最も簡単な道:聖者の話を聞いて彼のそばにいること
サイババは外面的には普通の人間のように振舞っていたが、彼の振る舞いは驚くべき智慧と技量を示していた。彼が行うことは全て、彼の帰依者たちの利益のためであった。彼はバクタたちに対して呼吸法や儀式のやり方を規定したりはしなかったし、彼らの耳にマントラを吹き込むようなこともしなかった。
彼はバクタたちに、如才なさは捨てていつも”サイ””サイ”と思い出していればよい。そうすれば、あなた方の全ての足枷は取り除かれ、自由になるだろうと言った。5つの火の中に座り、いけにえを捧げ、マントラを斉唱し、8つのヨガを実践するなどというのはブラーミンにのみ可能なことであり、他の階級の人々にとっては何の役にも立たない。心の機能とは考えることであり、一分たりとも考えずにはいられない。感覚の対象があれば、心はそれについて考えるだろう。
そこにグルがいれば、心はグルについて考えるだろう。あなたは非常に注意してサイの荘厳さについて聴いてきた。これによって自然とサイのことを思い出すことになる。聖者の物語を聴くのは、前述のサーダナに比べれば、さほど難しいことではない。聖者の物語はこのサンサール(世俗の生活)の全ての恐怖を取り除き、あなたを霊性の道へといざなってくれる。
だからこうした物語に耳を傾け、そこに瞑想し、それと同化するのだ。あなたには世俗の義務があるだろうが、心はサイと彼の物語に向けていなさい。そうすれば彼が必ずあなたを祝福してくれる。これが最も平易な道であるのだから、是非この道を進もうではないか。なぜなら、神の恩寵がなければ、私たちは聖者の物語を聴きたいという欲求を持つこともないのだ。
神の恩寵があるから、全ては順調に容易に運ぶのだ。聖者の話に耳を傾けるということは、ある意味彼らのそばにいることでもある。聖者のそばにいることの重要性は非常に大きい。そのことで私たちの肉体の意識やエゴイズムは取り除かれ、生と死の鎖は完全に壊され、心のあらゆる問題は解決されて、純粋な意識である神の元へいざなわれるのである。
それにより感覚の対象への執着は確実に少なくなり、喜びや痛みに無頓着になり、私たちを霊性の道へと導くのである。あなたが神の名を口にしたり、礼拝や、信仰などのほかのサーダナをしていなくても、聖者の中に心から避難するのであれば、彼らは世俗の海を越えてあなたを安全に連れてゆくだろう。
聖者が自らをこの世に顕現させているのはその為である。この世の罪を洗い流すガンジスやゴダヴァリ、クリシュナ、カヴェリなどの聖なる河でさえも、聖者に来て、沐浴をし、河を浄化をしてほしいと願っているのだ。それが聖者の偉大さである。過去世での功徳のおかげで、私たちはサイババの足元に集うことができたのである。
本章はサイの姿を瞑想して締めくくることにする。優美で整った顔立ちのサイが、マスジッドの端に立ち、バクタ一人一人の幸せのためにウディを配っている。彼はこの世を幻想と見なし、最高の至福に常に集中している。彼の前で、私たちは謙虚にひれ伏すのである。
スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように