先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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政府から総同盟に提供された6万円事件 1924年の労働運動 (読書メモ)

2022年06月22日 08時04分25秒 | 1924年の労働運動

上・1924年総同盟大会「本部会計発表の中止とその理由」

政府から総同盟に提供された6万円事件 1924年の労働運動 (読書メモ)
参照「協調会史料」
  「日本労働年鑑第6集/1925年版 大原社研編
  「評議会闘争史」野田律太著 1931年(昭和6年)中央公論社(国立国会図書館デジタルコレクション)
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444003
  「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎著 (岩波新書)
  「日本労働組合物語大正」大河内一男・松尾洋

 日本労働総同盟1924年大会で左派と右派が対立した最大のテーマが「方向転換宣言案」であることは間違いありません。

 しかし、それ以外に、この大会で左派から厳しく糾弾された深刻な問題がありました。政治部委員の構成や、否決された婦人部設置の問題、黄色組合といわれたアムステルダム・インターナショナルとの関係、大震災に伴う政府の救済事業が総同盟が受諾した問題と政府から巨額な資金提供を受けたことなどに対する厳しい質問でした。しかし、「日本労働組合物語大正」(大河内一男)は、「これらの質問の多くは、・・・・ほとんど(左派からの)いやがらせのようなもの」と書いています。果たしてそうでしょうか。私が特に気になった大震災時の政府から総同盟に提供されたという6万2千円の資金提供問題について考えてみます。

(6万円事件)
 大震災時、政府は総同盟に6万2千円を提供しています。6万2千円とは現在の価値でどれほどのものでしょうか。少なくても何千万、多く見て2億円を超えるのではないかという人もいます。総同盟1924年大会で、多くの代議員がこの6万円事件について厳しく質問、糾弾をしますが本部側の説明は?です。

(本部会計発表の中止とその理由)
 しかも、加藤勘十主事の総同盟本部報告中に、緊急動議として「本部会計報告は、反対者と官憲の充満する本会場で発表することは不利と思うので、会計審査委員会の審査を信頼して、ここでは発表せざる事とするという提案があり、満場拍手をもってこれを承認」(上の写真、「協調会」史料、特高の報告)されます。いつもであれば特高が激怒し不当な議事介入をしてきてもなんら不思議ではありません。しかし、この日この会場にいた多くの特高も黙っています。これはいかにも不自然です。私は、むしろ「特高(政府)」の事前了解でなされた緊急動議ではないかと疑います。

(大震災時の鈴木文治会長と政府) 
 「大震災、この総同盟鈴木文治氏はあのデカい図体を巻脚絆と草鞋に固め、テクテクと先ず内務大臣後藤新平を訪問した。やがて組合員を糾合し救援事業にとりかかった」(「評議会闘争史」野田律太)。

 「大震災が労働運動に与えたる第一の教訓は何といっても労働組合は理屈ばかり言っていては駄目だということである。基金も持たねばならぬし共済機関もなければならぬ、殊に南葛労働組合位に純労働者組合の幹部は、一たまりもなく✖✖ ✖✖されている。もしこれらの諸君が、もっと社会的に有力な地位勢力を植え付けていたなら、よもやかかる悲惨な運命に陥らざるに済んだであろう」(鈴木文治著「労働運動20年」)。

 「労働総同盟は震災以来労働運動の本流に立ち帰った。即ち震災当時の労働組合がほとんど為すなきに方って我が総同盟のみは組合本来の精神により失業救済、労働紹介等の実際事業を立派に経営し、現に政府から6萬圓の補助金を受け、近く東京市内に三ヶ所の労働宿泊所を造る計画ができている」(鈴木文治)。

 日本労働年鑑第6集でも「(総同盟は)東京府より下附の六萬二千圓をもつて独身労働者宿泊の為に大井宿泊所及び大島宿泊所を新築開設した」と記載されています。

 そうして鈴木文治会長は、中央職業紹介所委員、帝国経済会議議員に就任します(ほどなく辞任しますが)。右翼幹部の言う『救済事業』とは結局政府の仕事を代理するものであった。これ位労働階級を資本家階級地主の前に屈服させたやり方はない」(「評議会闘争史」)。

