癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


人を、そして自分を癒し真なる喜びをもたらす
   
        人生の生き方を学ぶ 癒しの森湯布院

シルディ・サイババ(ババの素晴らしい寝床の厚板)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

最初にババがどこでどのようにして眠っていたかを見てみよう。ナナサヘブ・デングル氏がサイババにその上で眠るようにと、腕の4倍程の長さで、わずか23cm程度の幅の木製の厚板を送った。


 厚板を床に敷いてその上に眠る代わりに、ババはマスジッドの垂木に古いぼろきれの切れ端で厚板をブランコのように結わえつけ、その上で眠るようになった。ぼろきれはとても細く擦り切れており、ババの体重は言うまでもなく、どうやって厚板そのものの重さにすら耐えることができたのか不思議であった。


 だがどういうわけだか擦り切れたぼろきれが、ババの体重と共に厚板を支えたというのもババの厳然たるリーラだった。この厚板の
4つの角には、ババがパナティス(土製のランプ)を灯し、夜の間燃やし続けた。


 ババが厚板の上に座ったり眠ったりしている様子は、見るも嬉しいものであった!皆にとって、ババがどうやって起き上がって厚板を下ろすのか不思議であった。好奇心から、ババが乗ったり降りたりする様子を見ようと大勢が観察を続けたが、うまく行かなかった。


 この素晴らしい芸当を見ようと群衆が膨れ上がると、ババはある日厚板を粉々に壊して捨ててしまった。ババは意のままにできる
8つのマハ・シッディ()の全てを持っていた。だが彼はそれを実践したり、必要としたりすることはなかった。そうした力は彼の霊的な完璧さの結果として自然と彼にやってきたのだった。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(ブラフマンの顕現)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

サイババは腕尺3つ半の身長の普通の人間のように見えたが、彼は万物のハートに住んでいた。彼は執着がなく無関心だが、外面的には大衆の幸福を熱望していた。内面的には平和の住処であったが、外面的には落ち着かないように見えた。


 内面的にはブラフマンの状態にあったが、外面的には世の中のことに夢中になっているように見えた。時に彼は情愛を持って皆を見ていたが、時には彼らに石を投げた。時には彼らを叱り、時には抱きしめ、穏やかで、落ち着いていて、忍耐強く、バランスが取れていた。


 彼は常に自己の中に留まり集中しており、彼のバクタたちの面倒を見ていた。彼は常に一つのアーサンの上に座り、旅に出かけることはなかった。彼の
サトカは小さな棒で、彼はいつもそれを持ち歩いていた。彼は穏やかでわずらいがなかった。彼は富や名声を気にかけることはなく、施しで暮らしていた。


 彼が送っていたのはそんな生活だった。彼は常に「アッラー・マリク
(神が真の支配者である)」と口にしていた。彼のバクタたちに対する愛情は完全で損なわれることはなかった。彼は知識の宝庫であり神の至福に満ちていた。これがサイババの神としての姿であり、限りがなく、終わりがなく、識別することはできなかった。


 全宇宙
(石ころからブラフマンまで)を包む一つの原理がサイババの姿に具現化していた。本当に恵まれた幸運な人々がこの宝を手にすることができたが、一方でサイババの真の価値を分からずに彼をただの人間として見ていた人々は実に不運であった。

                                       

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(彼のシルディでの滞在とおおよその誕生日)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

サイババの両親や彼の正確な誕生日については誰も知らなかったし、現在も知らない。だが彼のシルディでの滞在からおおよそ限定することはできる。ババが最初にシルディにやってきたのは彼が16歳の少年の時で、そのときは3年間滞在した。


 それから突然に彼はしばらくの間姿を消した。やがて彼はアウランガバッドの近くのニジャム州に再び現れ、チャンド・パティルの結婚式の一団と共にシルディにやってきた。この時彼は
20歳くらいであった。


 その後彼は
1918年にマハサマディに入るまでの60年余りの間、途切れることなくシルディに住み続けた。このことから、ババの誕生年は紀元1838年頃ではないかと言えるのである。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(ババの使命と助言)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

