プロローグ
僕は小浜島の海を見ていた。透き通るように蒼い、海を見ていた。
この海に、冬美は眠る。永遠に。
5年前、冬美の遺灰を、この海にまいた。
漁師に舟を出して貰って、冬美の好きだったプリメリアの花弁を、灰と共にまいた。
海面に真白い花が咲き、広がっていく。
冬美がまだ健康だったとき、僕らはこの島に来た。
透明度の高い海に潜り、色とりどりの魚たちを見た。
冬美はマスクの中で目を輝かせていた。
美しい珊瑚礁の中で緩やかに泳ぐ、冬美はまるで、海の妖精のようだった。
砂浜に上がったとき、君は言った。
「とても綺麗。パラダイスだわ。私が死んだら、ここに灰をまいてくれる?」
「縁起でもないこと、言うなよ」
「あはは、冗談よ。でも、ここで眠る方が、暗い墓の下より、ずっといいわ」
冬美は自分の命がそう長くないことを、知っていたのだろうか。
古浜島から帰ってきて、君はすぐに入院した。
子宮体部癌と診断された。早期発見ではなかった。
入院した時点で、冬美の癌は、相当進行していた。
医師は告げた。
「子宮体部癌は、若い人にはきわめてまれです。子宮を全摘出する必要があります。
そのあと、抗ガン剤治療も必要です」
冬美は黙って、僕を見つめていた。涙も見せなかった。
「そんな気がしていたわ。もう、私の命、長くないのね」
「手術してみなければ分かりません。卵管や卵巣も取り除くことになると思います。
骨髄内リンパ節も切除します」
「手術しないで直す方法はないのですか?」
「ホルモン治療があります。高単位黄体ホルモン治療といって、それが効を奏せば、手術しなくて済む場合があります」
「じゃあ、その治療を受けてみます」
「分かりました。でも、それが効かなければ、先ほど言った、全滴手術を受けて貰うことになります」
医師が去ってから、冬美は僕に言った。
「ねえ、私、あなたと結婚して、子供を産むことが夢だったの。子宮を取ってしまうなんて、とんでもないわ」
僕は言った。
「今から教会に行こう。結婚するんだ」
冬美は顔を翳らせた。
「ねえ、私、もうすぐ死ぬかもしれないのよ。それでなくても、抗癌剤治療などで、髪が抜けたりして、今の私でなくなるのよ。そんな私と結婚して、あなたが幸せになるとは思えないわ。捨ててもいいわよ」
「ばかなことを。きっと治る。手術もしないでいいかもしれないし、たくさん子供を作ろう。僕は5人くらい欲しいな。みんなでにぎやかに過ごすんだ」
2
僕が冬美と出会ったのは、ダイビングスクールだった。
市内の大手で、水深8メートルのプールを備えた、本格的なスクールだ。
すらりと背が高く、とても均整の取れた体型で、大きくて涼しい目が印象的だった。
僕は、不覚にも彼女に一目惚れしてしまった。
講義の時間、僕は彼女の隣に席を取った。
「初めまして。結城輝といいます。アキラと呼んでください。一緒にCカード目指して頑張りましょう」
「そうね。私は酒井冬美。出版社勤務のOL。よろしくね。あなたの仕事は何?」
「フォトグラファーです。風景やイメージ写真を撮っている。今度、水中写真に進出しようと、ここにいる」
「じゃあ、いい写真が撮れたら、うちの雑誌で紹介できるかもね。写真集も出せるかも」
「あはは、まだカメラ用の水中ハウジングもも買っていないのに。でも、そんな写真が撮れたらいいな」
講義が終わるたびに、冬美は理解できなかった箇所を、僕に質問してきた。
僕は予習をしていたので、適切に教えることが出来た。
講習が終わり、いよいよウェットスーツを着て、マスク、フィン、BCD、レギュレーター、ボンベを装着しての水中訓練に入った。その時、彼女が身に着けていたのは、競泳用の水着だった。
「どうして、競泳用なの?」ラフなトランクスをはいた僕に、彼女は答えた。
「中学から水泳部なの。今は毎日プールで泳いでるわ。それに、おへそを出すのが恥ずかしいの」
彼女の首から、ネックレスが下がっているのに気付いた。銀色の十字架が下がっている。
「素敵なネックレスだね」「ありがとう。私、クリスチャンだから」
「そう、僕はアメリカ先住民族や、オーストラリアのアボリジニの信仰に興味がある。日本の神々も好きだよ。一番好きなのはスサノオの尊。でも、以前からキリスト教にも興味があって、聖書をたまに読むけど、よく分からないな」
「今度一緒に私の教会に行きましょう。キリスト教もいいものよ」
というわけで、冬美との最初のデートは、教会の礼拝になってしまった。
さて、学科とプール実習が終わって、いよいよ海洋実習となった。
和歌山の串本で実際に潜るのだ。
串本までは列車で行った。
天王寺駅から特急で3時間くらいかかる。
串本駅に到着すると、街は真夏の光の中で輝き、空気は澄み、僕らを歓迎しているようだった。
ダイビング民宿に到着すると、インストラクターが明日からの訓練の説明をし、それぞれにレギュレーターとBCDを配った。「明日から3日間、大切に扱ってください。あなた達の命を預かる機器です」
そして、バディ、つまり潜るときのパートナーを決めていった。
僕たちが仲がよいのを知っていたインストラクターは、僕らをバディとして組ませた。
その後、時間があったので、二人で海岸に行ってみた。
海は深い青色で、美しく、明日からのダイビングが楽しみだ。
