東学党の乱
《朝鮮人を敵として、宣戦布告なき戦争を続けていた日本》 朝鮮人虐殺、なぜこんなことをしたのか (読書メモ)
参照
(1)姜徳相(歴史学者)一国史を超えて(大原社研)
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/668-02.pdf
(2)山辺健太郎「日本統治下の朝鮮」「日本の韓国併合」岩波新書
(3)趙景達(チョ・キョン・ ダル)「植民地朝鮮と日本」岩波新書
(4)中塚明 奈良女子大名誉教授 著書「東学農民戦争と日本」「歴史の偽造をただす」「現代日本の歴史認識」
(5) 大河内一男・松尾洋「日本労働組合物語」
はじめに
歴史学者の姜徳相さんは、「虐殺再考、戒厳令なかりせば 」で、関東大震災時の朝鮮人虐殺について、
「なぜこんなことをしたのか、理由は簡単である。『敵は朝鮮人』の認識で出動した戒厳軍の指揮下、日本官民は朝鮮人を敵と認識していたからである。・・殺し方、殺され方に戦場の論理が持ち込まれたからである。
では、なぜ日本政府や軍部は朝鮮人を敵と考えたのか、これまた簡単である。日本と朝鮮は旧韓末以来宣戦布告なき戦争のさなかにあったからである」と指摘している。
【日本と朝鮮は宣戦布告なき戦争のさなかにあった】、その中身を朝鮮人民の闘いと日本軍の弾圧、そしてその年の日本労働者の主な闘いを通して学習してみたい。
年表・朝鮮人民の主な闘い
1、壬午軍抗日暴動、東学農民革命等
1875年 江華島事件 日本、軍艦2隻で砲撃、江華島に上陸・襲撃・放火。朝鮮人35名殺害、捕虜16名。軍事力による開国強要
1876年 朝鮮に不平等条約(日朝修好条規)を押しつける(砲艦外交)
1882年 壬午軍(じんごぐん)抗日暴動に決起。数千の朝鮮民衆も銃撃・投石等で参加。
1884年 甲申(こうしん)政変(日本軍関与によるクーデター)
1884年 (日本)秩父困民党 埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起。1万人決起。死刑10数人。
1886年 (日本)山梨雨宮製糸工場女性労働者100人ストライキ(15時間労働時間の短縮、罰金、賃下げ等勝利)
■この年5月1日シカゴ労働者30万の8時間制を求めて大ストライキ
1889年
■第二インターナショナル「5月1日に全世界の労働者はストライキを!」メーデーの呼びかけ
1890年 (日本)集会及政社法、教育勅語発布。
■日清戦争と東学農民革命(甲午こうご農民戦争)
1892年 東学教徒の抗日運動スローガン「斥倭(日本)洋」のビラを貼りだす。
1893年 東学教徒2万人、1万人の大デモ・示威行動と集会を一か月にわたって繰り広げる。
1894年 1月東学教徒農民軍が抗日武装蜂起。役所を襲撃し武器庫を破って武装。3月、蜂起の布告文公布。4月、農民軍4万人に。①人をむやみに殺さない②世間を助けて民を平安に③日本人を追い出し国の政治を正す④ソウルに攻め込み、権力者や貴族をすべてなくそう等の12か条の規律を定める。4月次々と勝利を重ね全国に拡大した。「有無相資」(余力のあるものが、貧しいものを助ける)の政治的・軍事的・社会的権力を形成した東学農民革命(甲午こうご農民戦争)は農村コンミューンでもあった。
4月東学農民軍を口実に、清国と日本(日本軍4,000名)が朝鮮に出兵。東学農民軍の主力は侵入してきた日本軍とのたたかいに注がれるようになった。
6月日本軍の朝鮮王宮占領事件を契機に農民軍再び決起し全土で数十万人が蜂起。刀と火縄銃という劣勢の武装が近代武装の日本軍と戦争。「地の利・人の利」を持つゲリラ戦で日本軍と対抗。日本軍、朝鮮王宮を占拠。国王を捕虜にして日本の要求を認めさせる
■東学農民軍第二次決起
日本軍の朝鮮王宮占領事件直後からの東学農民軍第二次決起は、抗日の旗印を鮮明にした数十万人の命がけの武装蜂起だった。日本軍は「東学党に対する処置は、・・ことごとく殺戮(さつりく)せよ」と電報で命令をだし残酷に弾圧し、数十万農民軍と50回にもわたり交戦し、近代武力で農民軍を皆殺しにした。その時、農民軍側の犠牲者は少なくても3万人、あるいは5万人に迫るといわれている。
■1894年~95年 日清戦争
1895年 (日本)三井三池宮浦炭鉱ストライキ。
■台湾での抵抗闘争
日本が軍隊の力で台湾人の抵抗を制圧した。1895年~1902年の間に、決起した32,000人の台湾人が日本統治者に殺された。
2、義兵戦争
