我が小村井の大日本自転車ゴム工場60日間スト大惨敗 1927年の労働争議(読書メモ)
参照 「協調会史料」
東武鉄道亀戸線小村井駅。大久保製壜闘争で私たちが21年9ヶ月の間、年中、改札口で駅ビラをしていた小さな駅。大久保製壜所に一番近い駅です。駅を利用する住民の皆さんから多くの声援や貴重なカンパも頂きました。1993年には今は亡き宮路さんたち曙運送争議の小村井駅ビラで僕らとの出会いもありました。忘れられない思い出の駅です。
大日本自転車護謨争議
東京吾嬬町小村井の大日本自転車護謨工場。1926年9月労働者142名(女性16名)は総同盟・関東合同労働組合小村井支部に加盟し、3回にわたり団体交渉を申し込んだが、会社はそのたびに団交を拒絶したばかりか総同盟が関東合同労組を除名*(注)した翌日の12月4日、28名の組合員を首にしてきた。
12月6日、解雇された28名は工場入場を拒否されたため、門外に佇立して工場内の仲間たちに解雇の不当性を訴え続けた。職場の多くの仲間たちは首になった同僚の呼びかけに呼応し「本日は我らも休業すべし」と職場を放棄して工場前広場に集合し、28名解雇の撤回を決議した。翌7日から工長15名以外の全員がストライキに参加した。しかし、小村井支部争議団60日間のこのストライキは、1927年2月5日労働者側の惨敗に帰した。
要求書
一、解雇者28名の無条件復職
二、争議中の日給の支給
三、争議の一切の費用の会社負担
四、公休出勤手当の増額
五、請負制度の改正
六、定期昇給の実行
七、退職手当の制定
八、弁当代を本社と同額に
九、便所の修理と掃除
十、遅刻15分までは遅刻と認めない事
十一、遅刻3回、早退2回までは皆勤と認めること
大正15年12月12日
12月11日、小村井支部争議団を励ますために、地域の本所帽子工、小松川コンクリート、深川木工、本所第一等関東合同労組の各支部員が駆け付け互いに結束に努めた。12日には亀戸工友倶楽部で「争議真相発表演説会」を開催した。
12月14日、寺島警察署は、争議団幹部2名を警察署に呼び出し、争議団が工場入り口付近で工長を威嚇していると警告をだしてきた。
12月18日、「罷業に関し再び町民諸君に声明す」の地域ビラを配布した。
12月21日、争議団は連日120名内外が集合し、労働歌の高唱、組合旗の掲揚、演説会などで気勢を挙げ、争議団警備隊を工場付近に配置し会社側の動静を見張った。
12月20日午後、会社は争議団切り崩し策として争議団員104名に「職場復帰しない者は解雇する」との脅しの通知を郵送した。組合と徹底的に抗争するとの挑戦表明であった。12月23日、争議団は、家族集会と激励演説会を開いた。
1927年1月
(「解決戦」戦闘宣言)
小村井支部争議団は年が明けた1月6日、「明日からは争議戦術を一変して、各友誼団闘士を集め徹底的に抗争する」と解決戦・戦闘宣言をした。
関東合同労組本部と争議団は各支部と友誼団体宛ての「小村井支部争議、決戦に入る」の要請ビラで「我々は今日迄我慢してきた。しかし、これ以上会社に対して遠慮する必要はない。関東合同労働組合が真に全力を集中して戦う時が来た。関東紡績労働組合も絶大なる応援を誓っている。関東合同の全闘士は小村井支部争議に集まれ! 芝浦、精糖惨敗の屈辱をはらせ! 」と檄を飛ばした。
関東合同労組本部は全支部に以下の指令をだした。
▽1月7日より毎夜小村井支部争議に集まること
▽各支部の提灯を全部持参すること
▽応援者は軽装にして機敏な活動をなし得るよう支度して来ること
▽各支部は責任をもって数名の闘士を送ること
▽江東方面の支部は特に多くの闘士を送ること
関東合同労働組合本部
小村井支部争議団本部
(会社の争議団切り崩し策動)
たまたま争議団員ひとりが亡くなった葬儀に参列した会社は多額の香典、見舞金を遺族に手渡す一方で、争議団員に対しては解雇も含め徹底的に抗争する態度を崩さなかった。そうしておいて会社は連日工長・職制を総動員し、争議団員一人一人へのスト切り崩しを行ってきた。まず争議団員の中の動揺していると思われる30人をピックアップして、「出勤もしくは帰省するよう」に働きかけた。当初はこの切り崩しに、誰一人応じるものはなかった。しかし、徐々に影響が出てきた。
