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先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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『平沢計七のために』 小山内 薫(読書メモー「亀戸事件の記録」)

2022年04月05日 07時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

『平沢計七のために』 小山内  薫(読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)

平沢計七のために 小山内  薫
 平沢計七が殺されたということを、大阪の新聞で読んだ時、私は思わず叫んだ。
 「ひどいことをする」
 ちょうど私は朝飯を食べていた。
 女房がびっくりしたような顔をして訊いた。
 「どうしたんです」
 「平沢君が殺されたとさ――亀戸の警察で」 
 女房も平沢のことはよく知っていた。
 「どうしたんでしょう」
 かわいそうに。革命歌を歌ったとか、何とか書いてあるが嘘だろうと思う。もっとも興奮している時だから、そのくらいのことはやったかも知れないが、何もそれだけのことで殺すということはない。歌を歌ったくらいで殺されるんだったら、おれ達筆を持つものはどうするんだ。かわいそうに。あんな好い人を。
「ほんとに、好い人でしたわねえ。どうしたということでしょう」
「随分世間のためにいいことをしてきた人だ。あんな人を殺すなんて怪しからん。第一、あの人は警察で騒ぐなんて、そんな軽率な男じゃない。これは嘘っぱちにきまっている。だが、官憲だか、軍隊だかが、どっかを突こうとしたら、そんなとこを突いても駄目だ、ここを突け、ここを突け、といって、顔を指さしたと書いてあるが、これは平沢君らしい。立派な態度だ。男らしい・・・」
 その時の話は、こんなことですんでしまったが、私は残念でたまらなかった。
 全体如何なる意味においても「人を殺すということ」は「許すべからざること」だ・・・・・・ 
「死刑」もいけない。 「戦争」はもちろんしてはならないものだ。「敵討ち」もよろしくない。 Ranb mord や L.mstmordの許すべからざるはいうまでもない。私のこの考えは、若い時に強く受けた基督教の感化かも知れない。しかし、背教者 (?) の一人となった今日でも、この考えには変りがない。どんなに悪いことをした人間でも、人間がそれを殺すことは許されない。いわんや平沢計七のように名利を離れて、力のない被搾取階級のために力を貸してやっていた人間を殺すという法はない。若し平沢がかりに盗みをはたらいたとする。――それは労働運動の運用金に窮した揚句の行為だとしてもよい。あるいは、もっと悪い場合を想像して、単なる欲望からの行為だとしてもよい――それでも平沢は罪せらるべきではない。
 なぜと言えば、ふだんが好いからだ。私が裁判官なら「情状酌量」で無罪にしてしまう。
   だが平沢はもちろん泥棒ではなかった。嘘つきでもなかった。人殺しでもなかった。それだのに死刑という一番重い刑罰で――若しそれが許されるとして―― 罪せられたのだ。もちろん、その執行者の何人であるかは分らないだろう――あの混乱の中だから。いくら山崎今朝弥君(弁護士)が骨をおっても、恐らく永久に知れないだろう。それは神様だ。そして神様はその執行者を決して安楽に生き延びさせないだろう。自白をさせるか、自殺をさせるか。さもなければ、神様自身が手を下して、そいつの生命を絶ってしまうだろう。
 人間にはそういうことは出来ないが、神様にはそれ が出来るのだ――神様だけにはそういうことをする権利があるのだ・・・
 その憎むべき死刑執行者は命を絶たれるだけでは済まないだろう。その霊はきっと地獄へ送られて永遠の呵責を受けなければならないだろう。 
 これも人間には出来ないことだが、神様には出来ることだ。そして神様はきっとそうするに違いない。 
 若しそうでなければ、この世は闇だ・・・こんなことを書くと、多くの人は私の頭を単純だといって笑うだろうが、笑われてもかまわない。私は単純だ。この単純が私の生命だ。この単純を奪われたら、私は生命を奪われるだ。女房が平沢のことを「好い人だ」「好い人」だというのも単純な理由からきているのだ――
 ちょうど私が西洋へ行く時だった――もう今から十二年も前のことだっだ。――平沢は浜松の方の工場で働いていた。私がいよいよ東京を立つという時、彼はわざわざ浜松から新橋のスティションまで見送りに出てきた。それだけでも、どんなに嬉しかったか知れなかった。ところが、私達の汽車が浜松へ着くと――もうそれは夜半過ぎだった。私も女房も疲れてうとうとしていた 。――ことことと硝子窓を叩くものがある。びっくりして目を覚まして水蒸気で曇った硝子を手で拭いて見ると、外に立っているのは平沢計七だ。
 彼はここからわざわざ新橋まで来て、また私達と同じ汽車の三等に乗って――私たちは二等だった。――ここまで帰ってきたのだ。私達はそれをちっとも知らずにいたのだ。
 その時の嬉しさは、私でさえまだ忘れることが出来ない。女の女房がいつまでもそれを感銘しているのは無理もないことだ。女房が平沢を「好い人だ」というのはこの時のことが頭に残っているからだ。・・・平沢計七の存在を文壇で一番最初に知ったのは私だろう。――それは平沢に聞いて見ないと分らないが、平沢はもう死んでしまっている。別に自慢になる事ではないが、恐らくこれはそうだと思う。
 記憶は甚だぼんやりしているが、私が未だ下渋谷の岡田の近所に住んでいた時分だと思う。――もう今から十五年も前のことだ。 
 ある日、目のところに引っつりのある、筋骨のたくましい青年が、私を訪ねて来た。女中は気味わるがった。女房も初めは気味をわるがった、と覚えている。それが平沢計七だった。平沢はその時分、大宮の鉄工場で一職工として働いていた。脚本を書いたから見てくれ、といって持ってきたのだ。私も初めは冷淡だった、そんなことをいって来る人は、平沢一人ではなかった・・・。
 併し平沢が学問も何もない職工だということが私の好奇心 (厭な言葉だが、実際その時はそうだった。)をそそった。それに初対面ではあったが――その時話したことももう忘れてしまったが――平沢の人物がかなり強く私を引きつけた。
 平沢が帰ってから彼の持って来た脚本を読んで見た。日本紙に墨で、下手な字で書いてある。誤字もあった。送り仮名なども、間違っていた。しかし、作品そのものは純真だった。どこに一つ「気取り」がなかった。少しでも巧く見せようとする様な「野心」がなかった。もちろん模倣など影もなかった。しかも作者の掴んでいる内容だけははっきり現われていた。不思議に戯曲作法の根本義もしっかり掴んでいた。貧しい生活を書いたものではあったが、しかし暗い中に光があった。希望があった。私は実際動かされた。持ち込まれた多くの脚本が大抵は「気取り」と「野心」と「模倣」とに満ちたものばかりだったので咽喉の渇き切っている時に綺麗な水でも一ぱい飲まされた様な気がした――平沢はそれから度たび私のところへ来る様になった。
 もちろん創作などというものは人に教えることの出来るものではない。又教わって上手になれるものでもない。てんでに自分で学ぶより外にしようがないものだ――そう思っている私のことだから、何一つ彼のために助力をすることは出来なかった。唯彼の書いて来たものを読んで返すだけだった。それでも平沢は不満な顔もせずにやって来た。乏しい財布から時々土産物まで買って来た。私はいつも礼を言って貰うには貰 ったが、なんだか済まないような気がした。
 その内に平沢は兵隊に取られた。軍隊は麻布だったか、青山だったか、なんでも東京だった。