■明成皇后王妃 閔妃を殺害
1895年10月 駐朝公使(三浦梧楼陸軍中将)らが計画・実行。親露米派を放逐する目的で明成皇后王妃・閔妃を斬殺し、遺体を松林に運び、焼き捨てた。直後に国際的非難を受け、日本国内で軍法会議と裁判にかけられたが、関係した日本軍人ら56人は、のちに全員が無罪・免訴とされた。
朝鮮人民が、この屈辱の前に、怒りと憎悪を持ち「国母復讐」と叫び、反日義兵闘争に決起するのは当然の事だった。
1896年 朝鮮で反日義兵が挙兵
1898年 朝鮮独立協会に解散命令
1897年 (日本)足尾鉱毒事件、足尾農民3600人、東京へ<押し出し>大闘争。以後1898年と1900年にも押し出し大闘争。
■中国義和団決起
1900年 中国義和団事件(中国、20万人の義和団軍が反清朝で武装決起。北京に入城)
1900年 (日本)治安警察法制定。この年、足尾鉱毒農民の第4次の押し出し闘争、官憲の大弾圧「川俣事件」勃発。足尾農民クワなどの農具を武器に抵抗。多数が逮捕。
■桂太郎内閣「韓国保護国化」掲げる
1901年 桂太郎内閣「韓国保護国化」掲げる。
1901年 (日本)第一回日本労働者懇親会(事実上のメーデー)参加者2万人以上、東京向島で開催、社会民主党結成(片山潜・安倍磯雄・幸徳秋水ら)。<ストライキ節>が大流行。足尾鉱毒で田中正造が直訴(直訴状は幸徳秋水が書く)。
■日露戦争 第1次日韓協約
1904年~1905年 日露戦争 第1次日韓協約。韓国政府に日本政府の顧問を置かせる
1904年9月 朝鮮全国各地で数千の民衆決起し、電信線切断や鉄道破壊。日本軍司令官は、「死刑」「むち打刑」に処すとの軍律「取り締まり令」を公布。
(日本)日露戦争の戦死者8万8千人
■朝鮮における日本軍による軍律による処刑者
朝鮮において1904年7月から1906年10月にいたる2年余りの間に、軍律による朝鮮民衆の処分者は、死刑35人、監禁・拘留46人、追放2人、むち打刑100人、過料74人、合計257人にのぼる。
(日本)三井三池万田坑ストライキ、リーダーの6人解雇。品川東洋製菓会社の女工40人、監督の横暴にストライキ。与謝野晶子「君死に給うこと勿れ」。<共産党宣言訳>刊、発禁命令、幸徳秋水ら起訴。
■伊藤博文韓国総督府総監に任命
1905年 第2次日韓協約、外交権を取り上げ、日本の「保護国」に。駐朝軍や日本軍憲兵隊が韓国の治安警察権を奪う。韓国統監府の統監に就任した伊藤博文。いまや伊藤が韓国皇帝であった。
1905年 ロシアの1905年革命(血の日曜日、労働者虐殺)、敗北。
■閔宗根(フージニー)の挙兵
1906年 閔宗根(フージニー)が、乙巳保護条約に反対し挙兵。崔益鉉(チェ・イクヒョン)、反保護条約に反対して挙兵(1907年 対馬で断食闘争のまま獄死)。
1907年 高宗(こうそう・コジョン)は第二次日韓協約の無効を世界に訴えるため、オランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密かに使節を派遣。しかし、日本も参加する平和会議は、韓国使節の参加を認めず、使節の一人が抗議の自殺を遂げた(ハーグ密使事件)。日本は事件を理由に、高宗を退位させ、第三次日韓協約で内政も監督下に置き韓国軍を解散させた。朝鮮総督府建設はじめる。保安法公布で集会や政治活動を禁止。
■義兵戦争(1906年から11年)韓国軍隊が軍解散命令等に反対し抗日蜂起
義兵闘争の拡大1906年~1911年
戦闘回数 2852回
義兵参加数 14万人
義兵戦死者 17,779人
安重根(アン・ジュングン)も義兵の一人
■日本軍「南韓暴徒」大討伐作戦
義兵に対する日本軍の「南韓大討伐作戦」(1907年~1911年)は、5年以上にわたる日本と朝鮮人民民衆との大戦争・植民地戦争だった。
■義兵戦争(1906年から11年)の彼我損傷表によれば、
日本軍 義兵(朝鮮人)
戦死 136人 1万7,779人
負傷 229人 3万6千人
とある。どこからみても一般民衆をまきこんだ「立派」な戦争である。日本軍の戦死者が靖国神社の神となったことはいうまでもない(姜徳相)。
1907年 (日本)足尾銅山大ストライキ・暴動、600人逮捕。三菱長崎造船所大ストライキ5千人。足尾の谷中村強制破壊。
1908年 (日本)三菱長崎造船所230人ストライキ、勝利。門司仲仕1万人ストライキ。大阪友禅工1800人賃下げ反対で8日間ストライキ、勝利。郵便局集配人スト多発(横浜長者町70人局長罷免要求など福岡・門司・宇和島・萩・熊谷・和歌山・藤沢・大磯等)。岡山吉備紡績工1200人ストライキ。