(応援と行商隊の組織)
連日30人を越える友誼労組の応援部隊が争議団本部に駆け付け気勢を挙げた。1月9日と11日に関東紡績労働組合本部において争議応援演説会を開催した。多額のカンパも各友誼労組・団体より寄せられた。12日の応援演説会では弁士の農民組合の浅沼稲次郎、三宅正一ら10名の演説が臨監警察により「弁士中止」された。
14日、紡績吾妻支部200名の応援。
16日午後2時より近くの雨宮ヶ原において運動会(雨で中止)。
19日より行商隊を組織し、石鹸、菓子などを3名一組にして市内に散った。関東紡績労働組合から荷車5台に積んだ応援米20俵が争議団本部に届く。
(スト破り)
1927年1月に入っての関東合同労組本部の「戦闘宣言」とは裏腹に、小村井支部争議団から脱落、裏切のスト破りが徐々に増えてきた。1月20日までのスト破り11名。また会社は臨時工を募集しスト対策をはかっている。
(検束)
1月24日応援演説会で日暮里支部の弁士一人が「弁士中止」を無視して演説を続けたため検束された。
(争議団員の総崩れ)
1月27日、この日の争議団報告集会で、争議打ち切りを主張する者が多数でた。一方であくまで闘うべきだ。スト破りや裏切り行為を摘発して厳しく除名処分にしろという者たちと大激論になり決裂し、争議団は分裂した。
翌28日57名が争議団本部に小村井支部脱会を伝え、会社と復帰について交渉をはじめた。争議団の中から大量の組合脱退、職場復帰、スト破りが続出した。2月に入り、会社に復帰を申し出た者は69名に達した。会社は復職者に各自30円から80円ほどを貸し?与えた。2月2日にはスト破り工場出勤者は120名(女性15名)になった。
今まで2ヵ月もの苦しいストライキを仲間の不当解雇の撤回を求め互いに固く団結して闘い続けてきた小村井支部争議団160名に何が起きたのだろう。会社の切り崩しの手口は本当はどうだったのだろうか。協調会史料ではこれ以上の説明はない。関東合同労組の「戦闘宣言」に脅えたのは会社ではなくてむしろ争議団の労働者自身だったのか。自分の影の大きさに自分自身が怯えたのか。ストによる家族の生活困窮の切実さが招いたのか。総同盟の関東合同労組除名が争議団員に与えた影響はどうだったのだろう。しかし、どんな理由があろうが、スト破りはスト破りだ。裏切りは裏切りだ。残された争議団員(解雇者28名と15名)の哀しみと辛さと憤りはいかばかりだったろう。
(大惨敗)
60日間の大日本自転車ゴム工場争議(関東合同労働組合小村井支部争議)は、1927年2月5日争議団の大惨敗で幕を閉じた。
解決内容
一、28名の解雇者に日給最低45日分、最高55日分を支給する(総計2,150円60銭)
二、争議費用として200円、解雇手当最高60日分を支給する
三、未解雇者で職場復帰しない者15名(男10名、女5名)に男工各10円、女工5名各5円、計120円を支給する
以上、1926年9月~27年2月我が小村井で闘った先輩たちの報告です。
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*(注)
総同盟の1926年第二次分裂 関東合同労組など除名
1926年12月3日総同盟中央委員会は、日本労農党(日労党)を創立しようとする麻生久、加藤勘十、可児義雄、岩内善作、望月源治、棚橋小虎らと鉱夫組合、関東合同労働組合、関東紡績労働組合を除名した(第二次分裂)。その後鉱夫組合などは「日本労働組合同盟」(組合同盟)1万2800人を結成し、12月9日には日労党創立大会を開催した。
10月24日労農党を脱退した総同盟派は12月5日、反共の姿勢を明らかにした「社会民衆党」を結成した。評議会は「労農党」を支持した。
(1929年総同盟第三次分裂。総同盟は、鈴木悦三郎、本山茂貞、山内鉄吉、大谷省三郎らと大阪金属労働組合、大阪合同労働組合、関西紡績労働組合を除名にした。大阪の4千300名を中心に総同盟分裂反対同盟を結成したが、ほどなく労働組合全国同盟(全国同盟)と改組され、のちに「組合同盟」と合同し、「全国労働組合同盟(全労)」となった。また、全国同盟派は社民党からも脱退し全国民衆党を結成、やがて日本大衆党と合同して「全国大衆党」となった。)