17世紀の聖者ラムダース(1608-1681)は、ヤヴァナス(イスラム教徒)から牝牛やブラーミンたちを守るという使命をかなり立派に果たした。だが彼の死後2世紀の間、2つの共同体 ヒンズー教徒とイスラム教徒の断裂は大きくなり、サイババはその裂け目に橋を掛けにきたのだ。


 彼が常に皆に言い続けてきた助言が効果をもたらした。「ラーマ
(ヒンドゥー教の神)とラヒム(イスラム教の神)は一つで同じものである。彼らの間にはほんの少しの違いもなく、それなのになぜ帰依者たちは仲違いし喧嘩をするのか?無明の者たちよ、手を携え共に双方の共同体を一つにまとめ、分別を持って振舞うのだ。


 そうすればあなた方は国の統一という目的を果たすことができる。言い争うのは良いことではない。だから論争をしたり互いに張り合うのは辞めなさい。常にあなた方の利益と幸福のことを考えなさい。主はあなた方を守るだろう。神に到達する手段には、ヨガや捧げ物や苦行や知識がある。


 どうしても神に到達できないのであれば、あなた方が生まれたことは無駄になる。もし誰かがあなたに邪悪な仕打ちをしても、報復をしてはいけない。他人には常に善を成しなさい」これがサイババの皆への助言であり、物質面でも霊的な問題においても大いに私たちの役に立つであろう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(サドグルとしてのサイババ)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

両手にシンバルとビーナ(南インドの撥弦楽器)を持って家々を回り、自らの霊性を見せびらかして回る、所謂グルといわれる人たちはたくさんいる。彼らは弟子の耳にマントラを吹き込み、金を吸い上げる。彼らは弟子たちに神を敬うことと信心を教えていると公言しているが、自らが不敬虔で不信心であったりする。


 サイババは自身の真価
(敬虔さ)を示そうとは露ほども思ったことがない。彼は肉体の意識は持っていないが、弟子たちに対する大きな愛情を抱いている。グルには2種類ある。(1)’ニヤット’(定められていて不変)と、(2)’アニヤット’(定められておらず不変でない)である。後者は、彼らの助言によって、私たちの中に良い資質を育て、私たちの心を浄化し、救いの道へ進ませることができる。


 だが前者と交わると、私たちの二元性の感覚
(違いを区別する感覚)は払いのけられ、「汝はそれである」と悟らされることで私たちは一つになる。様々な世俗的な知識を私たちに伝える色々なグルもいるが、私たちの本質(自己)の中に定住し私たちを世俗の生活の海の向こう側へ連れて行ってくれるのがサドグルである。


 サイババはそのサドグルであった。彼の偉大さは言葉で表現することができない。誰であれ彼のダルシャンを受けに行くと、尋ねてもいないのに彼はその人の現在、過去、未来のあらゆる詳細について語るのだった。彼は全ての存在に神性を見ていた。友も敵も彼にとっては同じであった。私心がなくバランスが取れていたから、悪い行いをする者にも信心深い者と同様に恩恵を与えた。


 成功していようと逆境にあろうと彼は同じだった。紛れもなく何者も彼には触れられなかった。彼は肉体を通じて行動していたが、少しも肉体や家に執着がなかった。彼は具現化しているように見えたが、実際はそうではなく、全存在から自由であった。

 

サイババを自らの神として礼拝したシルディの人々は祝福されている。飲み食いしている時も、裏庭や畑で働いている時も、あれこれと家事をしているときも、彼らは常にサイのことを思い浮かべ彼の栄光を歌った。


 彼らはサイ以外の神を知らなかった。シルディの女性たちの愛情の甘美さはどう説明したよいだろう!彼女らは非常に無学であったが、純粋な愛に呼び起こされて、素朴で飾りのない言葉で詩や歌を作った。彼女らは文字を学んだことなどなかったが、その素朴な歌を聴けば彼女たちが本物の詩人であることがよく分かる。本物の詩人に霊感を与えるのは、知識ではなく愛である。


