上・日立製作所争議団地域ビラ「見よ亀戸署の暴状を!」1926年9月
「日立 世界ふしぎ発見」でとりあげろ!!
検束につぐ検束の嵐 ! サンディカリスム(アナキズム)系労組の争議、日立製作所亀戸工場争議 1926年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
「日立従業員組合をめぐって」小松隆二(慶応義塾経済学会)
(日立製作所亀戸工場労働運動の歴史)
東京の日立製作所亀戸工場では、1919年の春から夏にかけて争議が発生している。この時は、会社が臨時昇給など労働条件の改善を発表し解決した。友愛会日立支部も結成された。
アナキズム系の全国労働組合自由連合会の結成と同じ頃の1926年(大正15年)6月6日に日立従業員組合の創立大会が開催された。組合員は約150名であった。1926年当時の日立製作所亀戸工場には労働者841名が雇用されている。
組合綱領
一、我が組合は自主的自治の精神をもって労働者階級の解放を期す
一、我が組合は相互扶助を旨とし社会共存の実現を期す
一、我が組合は労働者の智識を啓発し社会的権利の獲得を期す
創立大会宣言
・・・多くの兄弟の流した犠牲の血の前に、いつまでも黙するものではないのだ。・・・
俺達の日は来た。資本家と番犬と暴力団、この重圧の中に俺達と行動を共にする黒き誓ひへの団結を結成したのだ。即ち、我が日立従業員組合こそ、自由と友愛との社会建設への血と肉の団結なのだ。・・・
また、組合は、全国自連の創立大会の決定にそって、アナキズム系金属工組合が結集した全国金属工連合会(機械技工組合、大阪機械技工組合、岡山機械技工組合、純労働者組合)に加盟する方針も決定した。芝浦労働組合との合同も考慮されていた。
1926年9月8日、会社は組合員の臨時雇用の3名を解雇してきた。3名はただちに組合に相談した。
(構内デモ)
9月14日、小松川にある無政府主義団体の無軌道社に組合員約150名が集合して復職要求を決議し、もし会社が拒絶して来た時は実力をもって闘い、解決することを申し合わせた。15日正午、組合幹部6名が会社に行き復職を要求したが、会社は即座に拒絶してきた為、ただちに約150名の組合員は一丸となって日立工場構内を巡るデモで激しい示威行動を行った。工場の動力が全面的にストップした。16日、この日組合員は出勤はしたがサボタージュ闘争に入り、再び工場構内をデモで練り歩き、工場の仲間たちに立ち上がるように訴え続けた。会社は驚愕し、警察署にデモの取締りを要請し、一方で組合と接触させないため、一般労働者約350名を急遽工場から退場させた。午後4時、組合は、荒川放水路堤において工場から出た約350名の労働者と共に野外集会を行おうとした。亀戸警察署が弾圧を始めた。警察は、これを無届け屋外集会だ、違法行為だと5名の組合幹部をすぐに検束した。この不当な官憲の妨害でついに野外集会は出来なかった。以後この争議は官憲による不当弾圧、実に検束につぐ検束の嵐が吹き荒れたのだ。
(36名の解雇攻撃)
9月17日、会社は組合員36名を大量解雇してきた。一気に組合を潰そうというのだ。ただちに日立従業員組合は、全国労働組合自由聯合会と黒色青年聯盟に緊急応援の要請を行った。18日夕方、工場前で退勤してくる仲間たちにビラを撒いた組合員3名が警官隊によって検束された。
(日立糾弾演説会)
18日午後7時半、小松川貸席丸三亭にて日立糾弾演説会が開催された。約500名が押し寄せた。弁士21名が演説した。臨監警官は、弁士12名に社会制度の破壊や直接行動を呼び掛けたとして「弁士中止」を命じたばかりか、小松川警察署は会場内で8名も検束した。
(ビラ)
檄
全国労働組合自由聯合会加盟 日立従業員組合
犠牲者を救え!!