 兵隊になってからはなお勉強して脚本を書いた。士官の当直室だの新兵の生活だのを、忌憚なく書いたものに、大分面白いものが出来た。しかしそれは公表するとどこかから叱られそうなものばっかりだった。
 その前後だったと思う、私は平沢のことを吉井勇や、長田秀雄に話した。脚本も見せた。みんな感心した。久保田万太郎にも見せた。これも感心した。
 そこでどれか一つ世間へ出して見せたくなった。それから「三田文学」に話して――たぶん久保田に話して貰ったのだった――一つ出して貰った。それが何の脚本だったかはもう忘れてしまった。その時分「平沢紫魂」と称していたが、そのいわれはとうとう聞かずにしまった。
 しかしその時分のことだし――その時分というの は、無名作家が注意されなかった時代だという意味だ――別に文壇の注目も引かなかった。唯吾々の仲間で感心して吾々の仲間で噂をし合っただけだった。兵隊の仲間で一番多く平沢が私のところへ来た。殆んど日曜日には欠かさず来た。その時分吾々が有楽座でやって居た土曜劇場などにもよく三階に来ていた――私はだから平沢というと直ぐカーキー色の軍服を着た平沢を思い出す。それがその官憲だか軍隊だか、何だかに殺されたのだと思うといよいよたまらない。
 兵役をすますと平沢は浜松のある工場へ働きに行っ た。また元の職工になったのだ。しかし、私が西洋から帰って来る前後にまた東京へ帰って来た。
 はじめはやっぱり大島町のある工場で職工をしていたのだが、そのうちに労働運動に頭を突っ込むようになった。
 職工をやめて、鈴木文治の旗下で雑誌などの編集をしながら労働運動に参加する様になってから、彼はあまり私のところへ来ない様になった。背広服を着た彼をはじめて薩摩っ原の角で見たのはいつのことだったろう。私は大層立派になったと思った。言うことも、なかなかしっかりして来た。頭は前から良い男であったが、体験のある上に学問的に労働運動を研究する様になってから、一層それがしっかりして来た。間もなく彼は劇団を組織して各工場地を回る計画をした。彼はそのことで、私を時々訪ねて来るようになった。私もその計画に賛成だったのでいろいろ自分の考えを述 べた。しかし鈴木文治という人が、そういう方面のことには無理解だったらしいので、この計画は頓座してしまった。
 
