写真・尾小屋鉱山
尾小屋鉱山の三回のストライキ 1922年主要な労働争議⑪ (読書メモー「日本労働年鑑」第4集 大原社研編)
1922年の鉱山・鉱業における労働争議
尾小屋鉱山(石川)4月・5月・9月
生野鉱山(兵庫)4月
佐渡鉱山(新潟佐渡)5月
住友別子鉱業所(愛媛)7月
福島炭鉱会社(福島)9月
稲田石材採掘場(茨木)10月
黒潮炭坑(長崎)12月
芳谷炭坑(長崎)12月
松原炭坑(茨木)12月
尾小屋鉱山の三回にわたるストライキ
石川県の尾小屋鉱山で起きた3度に及ぶストライキは、1922年(大正11年)における鉱業・鉱山労働者の主要な労働争議の一つとなった。以前から友愛会鉱山部の勢力が強い、現在の全日本鉱夫総聯合会の1920年(大正9年)争議で、賃金の値上げや単価の決定は坑夫と相談の上決定するとの協定を結び和解していた。しかし、その後会社は単価引き上げ等の決定における協定を守らず、全日本鉱夫総聯合会能美聯合会は、会社に対して、いよいよその実行を迫ったが会社は言を左右にするのみか、失業の危機も現実化してきたため、組合として1922年4月15日、以下の要求をつきつけた。
一、鉱場割一日金2圓の事
一、深鉱、採鉱の差別を撤廃して、かつ従来の坑夫の等級を廃止し、見習い坑夫以外一般平等の事
一、業務死亡の遺族扶助料は日給の一年分以上の事
一、解雇手当の値上げ
一、病気にて将来業務に従事することができない者には日給150日分以上の支給の事
一、積立金を賃金明細書に明記する事
一、稼高より差し引く倉庫品その他の物品の価格を明記する事
一、医局に医師を常駐させ、急病の際は病家に速やかに往診する事
(スト第一幕)
翌日会社が簡単に拒絶してきたため、労働者側は憤怒。17日労働者大会で即時全山ストライキを決議し、決行された。20日、大阪鉱務署の仲介で「和解案」が提案されたが、その夜の労働者大会において、この和解案にはなんら会社の誠意が見られないとして、満場一致でストライキの継続が決議された。
23日、大阪鉱務署の仲介で交渉は再び開始され、一定の賃上げと坑夫の等級の撤廃等で和解が成立した。また8日間のストライキについて、一人当たり金2圓の支給も約束された。
(スト第二幕)
ところが、この解決から一カ月を経た5月28日、会社は、尾小屋鉱山の一鉱山である五國寺鉱山を経営困難として、その月で閉鎖すると発表してきた。会社の動きは経営困難といいながら実際は優良な新機械を設置するなど閉山の宣言とは甚だ矛盾していた。しかも、五國寺鉱山こそが、組合の勢力の中心であり、閉山で一挙に組合を弱体化する事こそが会社の本当の狙いであった。労働者は閉山の中止を迫った。31日労働者大会を開き、翌日から全山のストライキに突入した。6月8日、会社は閉山の中止を発表した。
(スト三幕)
先のストの中心となったのは、全日本鉱夫総聯合会能美聯合会の約300名の労働者であった。製煉労働者約80名はそれまで組合には加入せず、争議には局外に置かれていたが、彼らは、9月に一丸となつて、能美聯合会に加入してきた。彼らは「12時間労働を8時間制へ」や賃上げなどを要求として会社に提出した。ところが会社はこの要求を拒絶したばかりか、製煉労働者の幹部7名を解雇してきた。80余名の製煉労働者はただちにストライキを決行し、尾小屋鉱山の組合は全山をあげて、製煉労働者のストを援助する事を宣言した。
製煉所は、鉱山においてもっとも重要な生産点であることから、会社のスト攻撃、抵抗もその非道を極めた。解雇や解雇の予告と強圧的ストつぶしや争議団の切り崩しをはじめた。またスト破り労働者を大量に雇った。
(スト破り労働者に必死に呼びかけるビラ)
『・・・犬になるな! 畜生と言われるな ! 俺たちの苦労を知ったら、だまして連れてきた会社と徹底的に〇〇しろ!・・・』
製煉工の組合は会社が雇ったスト破り労働者に向かって、必死に呼びかけるビラを全山の隅々辻々に貼りめぐらした。あせった官憲は、このビラの撤去を命じてきたが、製煉労働者は断固拒否した。そのため製煉労働者幹部4名が検挙され、「治安警察法16条違反」(第16条 街頭その他公衆の自由に交通することを得る場所における作為の禁止)で起訴された。しかし、この幹部4名の検挙・起訴は、かえって残された全製煉労働者の意気を熾烈ならしめたのであった。
能美聯合会は総力をあげて製煉労働者の闘いを応援した。米、味噌、醤油その他の生活必需品を40日間補給しつづけ、持久戦の体制を整えた。
(製煉労働者全員総退山、悲壮なる決行)
ストライキ40余日、採掘された鉱石は山積された。が、会社はあくまで労働者の要求を強硬に拒否し続けた。製煉労働者全員は、9月28日、ついに会社への抗議と闘いの最終手段である全員総退山を決断し、悲壮なる決行をした。