの紳士が、ナナサヘブ・チャンドルカールからの紹介状を持ち、ある目的を念頭において、シルディにやってきたことがあった。彼は快適にテントで暮らしていた。
彼はババの前にひざまずき、その手に口づけをしたいと願っていた。彼は三度マスジッドに足を踏み入れようとしたが、ババは彼を入らせなかった。彼は下の屋根のない中庭に座り、そこからババのダルシャンを受けるように言われた。
こうした応対に気分を害した彼はすぐにシルディを去ろうと思い、別れを告げにやってきた。ババは彼に急ぐのはやめて出て行くのは明日にするように言った。人々もババの指示に従って彼に残るよう求めた。
こうした声を全く聞かずに、彼はトンガでシルディを後にした。馬は順調に走っていたが、サワリ・ヴィヒールを過ぎた所で、自転車が前に現れ、これを見た馬たちが怯えて疾走し始めた。トンガは逆さまにひっくり返り、紳士は落っこちて、しばらく引きずられた。
彼はすぐに助けられたが、傷の手当てのためにコパルガオンの病院に入らなくてはならなかった。このような体験談は多数あり、ババの指示に従わない人々はどのみち事故に遭い、指示に従った者たちは無事で幸福であるという教訓を人々は学んだのだった。
タティヤ・コテはあるときトンガでコパルガオンの市場に出かけようとしていた。彼は急いでマスジッドにやってきて、ババにひれ伏し、コパルガオンの市場に出かけたいと言った。
するとババは、「慌てるな。少し休んで市場のことは忘れなさい。村から出てはいけない」と言った。どうしても行きたがっている彼を見て、ババはシャマ(マドハヴラオ・デシュパンド)を連れて行くように言った。
この指示を心に留めずに、タティヤ・コテはすぐさまトンガに乗った。2頭の馬のうち、一頭は300ルピーで、非常に活発で落ち着きがなかった。サウリ・ヴィヒルを過ぎた後、馬は勢いよく走り始め、腰を捻挫して倒れてしまった。
タティヤは大した傷を負わなかったが、母なるサイの指示を思い出していた。コルハール村へ行くという時にも、彼はババの指示を無視してトンガに乗り、同じような事故に遭ったのだった。
タティヤ・コテはあるときトンガでコパルガオンの市場に出かけようとしていた。彼は急いでマスジッドにやってきて、ババにひれ伏し、コパルガオンの市場に出かけたいと言った。
するとババは、「慌てるな。少し休んで市場のことは忘れなさい。村から出てはいけない」と言った。どうしても行きたがっている彼を見て、ババはシャマ(マドハヴラオ・デシュパンド)を連れて行くように言った。
この指示を心に留めずに、タティヤ・コテはすぐさまトンガに乗った。2頭の馬のうち、一頭は300ルピーで、非常に活発で落ち着きがなかった。サウリ・ヴィヒルを過ぎた後、馬は勢いよく走り始め、腰を捻挫して倒れてしまった。
タティヤは大した傷を負わなかったが、母なるサイの指示を思い出していた。コルハール村へ行くという時にも、彼はババの指示を無視してトンガに乗り、同じような事故に遭ったのだった。
シルディ巡礼の旅の特質の一つは、ババの許可なしには誰もシルディを去ることができないということだ。許可を得ずに去れば災難に見舞われる。
だがシルディを去るように言われた者は、それ以上そこに滞在することはできない。帰依者たちがババに別れの挨拶に来る時、ババは何かしら示唆したりほのめかしたりする。
こうして示唆されたことには従わなくてはならない。これに従わずに去ると必ず事故に見舞われるのだ。下記にいくつかの事例を挙げる。