■安重根(アン・ジュングン) 伊藤博文射殺
1909年10月26日 安重根(アン・ジュングン) 伊藤博文射殺。安重根1910年3月26日旅順で死刑。日本軍、07年以来すでに朝鮮義兵1万7千人殺害、3万6千人を負傷させている。
(日本)東京市電値上げ反対運動。亀戸モスリン800人3日間ストライキ。長野上伊那郡長野運送500人賃下げに不満でストライキ。
3、韓国併合
■韓国併合
日本では8月の韓国併合に先駆けて、5月に大逆事件(幸徳秋水ら24人死刑判決、12人死刑執行)。
1910年12月22日、日韓併合条約によって日本は韓国を併合し、朝鮮総督府を設置し、朝鮮の司法・行政・立法の三権を奪った。
「韓国併合に関する条約」
第一条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与す
この夜、ソウルの朝鮮統監寺内正毅は「小早川加藤小西が夜にあらば今宵の月をいかに見るらん」と詠む。 反対に、韓国併合のニュースを聞いた石川啄木は 「地図の上/朝鮮国にくろぐろと/墨をぬりつつ秋風を聞く」と詠んだ。
■弾圧
第一 いっさいの政治結社を解散といっさいの政治集会、講演会、演説会の禁止。新聞の発禁。
第二 憲兵・日本軍による暗黒社会の支配
■朝鮮における憲兵・警察の横暴
1910年 犯罪即決令公布(警察や憲兵が裁判・罰を決める。笞ムチ打刑も含む)
朝鮮における日本憲兵・警察は、情報の収集と「暴徒討伐(治安戦)」という従来の軍事警察の職務に加え、民事訴訟の調停や国境税関業務から、労働者取締などの取締業務、日本語普及・納税義務の論示など民衆生活の指導業務に至るまで、民衆生活全般を管掌するものへと拡大し、警察犯処罰規則の施行(1912年4月)によって、87条目の日常行為が拘留と科料の対象とされた。例えば、「不穏の演説」「不穏の文書」「流言浮説」「祈祷」「道路掃除の怠惰」といったものから、「生業なく徘徊」することまで、87条目に入っていた。
これらの取締りは、犯罪即決令によって、拘留、笞刑、または科料に相当する罪、三か月以下の懲役または百円以下の罰金などの罪について、普通裁判所の手続きを経ずに警察署長または憲兵隊長が即決できた。即決処分件数は、1911年1万8100余件から1918年には8万2100余件へと急増。さらに、朝鮮人にのみ笞刑令が適用され、笞刑執行の数は1911~1916年にかけて約5倍に増大。これは、人々の日常生活の治安対象化が急激に進んでいったことを表している。
これらの取締りにおいては、朝鮮人憲兵補助員が変装して常にスパイ調査に当たった。
■105人事件
1911年総督府は一個旅団で安岳の義兵大掃討作戦を展開。安明根(アンミョングン)ら760人を寺内総督府暗殺未遂をでっちあげて一斉に検挙。105人を起訴。安明根は終身刑判決。安明根は後に伊藤博文を射殺した安重根のいとこ。苛酷な拷問で4人が死亡、3人が発狂。
(日本)鐘紡岡山花畑分工場女工900人ストライキ。警視庁「特高」課を設置。東京市電6,000名(大みそかから12年1月2日までの正月大ストライキ)--片山潜検挙5カ月の禁固刑
1912年 中国漢口に中支那派遣隊7,000人。
(日本)呉海軍工廠3万人。職制の横暴にストライキ、機械打ちこわしなど。友愛会結成15人⇒4年後には1万8千人。
1913年 (日本)東京モスリン女工4千人ストライキ
1914年 第一次世界戦争
■中国に「21ヶ条要求」 日本による中国に対する干渉強化
1915年.日本は、第一次大戦中、ヨーロッパ列強が中国から後退した間隙をついて、袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけた。ドイツが租借していた山東省膠州湾などの権益の日本への譲渡、中国東北地方での権利拡大、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くことなど、中国の主権を侵害するもの。
■ロシア革命
1917年 ロシア2月革命―この年の日本でのストライキ参加者数一挙に約6万人(前年の7倍)。
■日本軍シベリア出兵7万人(反革命侵略戦争)
1918年 シベリア出兵。
(日本)米騒動―全国何十万人の民衆の大暴動、7,708人起訴、労働者417工場で呼応ストライキ―この年の日本でのストライキ参加者数6.6万人。
4、三・一独立運動
