体調を崩してできなかった戦前労働運動の学習。1月24日以来ほぼ9ヶ月ぶりに今日から再開します。1928年からです。
日本労働年鑑第10集/1929年版の「緒言」について
参照・ 日本労働年鑑第10集/1929年版(大原社研編)
・ 社会・労働運動大年表Ⅰ(大原社研編 旬報社)
(感想)
1928年の労働争議は全国で393件、スト参加者43,337人。小作争議件数は1,866件、参加農民数は75,136人。
日本労働年鑑第10集/1929年版の「緒言」は、これを書いた人の、この年1928年と、この年の闘う労働運動に対する総括である。
「悲惨なる敗北に終わった野田の大争議」
「時も時、我が労働者運動の行く手を遮って、弾圧の狂風は一時に襲ひかゝつたのである。三月十五日の日本共産党検挙事件の巻き添えをを喰って、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三左翼団体は一片の解散命令によって無惨にも官憲の蹂躙するところとなった。多年の辛酸に成る左翼の牙城は表面上全く陥落したのである。」
「だが左翼の全陣営は、未だそれによって潰走するものではなかった。合法的存立を拒否されたこれらの一団の人々は直ちに再興の旗を押し立てゝ、新党準備会、日本労働組合全国協議会、等々の形態の下に果敢なる抵抗を試みた。政府の弾圧も、然しながらまた其処に止まるものでなかった。今や大資本の捕捉の下にその頣使するがまゝになる反動政府は、・・治安維持法の改正を何の故をあってか緊急勅令によって一日を争い、更に、全国的特高網の拡充によって厳に思想の自由を縛し去ったのである。」
「・・最後に特筆すべきは本年二月に施行せられた我国最初の国会普通選挙における我が無産政党の初陣である。・・その得票四十五万票と多くの次点者とによって既成政党の堅ろうに肉迫した事実は必ずしもその敗北を語らない。しかもそれが官憲の露骨なる弾圧と既成政党の無法なる金権とに抗して・・大衆の恐るべき底力の表現として一大脅威を抱かしめたことは、まさに何人にも否定しがたいところである。弾圧の昭和三年は、かくて我が労働者運動の全陣営に対して却って一歩前進を齎したのである。」
なんという労働者の側に立った、階級的立場を明確にした、闘う労働者への愛に満ちた文章であろうか。1929年に発行されたこの日本労働年鑑第10集/1929年版の「緒言」を書いた人は誰なのだろう。よくぞ弾圧されなかったものだ。
1、日本労働年鑑第10集/1929年版の「緒言」より
「昭和2年の金融恐慌・・・労働階級の全面を覆うかくの如き陰鬱の雲と促圧の空気の下において、組織労働者の経済闘争は昨年にも増して悲壮なる守備戦を続けたが、その闘争はいやが上にも深刻を加えたのである。工場にあっても農村にあっても争議は労資ともに必死の態度を持し、一旦開始さるれば、必ずや長く執拗に、全力をあげて徹底的に戦ひ抜かんとする勢いを示すのであった。悲惨なる敗北に終わった野田の大争議、辛く勝利をかちえた海上争議この空前の二大争議は、いずれも階級闘争の意識化とその深化とを物語る本年度の表徴的事件であった。・・・」
「・・時も時、我が労働者運動の行く手を遮って、弾圧の狂風は一時に襲ひかゝつたのである。三月十五日の日本共産党検挙事件の巻き添えをを喰って、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三左翼団体は一片の解散命令によって無惨にも官憲の蹂躙するところとなった。多年の辛酸に成る左翼の牙城は表面上全く陥落したのである。だが左翼の全陣営は、未だそれによって潰走するものではなかった。合法的存立を拒否されたこれらの一団の人々は直ちに再興の旗を押し立てゝ、新党準備会、日本労働組合全国協議会、等々の形態の下に果敢なる抵抗を試みた。政府の弾圧も、然しながらまた其処に止まるものでなかった。今や大資本の捕捉の下にその頣使するがまゝになる反動政府は、・・治安維持法の改正を何の故をあってか緊急勅令によって一日を争い、更に、全国的特高網の拡充によって厳に思想の自由を縛し去ったのである。」
「・・最後に特筆すべきは本年二月に施行せられた我国最初の国会普通選挙における我が無産政党の初陣である。・・その得票四十五万票と多くの次点者とによって既成政党の堅ろうに肉迫した事実は必ずしもその敗北を語らない。しかもそれが官憲の露骨なる弾圧と既成政党の無法なる金権とに抗して・・大衆の恐るべき底力の表現として一大脅威を抱かしめたことは、まさに何人にも否定しがたいところである。弾圧の昭和三年は、かくて我が労働者運動の全陣営に対して却って一歩前進を齎したのである。」
2、労働争議・小作争議の件数と参加者数
労働争議 参加数 組合員数 小作争議 参加数
1927年 383件 46,672人 309,493人 2,053件 91,336人
1928年 393件 43,337人 308,900人 1,866件 75,136人
1929年 571件 77,281人 330,986人 2,434件 81,998人
1930年 901件 79,824人 354,312人 2,478件 58,565人
1931年 984件 63,305人 368,975人 3,419件 81,135人
1932年 870件 53,338人 377,625人 3,414件 61,499人
1933年 598件 46,787人 384,613人 4,000件 48,075人
1934年 623件 49,478人 387,964人 5,828件 121,031人
1935年 584件 37,650人 408,662人 6,824件 113,164人
1936年 546件 30,857人 420,589人 6,804件 77,187人
1937年 628件 123,730人 359,290人 6,170件 63,246人
1928年労働者の状況
工場法適用工場の労働者労災等死亡者数298人、負傷者4万4386人(東京市内、肺結核10.75%、肺炎10.75% 、脳出血8.56% )
人民による無料診療事業を行う機関全国で240ヵ所、農繁期託児所、全国で1018ヵ所で開設
3、1928年の労働争議
労働争議 393件 スト参加者数43,337人
主な労働争議
①野田醤油争議4月20日敗北
②川崎汽船争議の勝利
③海員組合争議 最低賃金制獲得勝利 全国の港で314隻、6万3千人がストで停船。
4、1928年の弾圧
3.15事件(検挙1568人)
4.10三団体解散命令
大学教員・学生への弾圧
特高の全国的配置
張作霖爆殺など中国侵略・中国革命への妨害介入
この年、治安維持法違反事件検挙者数3426人(起訴525人)、特別要視察人1309人(前年比443人)
(年度別治安維持法違反検挙数(岩波現代文庫「治安維持法小史」)
1928年 3,426名
1929年 4,942名
1930名 6,124名
1931年 10,422名
1932年 13,938名
1933年 14,622名
1934年 3,994名
・・・
1943年 159名
(4.10解散命令)
評議会への解散命令直後、関東金属労働組合など左派組合は再建への提唱運動を開始した。しかし、東京電灯争議で、停電が頻発。「帝都暗黒化の陰謀」と関東電気労組に大弾圧を加える。
以上