我が日立従業員組合が出来てから我々の勝利は立派に保たれてきました。例えば今回3名が解雇された時会社が解雇手当を支払うという創立以来かつてない態度にでたことは、いかに組合が我々の利益の擁護者であるかの立派な証拠であります。組合ができたために会社は従前のように矢鱈にこき使って勝手に会社の利益ばかりを計ることが出来なくなったのです。会社は邪魔になる組合をなんとしても壊さなければならなくなったのです。
今回40名近い馘首(かくしゅ)は秘かにこういう考えによって行われた事は明らかなことです。我らが今度の会社の無謀な仕打ちを忍んでしまうと、我々はこれからどんな色々なみじめに遇うかわからないのです。
諸君さん! 我々が今後幸福な生活ができるかみじめに生活するかは一つに我々が一斉に起って一致協力して会社の理不尽と闘うか否かによって決せられるのです。
我々は我々の生活を踏みにじられることを最後まで防がなければなりません。自分の生活、同僚の生活を幸福たらしめんと希望する人は今夜(9月18日)小松川春日通り丸三亭に集合して我々の採るべき道を話し合おうではありませんか。
要求
一、解雇撤回
一、臨時雇用制度を撤廃する事
一、賃金の3割値上
一、職制、月本友治を解職する事
一、解雇手当の制定
一、勤続手当の制定
一、罰金制度の撤廃
一、工場設備の完備
一、犠牲者を絶対に出さない事
一、請負欠損の場合、工賃を支払う事
(重役宅訪問抗議)
争議団は3名か4名一組となり、各重役の私宅を訪問し「君らは我々の餓死するを見て、悲惨なりと思わないのか。血あり涙ある人間ならば我々36名に対し一生涯生活できる退職手当をだすか、もしくは全員復職させるか生殺与奪の権を握る重役はここに何分でも回答をしてみせろ」と口々に解雇撤回を求めた。
(応援)
9月25日午後4時、友誼団体である東京市電自治会や関東黒色青年聯盟や自由聯合系の機械技工組合などの応援を受けた争議団は、工場門前で退勤してくる労働者に向けたビラ配布と路上演説を行った。寺島警察署が不当な弾圧を行い、その場でも黒色青年聯盟員12名が検束された。芝浦労働組合も争議団を全力で応援し、日立の組合との組織合同の話も出てきた。
(帝大セツルメントで会社糾弾演説会)
26日午後7時より柳島の帝大セツルメントハウスにて会社糾弾演説会を開催した。自由聯合と黒色青年聯盟の約120名の聴衆が集まった。弁士12名に対し、臨監警官は8名を「弁士中止」とし、わずか開始30分で演説会は解散を命じられた。
(官憲の弾圧)
10月1日、警察は、黒色青年聯盟が会社と重役宅に「脅迫状 強盗に呈す 『兄弟の要求を一蹴するならしてみろ その時は汝の生命を一蹴す』 銀座街頭を打ち壊した 黒色青年聯盟 影武者数名」なる脅迫状を送付して威嚇したとでっち上げて厳重捜査をはじめた。
(会社糾弾演説会)
10月3日、自由聯合は、大島町大吉亭に於いて会社糾弾演説会を行った。自由労働相互会、無軌道社、新聞労働聯盟、激風社、黒色青年の5名が弁士中止を命じられた。
演説趣旨
無軌道社 吉村大吉
「・・・我々には生活の自由も経済的自由もない。それは資本主義と国家主義の下で我々は奴隷であり、自由労働者という自由を持っているが、その自由は俺達にとつて何にもならない。自由、しからば何によってこの自由を獲得することができるか。即ちこの二つの主義を破壊するに(弁士中止)」
新聞労働聯盟 根岸某
「横暴なる資本主義の下に搾取されるより他なかった俺達。しかし、俺たちは目覚めた。・・・今までの奴隷根性といらない遠慮が今日の惨めたる労働者を生んだのだ。彼ら資本家は人間ではなかった。俺達の肉を食って骨までもしゃぶり尽くした殺人鬼であった。このたびの日立の争議を単なる争議として終わらせてはならない。番犬の奴らの頭をちょん切って工場を焼き払って、我々の正義を(弁士中止)」。
(専務宅襲撃)
争議団は「決死隊」を募り、芝浦労働組合にも応援を求めた。10月4日夜半、小平浪平専務宅に数十名が押し寄せ、投石し、玄関ガラス戸三枚を破壊した。この場で2名が本富士警察署に検挙された。
(放火事件)
10月7日、重役久原邸放火事件が起きた。火はすぐに消されて大事には至らなかったが、警察は黒色青年、自由聯合、機械技工組合員ら25名を一斉に検挙した。しかし結局、放火事件は単独労働者が犯した事件であったからと13名を拘留20日に処した。
10月14日、芝浦労働組合、印刷工組合と争議団は副工場長と交渉したが、会社は解雇手当500円を主張し続け決裂した。
(再び検束)
10月25日夜半、争議団本部で組合員約30名が革命歌と黒旗の歌を高唱したことが違法だといいかがかりをつけた警官隊は、その時18名も検束したが、その日の内に全員釈放した。官憲による露骨不当な弾圧であった。
(会社の回答)
会社は今迄一貫として解雇手当は500円だけなら支払うと回答していたが、25日はじめて争議解決の意向を示してきた。
(解決)
10月29日、解雇者42名に対し、会社が金一封7,000円を支給することで労資が覚書を作成し争議は一旦終わった。