■日本の支配を揺るがした朝鮮の三・一独立運動
1919年3月1日 朝鮮の独立を宣言し、朝鮮全土に運動が広がった「三・一独立運動」。パゴダ公園に集まった青年学生を中心とする5,000人は、独立宣言を読み上げたのち、市街に出て「大韓独立万歳」と叫びながらデモ行進。たちまち数万の規模に膨れあがり、参加者は公然と「大韓独立万歳」 を叫んだ。朝鮮半島の211箇所で、1,542回のデモが行われ、合計 200万余人が街頭に溢れた。
「主催者の『大衆化。一元化。非暴力』を確認した平和的デモから始まったが、怒った民衆が、役所や警察所や日本商店を襲撃し、通信施設や電車を止めたり、橋を焼き払ったりの破壊行為もあった。また、警官憲兵の弾圧に反撃し武器を奪い抗争に移行していった。民衆は、こん棒・木槍・農具などで原始的武装をし、多くの場合は投石手段で抵抗した。抑圧され続けていた民衆が決起した時暴力にでるのは当然であり、一般に三・一運動が『徒手空拳』の平和運動であったかのように理解されているが、民衆史的地平にたった評価ではない」(趙景達「植民地朝鮮と日本」岩波新書)
三・一運動では独立万歳を叫ぶ素手の民衆に戦場の論理で無差別虐殺を敢行した。平安南道孟山での朝鮮軍の日次報告を引用、「憲兵が群衆を分遣所の内庭に入れ門を閉め一斉射撃をし一気に六十余人を射殺して命あるものは銃剣でとどめをさした」、独立万歳を叫ぶデモに「兵力ヲ使用シ鎮圧」死者七千五百余命は「騒擾」をする時の死者数とは言えない。戦争そのものである(姜徳相)。
この年、 関東軍司令部設置。
■日本軍の弾圧と統治方針
三・一独立運動に対して、朝鮮総督府は、・・・徹底的な武力弾圧をおこなう。水原郡堤岩里(チエアムリ)では教会に閉じ込めた28人のキリスト教徒と天道教徒全員を教会ごと焼き殺す、銃殺する虐殺事件の現場がアメリカ人宣教師たちに目撃される。「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と讃えられる、わずか16歳の女子学生柳寛順(ユグァンスン)も拷問で獄死した(趙景達「植民地朝鮮と日本」岩波新書)。
三・一独立運動での朝鮮人の死者約7,509人、負傷者約1万5,961人、投獄者約5万人におよんだ。運動は鎮圧されたが、総督府はこれを契機に表向き統治方針を従来の武断政治から文治政治に切り替えた。具体的には憲兵警察を普通警察にかえ、日本人官吏教員の帯剣を廃止するなど、あからさまな武力支配を改め、出版・集会・結社の自由を一部許可するようになった。
日本の世論は、朝鮮民衆を暴徒とした。石橋湛山と吉野作造は朝鮮独立を支持する立場を表明したが、時の社会主義者などはほとんど言及していない(趙景達「植民地朝鮮と日本」岩波新書)。
■義烈団
1919年11月には義烈団が結成される。義烈団は、日本人高官・日本軍首脳・スパイなどを暗殺し、また警察署・朝鮮総督府・皇居攻撃や田中義一暗殺未遂など多くの爆弾・暗殺闘争を敢行した。1920年には、理春の日本領事館が朝鮮人から襲撃される間島事件も勃発。
■中国全土に広がった五・四運動
1919年、第一次大戦が終わりパリ講和会議が始まると、中国代表は「民族自決」にもとづいて、日本の二十一カ条要求の破棄と、山東省の権益返還を要求。しかし、中国政府の要求は拒否される。5月4日、憤激した北京の学生を中心に、二十一カ条と親日的軍閥政府への抗議デモがおこなわれ、政府の弾圧にも関わらず抗議運動は全国に広まっていった(五・四運動)。上海では学生・労働者のストライキと商店の休業が8日間つづいた。ついに、北京の軍閥政府は親日官僚を罷免するとともにヴェルサイユ条約の批准を拒否。大衆運動が政府を動かした。
(日本)友愛会⇒労働総同盟と改名組合員20万人→28年には40万人。大島製鋼所ストライキ。亀戸で全国セルロイド職工組合発会式。日本交通労働組合創立6千人。コミンテルン創立―この年の日本でのストライキ参加者数6.3万人。
5、日本軍植民地防衛戦争
■日本軍植民地防衛戦争
日本軍は独立軍の根拠地覆滅のため1920年10月間島侵攻(植民地防衛戦争)を敢行した。
「十月二十九日、日本軍数百名ハ、突如トシテ延吉県細鱗河方面ニ至リ、韓人家屋数百戸ヲ焼キ韓人ニテ銃殺セラレタル者夥シ。又翌三十日午前八時三十分延吉県街ヲ距ル約二里帽山東南青溝付近韓人部落七十余戸ハ日軍ノ為ニ一炬ニ付セラレ、併セテ五百余発ノ銃弾ヲ発射シ、同村ヲ包囲攻撃セリ、同村居住韓人三百余名ノ中、辛シテ遁レタルモノ僅ニ四・五名ノミ。其ノ他老若男女ハ火ニ死セス銃ニ傷ツキ、鶏犬タリトモ遺ル所ナク、屍体累々トシテ横リ、地ニ満チ、血ハ流レテ川ト成シ、見ル者涙下ザルハナシ・・・(中国で発行された『震壇』紙の記事より)