 そのような詩人は真実の愛の権化であり、それが知識ある聴き手に届き評価されるのである。こうした民謡を集めるのは好ましいことであり、ババの願いで、幸運な帰依者がこれらの民謡を編纂して、
”Sai Leela”誌に掲載するか、あるいは別の書物として出版することになるかもしれない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(ババの謙虚な態度)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

主あるいはバガヴァンは6つの資質を持っているといわれている(1)名声、(2)富、(3)無執着、(4)知識、(5)威厳、(6)寛大さ、である。


 ババはこれら全てを持ち合わせていた。彼はバクタたちのために肉の身に顕現していた。彼は大層思いやりがあって情けも深く、それが故に帰依者たちは彼に引き寄せられ、だからこそ人は彼を知るようになったのだ。彼のバクタたちのために、ババは演説の女神ですら述べないような言葉を口にしている。


 ここにその例を挙げよう。ババは非常に謙遜しながら次のように言った。「私は奴隷の中の奴隷。あなたに借りがあるのだ。私はあなたのダルシャンに満足している。あなたの足を拝むことは大きな恩恵である。私はあなたの排泄物の中の虫けらである。それ故に私は自分が祝福されていると思うのである」なんというへりくだった物言いだろうか!

 

外面的にはババは感覚の対象を楽しんでいるように見えたが、彼はそうした物に少しの味わいをも感じることはなく、感覚を享受しているという意識すら持っていなかった。彼は食事をしたが、味覚はなかった。彼は物を見たが、見ているものに関心はなかった。情欲に関しては、彼はハヌマンのように完全な独身者だった。


 彼は何にも執着しなかった。彼は純粋な意識であり、欲望や怒り、妬みその他の感情の休息場であった。つまり彼は私心がなく、自由で完全だったのだ。印象的な事例を挙げてみよう。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(ナナヴァリ)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

シルディ村にはナナヴァリという名の大変風変わりで面白い男がいた。彼はババが仕事をしている様子を見ていた。


 あるとき彼はババに近づいて、ガディ
(椅子)に座っていたババに向かって、自分が座ってみたいから立ち上がってくれと言った。ババはすぐに立ち上がると席を空け、男はそこへ座った。


 しばらくそこに座った後にナナヴァリは立ち上がって、ババに元の椅子に座るように言った。それからババが腰掛けると、ナナヴァリは彼の足元にひれ伏したのである。ババは命令されても追い出されても、少しも嫌な顔をしなかったのである。

 

ナナヴァリはババをあまりに愛していたため、ババのマハサマディの13日後に自分も息を引き取ったのだった。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(最も簡単な道)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

最も簡単な道:聖者の話を聞いて彼のそばにいること

 

サイババは外面的には普通の人間のように振舞っていたが、彼の振る舞いは驚くべき智慧と技量を示していた。彼が行うことは全て、彼の帰依者たちの利益のためであった。彼はバクタたちに対して呼吸法や儀式のやり方を規定したりはしなかったし、彼らの耳にマントラを吹き込むようなこともしなかった。


彼はバクタたちに、如才なさは捨てていつも
サイ””サイと思い出していればよい。そうすれば、あなた方の全ての足枷は取り除かれ、自由になるだろうと言った5つの火の中に座り、いけにえを捧げ、マントラを斉唱し、8つのヨガを実践するなどというのはブラーミンにのみ可能なことであり、他の階級の人々にとっては何の役にも立たない。心の機能とは考えることであり、一分たりとも考えずにはいられない。感覚の対象があれば、心はそれについて考えるだろう。


そこにグルがいれば、心はグルについて考えるだろう。あなたは非常に注意してサイの荘厳さについて聴いてきた。これによって自然とサイのことを思い出すことになる。聖者の物語を聴くのは、前述のサーダナに比べれば、さほど難しいことではない。聖者の物語はこのサンサール
(世俗の生活)の全ての恐怖を取り除き、あなたを霊性の道へといざなってくれる。


