先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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日鉄と園池争議 1921年主要な労働争議② (読書メモー「日本労働年鑑」第3集1922年版大原社研編)

2021年09月19日 09時19分21秒 | 1921年の労働運動

日鉄と園池争議  1921年主要な労働争議②  (読書メモー「日本労働年鑑」第3集1922年版大原社研編)

「工場委員会制度」を無視した会社! 東京鉄工組合の奮闘

(参照)
「日本労働年鑑」第3集1922年版大原社研編
「日本労働組合物語大正」大河内一男・松尾洋

2 日鉄と園池の争議
日本鉄工株式会社争議
 日本鉄工株式会社(品川)は1921年1月11日、会社は事業縮小を理由に134名中90名の労働者の解雇を発表してきた。日本鉄工株式会社には、1918年から工場委員会制度があったが、不況による経営危機だからと工場委員会の権限を一切無視し一方的に大量労働者のクビを切ってきたのだ。労働者側は、ただちに東京鉄工組合日鉄の臨時総会を開き、「①被解雇者全員に180日分支給せよ、②再び従業員を募集する時は被解雇者を雇い他の者は雇わない事、③会社は団結権を認め、最後まで会社対組合の問題とすること」の要求を出したが、会社は、②と③は受け入れたが、①は「なんとしても金策ができない」と拒否し続けたためストライキに突入した。

  いかに金策しても無理という会社に対し、労組は「在庫製品(発動機)を代償として組合に引き渡すこと」を要求し、また早稲田大の簿記学柳楽教授の助けも得て「組合の会社帳簿の閲覧」を要求し、会社はついに帳簿の閲覧に応じる「覚書」に署名した。帳簿の閲覧は争議が解決したため実際には実行はされなかったが、この戦術は、「製品引き渡しの要求」と共に、「これは我が国の労働運動史上特筆すべき創意であろう(「日本労働年鑑」大原社研)と評価された。

 スト15日間、1月26日品川警察署長の調停で解決した。
解決内容
一、解雇手当150日分支給
一、50日分は現金。100日分は発動機に換算し組合に引き渡す
一、スト中の賃金保障
一、年末賞与の支給と積立金の払い戻し
一、今後雇い入れる場合は被解雇者をもって雇う
一、工場内の組合の組織化は自由

園池製作所争議
 東京鉄工組合園池製作所支部の労働者は、前年1920年に工場委員会と公長の職場選挙制を実現し、労働者は、職場の闘いの成果を誇っていた。しかし、1921年1月23日、会社が工場委員会を無視し、一方的に「請け負い制度の全廃」や「いかなる理由があろうと遅刻は一分足りと絶対認めない」「賃金制度の改悪」などを通告してきた事から、工場委員会制度は全く空文となった。東京鉄工組合は、ただちに闘争態勢に入った。品川警察は3月9日に4名、11日に2名組合幹部を検挙した。その11日、会社は品川警察刑事の立ち合いのもとで、52名の組合員を解雇してきた。12日にも田口亀蔵以下3人の組合幹部も検挙された。激しいストライキや示威行動が続いた。しかし、会社は最後まで強硬な姿勢を崩さなかったため、争議団はついに「実力で工場を占領してこれを管理経営する」ことを決め宣言した。警察はさらに組合員5名を検挙した。4月3日豪雨と強風が吹き荒れる中、各労働団体の応援を受けて、工場に向けて大デモ行進を開始した。しかし、結局、工場門の上に赤旗を立て、万歳を三唱して鉄工組合本部に引き上げた。「工場占領」は意思表明のみで終わった。こうして会社のかたくなな拒否、品川警察の組合幹部の相次ぐ検挙など非道な弾圧により、労働者は、みずから闘争態勢を解除し敗北した。

浪人支部
 この2つの争議の後、これら工場の東京鉄工組合員のほとんどは四散してしまったが、しかし、その中の有力なる闘士たちは『浪人支部』を組織し、その後の東京における労働運動界の戦闘的分子の中核を形成するに至った。



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