間島一帯の朝鮮民衆の被害状況。
被殺害数 被捉人数 被強姦数 被焼戸数 被焼学校 被焼教会 被焼穀類
3106人 238人 76人 2507戸 32学校 7教会 38795
(『韓国独立運動之血史』朴殷植著)
1920年 (日本)日本最初のメーデー、上野公園5,000人。八幡製作所2万人ストライキ8時間制の要求、東京市電5日間の8時間制要求の全線ストップストライキ。富士瓦斯紡押上工場2千余人(女性1600人)団結権承認と3人の不当解雇に反対してストライキ。ストライキ参加者数3.6万人。
■中国革命の新たな担い手、国民党と共産党
五・四運動における大衆運動の高揚を見た孫文は、秘密結社による革命運動を転換し、1919年10月、国民大衆に基盤をおいた中国国民党を結成し、広州に広東政府を樹立。また、1921年に中国共産党が結成。反帝国主義の立場からソ連は民族独立を支援した。
1921年 (日本)川崎・三菱神戸造船所、団交権を求めて長期大ストライキ、会社ロックアウトと警察・陸軍動員、労組幹部300人を一斉逮捕、スト開始45日後組合側惨敗宣言。自由法曹団結成。日本労働学校設立。ストライキ参加者数5.8万人。
1922年 (日本)全国水平社創立大会で差別言動への徹底糾弾を決議。日本共産党創立。ストライキ参加者数4.1万人。
1923年、孫文は、反帝国主義、反軍閥を掲げて、「連ソ・容共・扶助工農(ソヴィエト政府と連携し、共産党を受け入れ、労働者農民を助ける)」の三大政策を発表。
■義烈団の「朝鮮革命宣言」
1923年1月 独立活動家・申采浩(シン・チェホ)起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は、独立闘争の理念と具体的行動を宣言した。
■朝鮮駐箚軍司令部遍『朝鮮暴徒討伐隊』(1923年)には、
「在京城歩兵第五連隊第七中隊(白井大尉) 八金城守備ノ為ニ二十一日京城ヲ発シ揚州、積城ヲ経テ付近ノ暴徒ヲ掃蕩シツツ二十三日兎山ニ宿営シタリ、・・・二十四日鉄原ニ向ヒ前進中石橋西方ニ於テ暴徒約百ニ遭遇シ其十四ヲ殪(タオ)シ石橋村民ノ全部賊徒ニ与スルヲ知リ該村落焼夷ス・・・西川中隊ハ二十七日午前三時法化洞ニ於テ約百五十ノ暴徒ト衝突シ其二十を殪(タオ)シテ潰乱セシメ、・・・白井中隊及阿部小隊ハ、・・・午後三時大光里東北方ニ於テ約二百五十ノ暴徒ニ遭遇シ其八十を殪(タオ)シ残余ハ山谷ニ潰走セシム二十八日各隊ハ其守備地ニ期間ス」(63ページ)
■関東大震災の朝鮮人虐殺と朴烈(パク・ヨル)の大逆罪死刑判決
1923(大正12)年 関東大震災時朝鮮人、中国人虐殺、大杉栄家族虐殺、亀戸事件(南葛労働運動家10名が亀戸警察で虐殺される)、朴烈(パク・ヨル)への大逆罪死刑判決。9月29日総同盟鈴木文治「朝鮮総督斎藤実閣下への意見書」をだす。
6、朝鮮における治安維持法など
■第一次国共合作
1924年、中国、第一次国共合作。黄埔軍官学校が設立され、校長に国民党の蒋介石、政治部主任には共産党の周恩来が就任。
■朝鮮で小作・労働争議が高揚
1924年には、541件の争議が起き、29年には元山(げんざん)ゼネスト。
「争議の農民や労働者は『餓死同盟』を結んで、物乞い闘争やビラ配布や街頭座り込みなどで、工場以外に騒動を持ち込み、しばしば同情ストが行われた。同情ストは、植民地朝鮮における労働争議の特徴の一つ」(趙景達「植民地朝鮮と日本」岩波新書)
1924年 朝鮮労農総同盟結成(全国147団体)
(日本)関西8千の電鉄労働者決起。「労働者が労働組合を作ることは、今や天下御免である」とビラを配布し、各社でストライキやサボタージュ闘争。大阪市電2千人8時間制などを要求して高野山籠城ストライキ、幹部26人逮捕、アルバイト学生らでスト破り、171人解雇で敗北。ストライキ参加者数 333件 5.4万人。
■三・一独立運動をきっかけに、「武断政治」から「文化政治」へと植民地統治のありかたは一定の変化を余儀なくされ、憲兵警察から普通警察へ、治安維持の主力も交代。しかし、民衆を「騒擾予備軍」と見なし、日常生活から予防的に厳格に取り締まる発想の根本は変わらない。