だからこうした物語に耳を傾け、そこに瞑想し、それと同化するのだ。あなたには世俗の義務があるだろうが、心はサイと彼の物語に向けていなさい。そうすれば彼が必ずあなたを祝福してくれる。これが最も平易な道であるのだから、是非この道を進もうではないか。なぜなら、神の恩寵がなければ、私たちは聖者の物語を聴きたいという欲求を持つこともないのだ。


神の恩寵があるから、全ては順調に容易に運ぶのだ。聖者の話に耳を傾けるということは、ある意味彼らのそばにいることでもある。聖者のそばにいることの重要性は非常に大きい。そのことで私たちの肉体の意識やエゴイズムは取り除かれ、生と死の鎖は完全に壊され、心のあらゆる問題は解決されて、純粋な意識である神の元へいざなわれるのである。


それにより感覚の対象への執着は確実に少なくなり、喜びや痛みに無頓着になり、私たちを霊性の道へと導くのである。あなたが神の名を口にしたり、礼拝や、信仰などのほかのサーダナをしていなくても、聖者の中に心から避難するのであれば、彼らは世俗の海を越えてあなたを安全に連れてゆくだろう。


聖者が自らをこの世に顕現させているのはその為である。この世の罪を洗い流すガンジスやゴダヴァリ、クリシュナ、カヴェリなどの聖なる河でさえも、聖者に来て、沐浴をし、河を浄化をしてほしいと願っているのだ。それが聖者の偉大さである。過去世での功徳のおかげで、私たちはサイババの足元に集うことができたのである。

 

本章はサイの姿を瞑想して締めくくることにする。優美で整った顔立ちのサイが、マスジッドの端に立ち、バクタ一人一人の幸せのためにウディを配っている。彼はこの世を幻想と見なし、最高の至福に常に集中している。彼の前で、私たちは謙虚にひれ伏すのである。

 

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(サイババの生活の紹介)

2011-09-26 | シルディ・サイババ

常に愛を持ってサイババのことを思い浮かべなさい。なぜなら彼は私たちに善を施そうといつも集中していて、彼自身の中に留まっているからである。彼のことを思い浮かべるだけで、人生と死の謎は解けていく。


 これは費用のかからない、最も簡単なサーダナである。少しの努力で大きな報いがもたらされる。だから私たちの感覚が正常である限り、私たちは常にこのサーダナを実践すべきなのだ。


 他の全ての神々は架空のものであり、グルが唯一の神だ。私たちがサドグルの聖なる御足を信じるなら、彼は私たちの運命を良い方に変えてくれる。私たちが真摯に彼に仕えるなら、私たちは世俗的な苦悩を取り除くことができる。私たちはニヤナ
1やミマンサのような哲学を学ぶ必要はない。


 私たちが川や海を渡るときに船頭を信じているように、私たちはこの世俗という海を乗り越えていくときにサドグルを信じていなくてはならない。サドグルは帰依者たちの強い感情や信仰心を見て、彼らに知識や永遠の至福を授けるのだ。

 

前章では、ババの托鉢や帰依者の体験、その他の事柄について述べた。ここではババがどのように暮らし、どのように眠って、どのように教えを与えたのかについて紹介しよう。

1.:ニヤナ:正義


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルディ・サイババ(帰依者たちの体験)

2011-09-22 | シルディ・サイババ

 さてここではより興味深いテーマに移る。主クリシュナはバガヴァッド・ギータ(9-26)の中でこう言っている。

 

 

「純粋な心で私に捧げる者からの供物は、葉であれ花であれ果物であれ水であれ、信心のこもった捧げ物として私はこれを受け取る」サイババの場合、もし帰依者が何かを本当にサイババに捧げたいと願っていて、そして後になってそれを忘れるようなことがあれば、ババは捧げ物のことを本人やその友人たちに思い出させ、これを持ってこさせて受け取り、帰依者を祝福した。いくつかの事例を下記に挙げる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする