『佐藤欣治君の面影』 南 巌 (読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)
佐藤欣治君の面影 南 巌
佐藤欣治君は、一九〇四年(明治三十七年) 三月十八日東北の岩手県江刺郡田原字大日前の貧農の二男として生れ、同地の小学校卒業後、県立の蚕糸学校に学び、これを終えて、十九才のとき東京府南葛飾郡吾嬬町大畑にいた伯母の渋谷サトさんを頼って上京しています。彼が蚕糸学校に学んだのは、寒村で養蚕をやる考えではなく、少しでも勉学しようという向学心からで、上京したのも働きながら大学に入学しようと思ったからでした。
ところが、純真な佐藤青年のこの志も、競争の激しい東京ではなかなか果たされそうにもない。伯母さんも低賃金労働者の妻で、甥を居候させておく余裕などあるはずがない。佐藤君は自活の道を切りひらく外はなかったのです。
佐藤君が賃金労働者の第一歩を踏み出したのが、吾嬬町大畑にあった南喜一の経営したエボナイト挽物工場であり、技術のない彼は万年筆の生地のパフ磨きであった。
この小工場で私の兄の吉村光治と知り合い、一九二二年の暮ごろ南葛労働会に加入して、労働運動の存在を知るのです。そののち化学工場を転々としても見たが、植民地的低賃金では、食うのがやっとで、受験勉強をするゆとりはなかった。時折彼は、こんな筈ではなかった、と嘆息をもらしていました。
しかし、一九二三年のメーデーに参加する頃から、闘いこそ勤労者の奴隷状態を打ち破る唯一つの手段であるという考えに立ち、職場労働者の組織に取り組み、次第に彼の積極性が評価されて、吾嬬支部の委員に推挙されるようになった。私は本部理事であったが、支部の会計でもあったので佐藤君と議論する機会が多かった。佐藤欣治君は、背も高く、体格もよく、お坊ちゃん風な青年であり、人好きのする素直さがあって、次つぎと新らしい友人を連れてきていた。それらの青年に、階級的なものの見方をさせるにはどうしたらいいだろう、というのがいつも議論の中心でした。
大震災の頃は、彼は吾嬬町葛西に下宿していたように憶えています。九月二日の午後、私が焼跡の見廻りにいったとき、 深川の高橋附近で佐藤君と一緒になりました。一晩中煙の中を右往左往したので、眼が見えなくなり、何処へも避難するところもない人々に、助けてくれとすがりつかれ、 焼け残った亀戸か、吾嬬町に連れ出すのが安全だとは思うが、疲労しきった人々はもう歩く気力もない。その時目についたのは、亀戸や小岩あたりから舟できていた船頭たちです。そこで船頭たちに頼みこんだのです。この人達を放ってはおけない、どこか安全な処に移さねば生命が危ぶない、困るというのを無理矢理に承知して貰い、佐藤君と二人で、三隻の小舟に十人余りの老人たちを乗せて送ってもらいました。
これらの悲惨な有様を目の前にして、吾嬬支部として救護に立ち上らねば、と決心し、翌三日の午前中、柳島で飲料水を配給する仕事に没頭しています。佐藤君は救護活動の帰路、福神橋付近で、朝鮮人と見誤られて香取神社の軍隊の屯所に収容されたもののようです。
佐藤君の貰らい下げのため、吉村光治は軍隊に、私は亀戸警察に足を運んだが、成功せず、警察署に移され、殺される破目となったのです。佐藤君は岩手県江刺郡の寒村から上京して間もない時であり、東北弁丸出しの発音であったことが拘引されるきっかけになっただけに、いっそう不憫でなりません。
遺族は欣治君のすぐ下の弟、佐藤徹さんは健在ですが、その次の弟、五郎さんは六年前に亡くなられたそうであります。