さらに、1925年5月には日本・朝鮮に本国と同時に治安維持法が施行され、同法適用の第一号は第一次朝鮮共産党検挙。1920年代後半は6・10万歳運動、元山(ゲンザン)ゼネスト、光州学生運動など、民族運動、社会主義運動が活発になり、これらも厳しく弾圧され、1930年代になると社会主義運動・民族運動に対する弾圧体制をさらに強化。1936年12月には朝鮮思想犯保護観察令を交付し、治安維持法違反者で執行猶予、起訴猶予となった者、出獄した者を「保護観察」処分にし、思想転向を強要。
日本国内での、死刑・無期判決はゼロの一方、朝鮮では治安維持法違反で大量の死刑判決を下している事で明らかのように「侵略・抵抗圧殺法」そのものでもあった。
■朝鮮における治安維持法
治安維持法は、1925年、天皇の「勅令」によって、本国と同時に、朝鮮、台湾などの植民地にも施行。同法適用の最初は日本本土では26年1月の京都学連事件。朝鮮ではそれより前の25年11月、66人が検挙された第一次朝鮮共産党事件〔京都大学人文研の水野直樹助教授「日本の朝鮮支配と治安維持法」(旗田巍『朝鮮の近代史と日本』所収)〕。
朝鮮半島における治安維持法を使った弾圧の残酷さは、本国ではなかった死刑が実行されたこと。同法違反で逮捕され、虐殺・獄中死したのは本国では、約1,700人だが、死刑判決はでていない。
しかし、朝鮮では、
「28年、斉藤実総督狙撃事件で2人に死刑判決」
「30年、5・30共産党事件で22人に死刑判決」
「33年、朝鮮革命党員徐元俊事件で1人に死刑判決」
「36年、間島共産党事件で被告18人に死刑執行」
「37年、恵山事件で5人に死刑判決」
「41年、治安維持法で5人に死刑判決(第1審)」
などの例が。
水野直樹助教授は、「日本国内では、28年から38年までの間に治安維持法違反で無期懲役を言い渡された者はわずか1名だったが、朝鮮では39名に上っている。懲役15年以上の刑について見ても、日本が7名であるのに対し朝鮮は48名となっている」としている(同前)。
「朝鮮ノ独立ヲ達成セムトスルハ我帝国領土ノ一部ヲ僣窃シテ其ノ統治権ノ内容ヲ実質的ニ縮小シ之ヲ侵害セムトスルニ外ナラサレハ即チ治安維持法ニ所謂国体ノ変革ヲ企図スルモノト解スルヲ妥当トス」(新幹会鉄山支部設置にたいする治安維持法違反事件、30年7
月21日、朝鮮総督府高等法務院判決)
つまり、独立することは、日本帝国の一部を奪うことになる、という屁理屈で、植民地における独立運動は日本の「国体変革」の運動として、治安維持法違反とし、死刑をもってこれにのぞんだ。
〈参考〉吉岡吉典著『侵略の歴史と日本政治の戦後』(新日本出版社)
〔赤旗2006・9・20〕
■日本満州出兵
1925年 日本満州出兵。中国全土で抗日武装闘争が広がる。
朝鮮共産党結成(半年後幹部大量逮捕)
在日本朝鮮労働総同盟結成
東京朝鮮無産青年同盟会結成⇒東京朝鮮青年同盟⇒社会主義団体「一月会」
1/28 京城の電車労働者8時間制を要求しストライキ突入。
朝鮮神宮建立。
■中国北伐の始まり
孫文はこの年1925年3月、「革命いまだ成らず」の遺言を残し死去。7月、国民党は運動の高揚を好機ととらえ、広州で国民政府の成立を宣言。上海で日系企業の紡績会社の労働者7万人と青島(チンタオ)1万7千人の賃上げ等のストライキが勝利の後、5月上海と青島で再び決起と弾圧。死者8人と多数の負傷者と逮捕者。 デモ行進にイギリス警察が発砲し多数の死傷者を出す事件(五・三〇事件)が起きると、これに抗議して上海、北京、香港など全国で労働者20数万人、学生5万人と商店も一斉ストライキに突入して「打倒帝国主義」を叫んだ。
神戸・横浜港では、中国人船員1300余人が下船拒否ストライキ。この時、日本海員組合長樽崎(ならさき)猪太郎は、日本人海員に向けて「スト破りに加担するな」と「血と涙をもって日本海員に檄す」となる檄文を配布し、日本海員組合は、多額のカンパを中国人海員に渡した。日本評議会も、中国上海総工会(労働組合)に激励電報。「対支非干渉」運動を巻き起こすと共に代表を上海に送った。評議会代表は、ストライキ中の大群衆に向かってアジ演説をし、デモにも参加した(「日本労働組合物語」大河内一男著)。
1925年 (日本)治安維持法、普選法制定。日本労働総同盟分裂と評議会結成。この年のストライキ参加者数396件 4万人。
無産政党結成運動
日本共産党再建
被差別部落民衆の決起
無産青年運動の高揚
学生運動の高揚・・・労働運動に参加、労働争議・小作争議支援、労働学校・セツルメント運動高揚
婦人運動の高揚
■6.10万歳運動