 平沢は間もなく鈴木文治のところを離れて大島町へ移って、そこで一人で――恐らくはじめは一人だったろう――働くようになった。
 ストライクがあるといえば何処へでも飛んで行った。そして労働者をリードした。ストライクの間労働者の女房達が悪いことをしてはいけないというので、夜はそういう連中を集めて、お伽話などをして聞かせた。平沢の好いところはこういう点にもあった。
 忙しいのでもう私の家にはこなくなったが、時々往来などで会うと、いろいろな面白い話など聞かせてくれた。
 鉱山のストライクなどについて、私は小説や脚本などより面白い話を度々聞いた。
「あなたもいっぺん私と一緒に行って見るんですねえ」などとも言った。私は実際一度一緒に行って見たいと思った。私が松竹キネマ研究所というものを預かるようになった時分、労働問題に関するフィルムを作って見たいと思って手紙で平沢の所へそう言ってやっ た。平沢は自分が最近書いた脚本をゲラ刷のまま――それは「労働と産業」という雑誌へ出す筈のものだったと覚える――二つ三つ送って寄越してくれた。皆な面白いものだった。監督の村田實も感心して、是非写真にして見たいと言っていたが、どうも官憲が発表を許しそうもなかった。それで私のその計画も実行されなかった。
 その内に平沢が大島町の寄席で郊外廻りの新派俳優を使って、自分も役者になって、その中にはいって自分の書いた脚本をやるということが新聞に出た。行って見たいものだと思っていると、平沢のところから切符が来た。それから土方与志などを誘って一緒に出かけた。
 私ははじめて大島町という所へ行ったのだ。道が分らないので困った。尋ねたずねして、やっとその寄席を見つけた。 
 私たちがはいった時は、当り前の新派悲劇らしいものをやっていた。役者は中々達者だった。やがて、それが済むと、平沢が書いた「失策」という喜劇が始まった。この脚本は私も原稿を読んで知っていた。啓蒙的ではあるが、労働者に見せるには好い芝居だと思っ ていた。
 平沢は労働者の一人になって登場した。彼が現れると、見物客は喝采した。平沢は少しの技巧もなしに、まじめに演じた。愛嬌のなさすぎる程まじめに演じた。そして自分の主義を述べる台詞を、熱烈にレサイトした。
 幕がしまると、平沢は私たちのところへ、手づかみで蜜柑を五つ六つ持ってきてくれた。そして官憲の圧迫で、思うような芝居の出来なかったことを残念がった。どの脚本も却下されて、やっと失策だけが、どうにかこうにか通ったのだと言った。そのために、普通の新派悲劇を前につけなければならなかったのだと言った。そう言えば、私達のまわりにも官憲やら私服やらの巡査が沢山来ていた。
 平沢の脚本の初演――恐らくそれはそうだったろう――を見たというだけで、私はあの晩を忘れることができない。・・・
 最近に――と言うても、大分前になるが――私が平沢に会ったのは、人形町から蠣殻町の方へ行く電車の中だった。
 私は明治座へ行った帰りだった。彼も明治座を見に行ったのだ、と言った。そして自分の隣りにいる男を指さして「これは僕の尾行です」と言った。「少し疲れましたから、暫く田舎へ行って、静かにものを書きたいと思っています。あした立つつもりです。あの尾行にも諒解を得ておきました」
 それから間もなくして、平沢のところから私のところへ手紙が来た。手紙の中には、こんな意味のことが 書いてあった――久しぶりで貴方に会って、いろいろ以前のことを思い出した。自分もはじめはあくまで芸術で立つつもりだったが、やむにやまれぬ事情から実際運動に首を突込んでしまった。しかし芸術のことは決して忘れない。一刻も忘れたことはない。・・・ 
 簡単な手紙ではあったが、私はこれを読んで感動した。正直な告白だ。実際運動と芸術というものをはっきり分けて考えているところも豪いと思った。アナトオル・フランスのような人もある。パナァド・ショオのような人もある。しかし、突きつめて考えればあくまで実際運動だ。プロレタリアの芸術家がダイナマイトを手にしないと言われて、恥じることはないのだ。 労働運動者が好い文学が書けないと言われて、恥じる必要はないのだ・・・
 私は平沢が芸術を棄てて実際運動に参加したことを決して悲しまない。これは彼としてやむを得ざることだったのだ。彼は芸術を忘れないと言っているが――― それは、彼の優しい心の発露だが――私は忘れて貰っても構わないと思った。いや、忘れて貰う方が好いと思った。なまじっか芸術などに未練があったら、それが実際運動の完成に禍しやしないかと思ったからだ・・・・

