阪神電車500名全員のスト 1922年主要な労働争議⑫ (読書メモー「日本労働年鑑第4集」大原社研編)
1922年の交通業における争議
西宮の酒造用水運搬夫(1月)
愛知の牛車輓組合(2月)
尾西鉄道株式会社(2月)
名古屋の門前署人力車夫(2月)
大阪の材木人夫(3月)
名古屋電鉄会社(4月、5月、8月)
東京の隅田川駅人夫約300名(4月)
京都の嵯峨材木運搬組合(5月)
高松市電燈会社電車部(5月)
国際汽船会社の五隻(5月)
名古屋駅沖仕(6月)
駿豆鉄道電車(6月)
福島県の平町人力車夫(6月)
阪神電車(7月)
加太軽鉄会社(7月)
日本郵船函館支店専属沖仕(7月)
旭川石炭沖仕(7月)
関門艀船船頭組合(8月)
南海鉄道会社本線(8月)
大阪駅馬力(9月)
賀川県の観音寺駅沖仕(9月)
横浜市中鳥屋人力車夫(9月)
京浜電鉄会社(12月)
横浜藤本回漕船夫(12月)
阪神電車500名全員のストライキ
1922年4月、大阪市電労働者の「西部交通労働同盟」結成に続いて阪神電車の労働者の中に「談笑倶楽部」が生まれた。「談笑倶楽部」は当初は労働者同士の親睦を目的としていたが、会員が増えるにつれ会社側が次第に「談笑倶楽部」を嫌い、様々な圧迫を加えてきた。ついには「談笑倶楽部」幹部3名を解雇した。「談笑倶楽部」は、日本総同盟関西同盟会と連携し、闘争組織へと大きく変わった。7月には会員は800名になり、7月13日、武庫郡公会堂において労働者大会を開催し、以下の決議を行い、会社に要求した。
一、日給30銭の賃上げ
一、懲罰規定を陪審制へ改める事
一、解雇の場合は3ヶ月前に予告する事
(500名労働者全員でスト突入)
しかし、会社専務は横柄な態度で要求書の受理すら拒み、かつ「談笑倶楽部なるものを認めない」と声明をだした。これを聞いた労働者はみな激怒し、突然7月25日の天神祭という会社が最も繁忙の日を期してストライキに突入した。同日のストライキは運転手、車掌、駅員ら529名のほぼ全員が参加し、スト破りで出勤した者はわずか43名に過ぎなかった。
(大幅賃上げ回答と新たな解雇攻撃)
会社は狼狽し、あわてて監督、見習生らを狩り集め半数の車輛を運転しようとしたが、運行は大幅に乱れ、無賃乗車状態となった。この夜、大阪聯合会は、応援闘士を差し向けた。ストは26日も継続した。会社は、ついに大幅賃上を発表した。しかし同時にストのリーダー17名を首謀者として解雇してきた。
(争議解決)
27日夜の労働者大会で、『一般市民の迷惑を思い、明日28日よりひとまず就業する』とし、さらに「今回の不当解雇を撤回する事」などの要求を決議した。そして今後再び会社が拒否してきた場合は、さらにストライキを続行すると決めた。労働者は、28日から一斉に就業した。その後会社と折衝を重ねた結果、「今回の解雇者17名と前回の4名の解雇者に300圓を支給」などで妥協が成立し、争議は終了した。
この阪神電車のストライキは、たちまち大阪全域の各電車各社に大きな影響を及ぼした。それぞれ各社は労働者の増給を余技なくされたのだ。