1926年 6.10万歳運動(150人学生逮捕)
1926年7月、中国国民革命軍、北伐を開始。10万の北伐軍は、共産党に指導された農民運動や労働運動の支援を受けて、各地の軍閥を破りながら北上し、翌年3月までに上海、南京など中国南部を解放。
(日本)共同印刷大争議58日間ストライキ(徳永直小説「太陽のない街」)。浜松日本楽器大ストライキ。ストライキ495件スト参加者数6.7万人。
■「山東出兵」(第一次~三次)で中国侵略
1927年~ 中国革命の「北伐」に、日本、陸軍・海軍で「山東出兵」(第一次~三次)で中国侵略
1927年 (日本)野田醤油争議1,358人戦前最長219日間大ストライキ、小樽港湾労働者ゼネスト、長野岡谷・山一林(やまいちはやし)組製糸工場1,357人大ストライキ敗北。ストライキ参加者数 388件 4.7万人。
■張作霖爆殺(奉天事件)
1928年 張作霖爆殺(奉天事件)、朝鮮共産党弾圧163人逮捕(指導者2人が拷問で獄死)
1928年 (日本)3.15弾圧。東洋モスリン金町工場ストライキ外出自由など全面勝利。評議会等禁止。ストライキ参加者数397件 4.6万人
■金融恐慌と経済危機
1929年にはじまった合衆国の大恐慌は世界恐慌に発展し、各国に深刻な影響を与えた。
■元山(げんざん)ストライキ
1929年1月~4月元山(げんざん)ストライキ。朝鮮の労働者は、不当な罰金徴収、日本人との賃金格差差別で、生活は困窮していた。1921年から釜山の埠頭労働者争議を皮切りに争議が勃発。なかでも1928年~1929年の元山ストライキは、ビラ配布や路上座り込み等の「公論喚起」「餓死同盟」戦術を駆使し、全市で同情ストライキも頻発した。朝鮮全土を巻き込んだ100日にも及ぶ最長・最大のゼネストとなった。しかし、警察や日本軍による大弾圧。日本国内でも朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議が取組まれた。
■光州学生運動
11月光州学生運動。女子学生が日本男子学生から、からかわれたことがきっかけで、光州高校生が暴動的反撃。200名検挙で闘争の全国化。高校生は「植民地奴隷教育制度を撤廃しろ!」「日本帝国主義を打倒せよ」と叫び、続々と同盟休校やデモ。全国で参加学生5万4千人。検挙数1,600人。無期停学2,300人、退学580人。
■山本宣治刺殺
1929年 (日本)大恐慌。山本宣治刺殺。4.16弾圧。東京市電ストライキ 東京モスリン吾嬬工場3,150人(女性2,400人)18日間ストライキ賃上げ勝利,亀戸に「労働女塾」開設。ストライキ参加者数 576件 7.7万人。
■大恐慌から世界恐慌へ
大恐慌は、ソ連をのぞく各国に波及して世界恐慌へ突入。
1930年 (日本)不況と重なり昭和恐慌
■間島(カントウ)5.30蜂起
1930年5月から31年2月。間島で抗日武装の一斉蜂起。鉄道・橋・発電所・電線・領事館などを破壊・放火。検挙者約2,200人。32人が処刑。
1930年 (日本)失業者250万人。29年スト頻発984件。東洋モスリン亀戸工場3000人市街戦など五大ストライキ(鐘紡全国36工場で3.6万人の大ストライキなど)、富士瓦斯紡川崎工場ストライキ(煙突男第一号)。ストライキ参加者数 984件 8.2万人(全協の5月「武装メーデー」)。
7、朝鮮での戦争動員
■中国侵略
1931年 関東軍柳条湖事件(満鉄線爆破)⇒中国東北地方全域への侵略開始(満州事変)⇒中国で抗日闘争が拡大
1931年 (日本)ストライキ頻発 6.5万人。
■満州国でっち上げ建国
1932年 日本のかいらい国「満州国」建国宣言
李奉昌(イ・ボンチャン)、桜田門で天皇の馬車に爆弾を投げる。天皇暗殺未遂。
尹奉吉(ユン・ポンギル)、上海の天長節祝賀会場で、爆弾を投げ、重光葵ら負傷、陸軍大将白川義則を爆殺。
1932年 (日本)東京地下鉄大ストライキ(モグラ争議、電車3台に100人5日間籠城)勝利。南葛飾郡吾嬬町に無産者託児所開設。ストライキ参加者 5.4万人。
■戦争体制
1933年 国際連盟脱退 ヒトラーが政権
1933年 (日本)小林多喜二29歳虐殺(築地署、特高の拷問)。松竹歌劇団スト(6月15日~7月8日 桃色争議、水の江滝子のターキーら少女23人が湯河原温泉旅館に籠城、大阪では笠置シヅ子ら70人が高野山にたてこもる。ストライキ参加者数4.9万人
1934年 (日本)多くの映画館争議勃発(山花秀雄指導)。東京市電12,000人12日間スト。ストライキ参加者数4.9万人。