 要は人間の完成だ。
 芸術家だけが高等な人間ではない―――実業家や政治家や軍人より高等なことは分かり切っているが、それでもまだ外に高等な人間がいないとは言われない。
  私はもちろん総ての労働運動者を讃美するものではない―――中には名利のためにしているものもあるだろう。汚ない野心のためにしている者もあるだろう。しかし、そういった人間は芸術家の中にもあるのだ。政治家の中にもいるのだ。もちろん、実業家はみんなそれだと言ってよい。
 して見れば、多少の悪分子があったからといって、労働運動者全体を否定することはできない。とに角、彼等は「他人の為」に働いているのだ。「隣人の愛」の為に働いているのだ・・・
 私はひそかに人間としての平沢の完成を望んでいた――芸術家としての平沢も、惜しいことは惜しいが、人間としての平沢には換え難いからだ・・・・
 その平沢が罪もないのに、むざむざ殺されてしまったのだ。
 近頃出た「種蒔き雑記」を見て、彼があの大混乱の中でも、人のために奔走していたことを知った。私はいよいよ堪えられなくなった。
 官憲の為には「たん瘤」であったかも知れないが、われわれ友人にとっては、「宝珠の玉」だった。
 その「宝珠の玉」を官憲が砕いてしまったのだ。
 私は憤りをもって―――憤りの罪を犯して―――この文章を書いた。

(筆者は、劇作家であり、演出家であり、日本の新劇運動の先駆者である。一九〇九年市川左団次と自由劇場をおこして新劇運動ののろしをあげた。二四年土方与志と協力して築地小劇場を創設、チェーホフ「桜の園」、「三人 姉妹」、ゴーリキー「夜の宿」などを演出。 二七年ソヴェト革命一〇周年記念に国賓としてソ連に招かれた。帰国の年一二月急逝した。一八八一年~一九二八年) 



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