先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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「大正震災志」に記載されている流言蜚語とその被害 読書メモ(その一)

2023年08月09日 07時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

上・「大正震災志上巻・下巻他」内務省社会局編(1926年刊行) 

「大正震災志」に記載されている流言蜚語とその被害 読書メモ(その一)
参照・「大正震災志」内務省社会局編 大正15年2月28日発行

 関東大震災から3年後の1926年に内務省社会局が刊行した「大正震災志」の中に記載されている流言蜚語とその被害に関連した主な箇所を抜粋して紹介します。

冒頭
御名御璽(ぎょめいぎょじ)の〈詔書〉
「・・流言蜚語盛んに伝わり人心洶々として倍々その惨害を大ならしむ之を安政当時の震災に較ふれば寧ろ悽愴なるを想知せしむ・・」(詔書 御名 御璽 大正12年9月12日)
*感想
 震災勃発からわずか10日あまり、当局が天皇の〈詔書〉として、天皇の名を使って、あるいは天皇自らの言葉として、流言蜚語による被害(朝鮮人虐殺)が、いかに〈倍々その惨害を大ならしめ〉、安政大地震の時よりも〈むしろ悽愴(目をそむけたくなるほどの悲惨な状態)〉であるとわざわざ布告させている。流言蜚語による被害(朝鮮人虐殺)が、いかに悲惨で凄まじい状態であったか容易に推測できる。

正記
第一編 
「有史以来未曾有と稱(しょう)せられた大震火災に依りて、恟々たる人心は更に引き続いての流言蜚語で、さらぬだに興奮したる神経をいやが上に刺激し、戦々兢々として殆ど適従する所知らざる有様であった。」251ページ

「曰く大地震の再来、曰く不逞団の横行、曰く放火犯人の跳梁、曰く脱獄囚、・・。と至る所にこれらの流言は伝わりて、全市は唯混乱の状態であった。」256ページ

戒厳令
「(9月2日政府は非常徴発令を発布し続いて)この日戒厳令を東京市、荏原郡、豊多摩郡、南足立郡、南葛飾郡に布き、3日関東戒厳司令部条例の公布あり、戒厳区域を東京府、神奈川県に改め、さらに埼玉.千葉2県を追加し、陸軍大将福田雅太郎を関東戒厳司令官に補した。」257ページ

「5日、政府は流言蜚語に対し一般国民に告諭して、その自重を求めた。
 今次の震災に乗じ一部不逞鮮人の妄動ありとして、鮮人に対して頗(すこ)ぶる不快の念の感を抱く者ありと聞く、鮮人の所為若し不穏に亙(わた)るに於いては速やかに取締の軍隊又は警察官に通告して其の処置に俟(ま)つべきものなるに、民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加ふるが如きことは固(こく)より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず、・・・民衆各自の切に自重を求むる次第なり。」258・259ページ

「なお7日に至りて、政府は治安維持のためにする罰則を公布し、流言を禁遏するにつとめた。」259ページ
*感想
 「日鮮同化の根本主義」、政府のこの思想自体がおっそろしく傲慢な朝鮮民族を侮蔑するもの、侵略思想そのもの。むしろ「又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず」と朝鮮人虐殺が、世界から批判されることを本当は危惧している。

(関東戒厳司令部の命令)
9月6日関東戒厳司令部は関東地方長官及警察官、郵便局長、電信局長に対して命令した。
「1、時勢に妨害ありと認める集会もしくは新聞紙・雑誌・広告を禁止すること。
 2、・・これを検査し、押収すること。
 3、各要所に検問所を設け、通行人の時勢に妨害ありと認るものの出入りを禁止すること。
 4、関東地方長官並びに警察官は昼夜に別なく、人民の家屋・建造物・船舶中に立ち入り検査すること。
 5、・・戒厳令施行 地域内に寄宿するものに対し、時機により地域外に退出を命じること。
 6、関係郵便局長及電信局長は時勢に妨害ありと認むる郵便電信は開緘すること。」262ページ