1935年 (日本)小作争議数戦前最高 ストライキ参加者数3.7万人。
1936年 日独防共協定
1936年 (日本)2.26事件。メーデー禁止。ストライキ参加者数3万人。
■日中戦争
1937年 7月盧溝橋事件⇒中国全土への侵略開始⇒12月南京大虐殺
日中戦争による日本軍の死者は41万人,戦傷病者は92万人であるが,中国のうけた被害ははるかに甚大で,軍人の死者130余万,戦傷病者約300万人,民間人の死傷者は約2,000万人にのぼる。8年余にわたる中国人民の抗戦は,日本帝国主義に大打撃を与えた。
1937年 日中戦争勃発。
(日本)全日本労働総同盟大会「同盟罷業禁止宣言」-―鶴彬(つるあきら)特高に逮捕、拷問。翌年死亡「枯れ芝よ団結をして春を待つ」。国民精神総動員。人民戦線事件(山花秀雄ら逮捕)。京成バス106人ストライキ3か月間で解雇者の復職勝利。この年のストライキ参加者数628件12万3千人(戦前の最高数)
1938年 (日本)国民総動員法、産業報国会。
1939年 第二次世界大戦勃発
(日本)国民徴用令公布。政府の動員計画にもとづき、朝鮮からも「徴用」がおこなわれる。賃金・価格統制令。映画法。ストライキ参加者数 7.2万人。
8、朝鮮総督府「皇国臣民化」政策と抗日パルチザン
■朝鮮総督府「皇国臣民化」政策。
1938年、大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が結成され、中央本部は朝鮮総督府に置かれ、朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略完遂のため、朝鮮民衆を「内鮮一体」と大日本帝国に組み込むため、創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。朝鮮での徴兵実施に向け、1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し、「国語」として日本語使用を強制した。
■朝鮮下での戦争動員
戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布し、徴用令その他様々な手段を通じて強制連行・強制労働を行った。最悪の軍事的性暴力であった日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)もある。
また、日本軍は、朝鮮を中国侵略の為の兵站(へいたん)基地として、日本への供米と徴用で、食糧・資源・軍需物資・鉄道の供給を強制した。1944年からは徴兵も行われた。
■抗日パルチザン(抗日軍)
朝鮮総督府の統計によっても、1931年から36年までの朝鮮抗日ゲリラの日本軍への攻撃は、2万3928回、延べ人数は136万9027人、銃器が掠奪されること3179丁(山辺健太郎「日本統治下の朝鮮」岩波新書)。
1940年 日本軍フランス領インドシナ占領、日独伊三国同盟
1940年 (日本)すべての労働組合・労働者政党へ解散命令、大日本産業報国会へ。配給切符制。ストライキ参加者数3.2万人。
1941年 米英戦争開始 真珠湾奇襲 米英と戦争突入
(日本)ストライキ参加者数1万人。
1942年 マニラ・シンガポール・ジャワ島・フィリッピン占領。中国系住民・華僑虐殺事件
東条内閣「華人労務者内地移入ニ関スル件」決定し、中国人強制連行始まる
1942年 (日本)日立製作所亀戸工場1ヶ月間の怠業闘争、幹部6人逮捕。ストライキ参加者数9.6千人。
1943年 (日本)国民皆兵を40歳から45歳に引き上げ。
1944年 朝鮮徴兵制実施
•朝鮮人日本兵の軍人軍属総計は24万2,341人、そのうち2万2,182人が死亡または不明。
•台湾人日本兵の軍人軍属総計は20万7,183人、そのうち3万306名人が死亡または不明。
1945年 4月沖縄戦。
3.10東京大空襲死者10万人、全国の空襲死者29万人、沖縄戦死・犠牲者25万人、広島・長崎原爆死者20万以上。日本戦死軍人230万人の内、127万人が餓死、日本人民間犠牲者100万人。中国戦死380万、民間人死亡2000万。朝鮮半島の犠牲者少なくとも35万人。台湾3万人。シンガポール8万人。フィリピン100万人。マレーシヤ5万人。ベトナム200万人。ビルマ5万人。インド餓死者数百万人。8.14ポツダム宣言受諾。8.15天皇終戦ラジオ放送。
以上