(朝鮮総督府への資金提供催促の秘密の手紙)
 この総同盟1924年大会では、亀戸事件弾劾決議と「朝鮮人労働者虐殺事件に対する弾劾文」を可決しています(「日本労働年鑑第6集」)。しかし、その一方で大震災の朝鮮人虐殺から一ヵ月もしない1923年9月29日に、総同盟鈴木会長は、朝鮮虐殺を怒り抗議、糾弾するのではなく、逆に朝鮮総督府への資金提供催促の秘密の手紙を出しています。政府や東京府と事前の打ち合わせがあったであろうことや、要求した援助金の額がその後の政府から提供された額と重なります。しかもこの朝鮮総督府への意見書の事実は、1924年大会などでも報告されていません。

「鮮人労働者保護に関する意見書」大正12年9月29日 鈴木文治
「朝鮮総督 斎藤 実閣下
・・(略)・・思うに今回の不祥事の根源が、日鮮人相互間に於ける平素の無理解に存するは言うまでもなく、しかしてこの無理解の心理状態が、無稽なる流言蜚語を跋扈せしむるに到りし因由なりとす。抑々日本内地に居住せる鮮人は、・・・その中労働者は、言語の不通と内地の事情に不明なると、加うるに被征服者の僻見(ひがみ)に富むあり、これを日本人側より見るも、同様の事情あると共に、征服者としての優越感をもって彼に対す、これ従来に於いても、屢々(しばしば)内鮮労働者の間に衝突を醸し来れる所以なり。 斯くの如き状態にして永続し、容易にその理解を見る能わざれば、朝鮮統治の意義殆んど空しと言うも過言にあらず、・・・(略)」

 続いて鈴木文治は、日本労働総同盟の『震災善後策の一端』として、総同盟内に『鮮人部』を設け、『鮮人労働者の保護救済、戸籍性行の調査、職業の紹介、相互理解の促進、思想の善導、感情の融和等の事業』をするので、『その費用と専従役員5名の棒給費代として月額一人約100円、事務費、運動費、機密費など計、年間1万2千円乃至1万5千円の援助』を朝鮮総督斎藤実に求めてています。そして鈴木文治は、この意見書の最後にわざわざ「これが実行に当たりては、朝鮮総督府、並びに同東京出張所、政府当局、各府県市町村等と十分なる連絡を取るものとす」と述べています。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/d1777527db9f12dd3f433f5eccabffef

(山辺健太郎)
 山辺健太郎は「総同盟の右翼指導者の朝鮮民族運動にたいする考え方がすっかり変り、日本の植民地統治をそのままみとめ、むしろこれを永続させるための献策をしているのは驚くほかない。震災と朝鮮人の大量虐殺は、日本の労働運動にこんなに大きな影響をあたえたのである」「関東大震災のときの朝鮮人虐殺や南葛労働会の指導者虐殺などは、総同盟の一部指導者を恐怖させ、その右傾をうながしたことはあらそえない。この意味で関東大震災と朝鮮人虐殺は日本の労働運動にとっても重大な関係のある出来事というべきだろう」(「日本統治下の朝鮮」)と指摘、嘆きます。

 (右手に毒杯左手に毒刃)
 「会長はシミジミ労働者は大臣と協力しなければ一朝事あれば全く『危い』と思ったのであろう。折柄震災の大混乱の中に成立した山本内閣は我国に於いて長らく懸案になっていた『普通選挙制度実施』を標榜して民心を惹きつけんとした。
 総同盟本部では加盟組合員の中から共産党の被告を出した事に非常に恐怖していたところへ大震災で『現実主義』(支配階級と結合する主義)のありがた味を切実に感じていたと所であるから一も二もなく山本内閣の声明に双手を挙げて賛成した。」「かくて山本内閣は、一方において普選実施を声明することにより右翼幹部を惹きつけ、又一方左翼弾圧の武器として『治安維持』のための緊急勅令を発布した。即ち右手に毒杯を差し出し左手に毒刃をカザしたのである」(「評議会闘争史」野田律太)。

 「方向転換」とは、ただ単に労働組合、労働運動が現実的に国会、国際労働会議を利用するということだけではなく、その中身は、もっと深刻な、労働組合、労働運動が敵と対峙する時の自らの姿勢がどうあるべきか、またアジア民衆への国際連帯こそが問われていたのでした。

 この大会からほどなくして戦闘的労働組合が排除され、翌年には総同盟は真っ二つに分裂します。



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