「朝鮮人に関する流言到る處に行はれ、各所には自警団組織せられ、興奮のあまり鮮人に対して暴行を働くものさえあるに至り、鮮人の身辺が危険に瀕したから、之を習志野に収容して保護を加へたるもの三千七五名の多きに達した。」264ページ

(米国や諸外国からの救援・支援が続々と届けられた事に対して)
「大正十二年の震火災(の海外からの支援)は人類愛の絶頂を表現したものと称してよい。」270ページ
*感想 足元で自ら大虐殺を起こした内務省が「人類愛」を語るとは。

(地方新聞の号外などの新聞記事から)
「当時各地方新聞が号外もしくは本紙において報道したものの中には、随分思い切ったものがあった。その中より数種を転載して、当初暗黒の状をしのぶ一端とする。」270ページ

「麻布連帯一箇小隊は横浜方面より隊伍を組み進行してきた四百名の鮮人と衝突し激戦の結果少数にて全滅した依って更に一箇小隊を派遣したがその後の状況不明(伊豫(よ)新聞)」270ページ

「数百の不逞鮮人隊伍を組みて蜂起暴戻
二日午後五時大森方面よの約四百名の不逞鮮人隊伍を整へて前進し横浜に現れ更に隊伍を整へて東京方面に向ひ進行し来り我が歩兵一小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始したが一小隊では不利にして苦戦の結果麻布連隊より更に一個中隊の応援隊を出動せしめ激戦を交へたるが鮮人の数は約一千名と算せらる仙台電話。(伊勢新聞)」271ページ

「戒厳令突破の為に銃剣で刺される者多数
 火炎の火気で炎熱実に百五十度
 高貴の方々は山の手方面に避難(愛知新聞)」273ページ

「在京各宮殿下にては危険多きをもって軍艦に召され北海道に向け御避難あらせらるる模様なるが北海道にも不逞鮮人の多数在るより道当局万一を慮(おもんばか)り厳重なる警戒を行ひつつありと(樺太夕刊)」274ページ

「鮮人二千御殿場襲撃
   四十九連隊中途に要撃す
 公報=約二千名の鮮人は御殿場に向かって襲撃しつつあり第四十九連隊は富士吉田駕坂峠の二カ所に武装兵を待ち構えつつあり(樺太夕刊)」276ページ

*感想
 内務省は、「報道したものの中には、随分思い切ったものがあった」と新聞記事こそが完全な流言蜚語だと断定せず、あたかも事実はあったが表現は大げさだったととれる言い方をしている。しかし、「約四百名の不逞鮮人隊伍を整へて前進し横浜に現れ更に隊伍を整へて東京方面に向ひ進行し来り我が歩兵一小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始した。一小隊では不利にして苦戦の結果麻布連隊より更に一個中隊の応援隊を出動せしめ激戦を交へたるが鮮人の数は約一千名と算せらる仙台電話」や「鮮人二千御殿場襲撃   四十九連隊中途に要撃す」などすべての新聞記事が全く捏造であったことは、1926年段階では誰もが知っている明々白々なことであったはずなのに、「報道したものの中には、随分思い切ったものがあった」と表現する内務省の闇は深い。

 また新聞がこれほどのデタラメを書けば、民衆が信じるのは当然だ。しかし新聞社や記者自身が何故こんな根も葉もない流言蜚語を信じたのか、踊らされたのか。先に当局や地元の警察からの情報提供があったと考えるのが自然だ。現代、現在のマスコミ自身の手による悔悟、総括、検証、謝罪はなされているのだろうか。マスコミ全社も追悼式典への追悼文を毎年送るべき歴史的責任があるのではないか。

以上

つづく
「大正震災志」各警察署自身が拡げた流言蜚語の数々 読書メモ(その二)



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