ひふみ塾 世回りブログより転載
2018-06-15
飽食のつけ
https://ameblo.jp/hifumijuku
戦前戦後の食べるものに困った時代は体の機能にとっては問題なかった!?
なぜならその時代の子どもは元氣に大人になったのだから・・・
お腹一杯食べられる現代はむしろ不幸になった!?
戦後までは食べるものが無くて大変だったという話を聞くことがあります。
その後に生まれた世代から見ると、何て悲惨だったろうと思うかもしれません。
しかし、人類の長い歴史から見れば、それが普通でした。
お腹一杯食べられたとしても、それは一時的なことでした。
昔は貧しくて学校に弁当を持ってこられない子どもがいました。
本人はつらくみじめな思いだったかもしれませんが、よほどの栄養欠乏状態にならない限り一日一食であろうと人間の体に問題はありませんでした。
今の先進国のように人間が食糧を集めてくるようになり、食糧が不足しても増やすことができる状況になると、ひとまず飢えの心配は無くなります。
そうなると、今度はより美味しい物を求めるようになりました。
自然界では飢えに耐えられない生き物は生き残れませんでした。
つまり、飢えに耐えうる体は生命力にあふれているとも言えます。
しかし、余るほど食糧があって、お腹一杯食べられるというのは体質に合っていません。
それは生きるためには悪条件です。
お腹一杯食べられて幸せと思っていても、それに慣れていない体には悪いのです。
野生動物は、空腹に耐えながら獲物を探します。
これが自然界で通常のことで、彼らにとってもそれが当たり前なのでべつに悩んでいるわけではありません。
一定の範囲内にその動物のエサとなるものが一定量あれば、その餌の量に見合った動物が住みつきます。
エサが増えれば動物の数も増えますが、エサが減った時にはすぐ動物の数をすぐ減らすことができないため、飢えが来ます。
自然界では、エサの量は多いといっても適正な量でしかも一時的であり、それ以外はいつも不足しています。
厳しい飢えの時期もありますが、全体的にはやや飢えているのが自然界の法則なのです。
私達の体は一度にたくさん食べ過ぎるとお腹を壊したり、吐き戻して体が警告のサインを出してきます。
しかし、少しずつ多めにしかも長期に渡って食べることは自然界にはあえない事でした。
この場合には警告サインは働きません。
危険信号とは、体験したことが無い事や自然界にありえない事に対しては作動しません。
その結果、肥満やその他の病氣にかかるなど体に異常が出てきます。
たくさん食べて欲望を満たした当人は、氣持ちが良いために、少々体の調子が悪くなっても、止められずにどんどん食べてしまいます。
食糧が足りている状態が数十年続いたからといって、それが永遠に続くかのような勘違いをしてはいけません。
食糧が不足する状況に再びなった時、ゆるやかに不足していくならまだしも急激に食糧が減った時に飽食にどっぷり浸かっている人間はその変化についていけないでしょう。
食糧をあてがわれて、それに群がりお腹一杯食べることに慣れてしまった結果、人間本来の能力(体と精神の両面)が封じ込められてしまいました。
現代人が心配になるほどの少食で実際人間は生きていけるのです。
何も自己犠牲ではなく、人間としての可能性を開いていくんだという前向きな姿勢で早いうちに飽食から脱却することが望まれます。
このようにモノに溢れた社会は人類至上いまだかつてありません。
高度な文明の発達の進歩の裏には、多くの問題がたくさん存在しています。
おいしく手軽におなか一杯食べる事の出来る先進諸国では、その反面身体の機能は衰え、病気は増える一方です。
今問われているのは、高度な文明社会と自然との調和なのです。
日月神示には食べ物・食べ方については珍しく具体的にたくさんありますが、この食のあり方がこれからの社会のキーポイントなのかも知れません。
「腹八分、二分は先ずささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。」
「人は思うておるより少しの食べ物で生きられる。食べるということはその生命をいただくことじゃ。」
「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方してみなされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの、理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」
「腹一杯食べてはならん、死にゆく道ぞ、二分を先づ神にささげよ。流行病は邪霊集団のしわざ、今にわからん病、世界中の病はげしくなるぞ。」
飽食の時代の警笛を日月神示は鳴らしてくれているのです。
しかし中々難しいですね・・・。
こうなったら終わりですよ(笑)
ーーー以上転載ーーー