園池製作所争議 (読書メモ-「最近の模範的労働運動 園池製作所労働争議」東京毎日新聞1920年3月7日発行)
1920年(大正9年)3月7日、東京毎日新聞社が<「最近の模範的労働運動 園池製作所労働争議 」>を発行します。国立国会図書館デジタルコレクションで読めます。とても面白いので、以下少し、まとめてみました。1920年1月東京大崎の園池製作所約270名労働者の16日間に及ぶ籠城闘争とその勝利の報告と総括です。
当時の東京毎日新聞ってすごいですね。「吾等は正義の味方なり」「無産階級の声は常に正しい」「政府資本家の為めの労働運動を排撃し」「労働階級の一日も不可欠大新聞」等々。実に素晴らしいです。東京鉄工組合の園池製作所争議には、東京毎日新聞記者の加藤勘十と平澤計七の二人が連日応援に出かけています。加藤勘十は、八幡製鉄所争議にも出てきます。平澤計七はこれから3年後の1923年の亀戸事件で虐殺された10名のうちの一人です。
「 最近の模範的労働運動 園池製作所労働争議 」東京毎日新聞1920年(大正9年)3月7日発行- 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910295?contentNo=3
270名労働者16日間のろう城闘争で全面勝利!
東京大崎町の園池製作所は、工具製造、機械製作工場。労働者数273名。
東京鉄工組合大崎支部
1920年1月8日午後5時40分から園池製作所の200名労働者は百反坂上の園池倶楽部で「園池一般職工総会」を開催し、以下の5項目を決定し、東京鉄工組合大崎支部の名をもって会社に要求します。
一、8時間労働制の実施
一、賃金1割増給
一、解雇手当の増
一、退職手当増
一、『長』の職場選挙制
ただただ威圧で応えてきた会社
しかし、会社は全面拒否で応え、すぐに組合をつぶすために工場全面休業・閉鎖(全員解雇)攻撃をしかけてきました。ただちに園池の労働者約270名は園池倶楽部にろう城します。
見よ、周到なる組織を! 組合側の闘争態勢
①弾圧に備え、交渉委員を約10名づつ第三次まで決定
②4班(各班約10名)の警備隊
③会計1名
④伝令係(2名)
⑤庶務(4名)
⑥場内整理(5名)
⑦相談係(5名)
⑧炊事係(4名)
⑨食糧係(5名)
⑩衛生係(5名)
⑪娯楽係(8名)
⑫一般調査係(5名)
270名16日間のろう城闘争
スト破り
40数名のスト破りが生まれます。職制と縁故のある者で、ストで貧苦困難を忍び奮闘し合っている労働者を巧言で釣り、誘惑煽動し労働者として最も唾棄すべき罷工破りを行わせようとした獅子身中の輩。争議解決後その主謀者が制裁を受けます。唯憐憫なるは、貧苦困難を耐え忍んで15日の長きにわたり力戦したにもかかわらず最後の5分間で罷工破りの汚名を着ようとした心弱気40人の人々です。その一人は争議解決後死をもってこの罪を贖わんとします。
軍用金にマスク製造販売(当時流行したスペイン風邪対策として)・・・マスク5343個、収入金844円61銭。
連日の会議。応援演説会には、友愛会鈴木会長、北沢早大教授、友愛会関西から理事、松岡駒吉、毎日新聞の加藤勘十、平澤計七らは毎日のように顔をだして熱弁を吐きます。
24日から3日間の猛烈なる大示威行動
3日間の不当解雇対抗援助演説会は25日には労働者大会として開催されました。毎晩、夕闇を破る労働歌を高唱しつつ東京鉄工組合の紫の会旗を先頭に、200余名が大崎町を練り歩きます。地域の各工場の労働者は場内より万歳の叫び声で呼応し、近くに走り来て示威行動を歓迎します。
25日の労働者大会は、松岡鉄工組合理事が議長となり、一、階級的同情に訴え義金を募集する事、一、言論で盛んに輿論を起こすこと、一、階級的同情に訴え会社の職工募集に対抗する事、一、不幸にしてこの争議が敗北した時は、階級が同じであるのに、反抗的態度を示し、なお我らを売らんとした行為をした者に対しては、我らは黒表を作り、全労働者団体に通告を発し、社会的制裁を厳にする事、一、不幸にしてこの争議が敗北した時は、株式会社園池製作所の製品に対し、不使用同盟を組織し、あくまで資本家の人間的反省を求める事。以上5か条を満場一致で可決しました。
あふれる同情と義援金
この職工争議団に同情した労働者を中心に社会は急激に同情の度を拡大させます。地元の吉川米店など地域の多くの商店は、この争議が解決するまでは争議団労働者とその家族には無制限で貸売をする事を誓約して応援してくれました。工場前に通りかかった町の一労働者が、園池に就職希望してきた労働者に怒り、けんかを売る事もありました。全国の労働団体からも多大な応援義援金が届きました。
1月26日午後7時全面勝利協定
一、完全8時間制の実施
一、賃金日給1割増額
一、工場委員会(労働者5名、会社側5名)を常設し、議事はすべて委員の多数決で決める。今後労資間の問題はすべて委員会に一任する
一、『長』の労働者投票選挙制度を導入する
一、1920年(大正9年)2月1日から実施
園池倶楽部にいた労働者はこの勝利に喝采し心から喜びました。同時にこの勝利は地域や全国の応援の力が大なるによると、即座に感謝の意を表明すると共に、今後、このような労働争議が起きたら、いかなる労働者であろうと私たちはできる限りの援助を与えんと互いに固く覚悟しました。
工場閉鎖の弱点
工場閉鎖が労働運動をつぶす唯一の武器であると思ったにもかかわらず、それが労働者にとってかえって幸いなる事をこの争議が証明します。第一は、悪法治安警察法で弾圧したくても、工場閉鎖は治安警察法では決して労働者を束縛できない。工場閉鎖が同盟罷工よりも、労働者の立場を有利にしている。第二は、争議解決後、争議中の賃金を資本家に請求することができる。休業は労働者の意志にあらずして資本家の意志で労働者の生活が脅かされたのだから、休業中の賃金は支給されるのは当然です。
産業民主の大精神
労働運動の目的は、単に賃上、労働時間短縮の要求ではありません。労働運動の目的は、労働者の人格を確立し、人が人として完全なる生活を営み得る、産業民主の精神でなければなりません。この理論を具体化したものは、日本の現在にあっては、労働者の『長』階級の選挙制度要求です・・・労働運動は単なる労働者運動ではなく、全人類の解放運動です。
最後に
最後に本社員平澤計七、加藤勘十の両君がこの労働争議に関係して幾分にてもその目的の完成に助力した事を無上の喜びとするものです。
以上
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(注)
卑劣な園池製作所は翌年の1921年再び組合つぶしの大攻撃をかけてきます。数か月間の大闘争のすえ、労働者側は全面敗北します。その経過は、次回の「1921年の主要なる争議②」で報告します。