海の香りをそよ風が運んできた。ゆったりと流れる時間が過ぎていった。黄昏が近付いていた。
「ねえ、酒井さん、君はどうしてダイビングのライセンスを取りたいんだい?」
「水中写真家、中村征夫氏の写真集を見たの。地上では見られない風景。まるでおとぎの国みたいだった。
だから、これは自分の目で見るしかない、と思ったの」
「なるほどね。僕は沖縄に行ったとき、体験ダイビングをして、撮影の世界を広げようと思ったんだ」
「そろそろ宿に帰りましょう。明日からよろしくね。バディさん」
3
早朝5時に目が覚めた。
一人で海に散歩に出かけた。朝の太陽に海は銀色に輝いていた。
抜けるような青空だ。いいダイビング日よりになりそうだ。
「おはよう」冬美の声が後ろから聞こえた。
「早いね。よく眠れたかい?」
「うん・・まあね」
「どうしたの?何か気になることでも?」
「いいえ、なんでもない。それよりも、いい天気ね。海に入るのが待ち遠しいわ」
冬美はしばらく海を見つめていた。
その表情に、何か気がかりがあるように思えたが、僕はそれ以上聞かなかった。
9時になった。いよいよ海洋実習が始まった。減圧について、改めて説明があった。
潜水中に、血液中の窒素濃度が高くなるので、急激に浮上しないこと。水深2メートルの所に来たら、
インストラクターのそばで、しばらく時間をおいてから海面に上がることを、きつく申し渡された。
その後、タンクが配られ、レギュレーターの取り付け方が説明された。
BCDを装着し、バディ同士でお互いをチェックした。
「海をなめてはいけません。でも、私の言いつけをきちんと守っている限り、安全です。十分注意してください」インストラクターはそう言うと、僕らを海に連れて行った。初めてのタンクはとても重く感じた。
砂浜でマスク、シュノーケル、そしてフィンを装着し、後ろ向きに海に入っていった。
ビーチエントリー、そう呼ばれている。
インストラクターに続いて、砂浜をしばらく泳いでいくと、急に深くなった。
冬美と僕は手をつなぎ、初めての海の世界に目を凝らした。
習った通りに鼻をつまんで耳抜きをし、少しずつ深く潜っていった。
チョウチョウ魚が目の前をかすめた。見ると、一匹だけではない。20匹はいるだろうか。
美しい光景だった。次に羽を広げたような魚がいた。ミノカサゴ。
インストラクターが決して触れてはならないと言っていた。猛毒があり、刺されるとやっかいだ。
珊 瑚礁が広がっている。よく見ると、白いイソギンチャクの中に、赤と白の縞模様を持つ、2匹の魚がいる。クマノミだ。冬美が指さして、何か言っている。「可 愛い」口がそう動くのが分かった。イソギンチャクに守ってもらいながら生活している。不思議だけれど、魚たちは長い年月の間に生きていく知恵を身につけて いるのだ。人間もそうであって欲しい、お互いに助け合いながら生きて欲しい。そんなことを漠然と感じた。
海から上がると、冬美が聞いてきた。
「ねえ、どうして近畿地方なのに、熱帯魚がいるの?」
「海が暖かいからだよ。黒潮にのってやってきたんだ。でも、沖縄なんかではこんなもんじゃない。
とても美しいそうだよ」
「ふうん、いつか行ってみたいわ」
「君がよければ、いつか一緒に行こう」
「あら、積極的ね。出逢ってまだそんなにたってないのに。
うふふ、まあ、いいわ。あなたのこと、少しずつ好きになってきたもの」
「本当?嬉しいな。僕は初めて見たときから君に夢中だよ」
「お上手。でも、悪い気はしないわね」
冬美の笑顔は、とても素敵だった。僕は胸が熱くなるのを感じた。
4
帰りの列車で、冬美はとても饒舌だった。
串本の海で出逢った海の生物、美しい珊瑚礁などを熱っぽく語った。
特急くろしおが天王寺駅に着いたとき、冬美は少しはにかみながら、
手を振って環状線への連絡口に去っていった。その後ろ姿に、翳りを感じたのは気のせいだろうか。
携帯電話とメールを交換してあったので、すぐにメールを出した。
「京都までは1時間半はかかるね。楽しかったよ。ありがとう。今後ともよろしく」
返信は来なかった。僕の胸の底に、何ともいえない重いものを感じた。
串本で撮った、海をバックにした二人の写真をメールに添付して送った。
それにも返事はなかった。だから、電話もしなかった。あれはほんの、気まぐれだったのかもしれない。
1週間後、電話がかかってきた。
「写真ありがとう。連絡遅れてごめんなさい。いろいろとあったものだから」
「いろいろと?仕事かい?」
「ん、まあ、そんなところ。でね、沖縄に連れて行ってくれると行ってたじゃない?
早く行きたいの。いつなら連れて行ってくれる?」
「え!いきなりだね。僕は嬉しいけれど。君の仕事の都合次第だよ。僕はいつでも空いてる。フリーだから」
「じゃあ、今度の連休にしましょう」
「次の連休は、来週だよ。何か急いでいるのかい?」
しばらく間があった。
「いいえ、早く行きたいだけ。だめ?」
「いいよ。すぐにネットで予約する。取れたら連絡するよ」
電話を切った後、僕はどの島にするか考えた。
結局、小浜島に決めた。
リゾートがあるし、海は最高だし、人気ドラマのロケ地もある。JALのサイトで予約して、リゾートもネットで確保した。冬美にをれを告げると、とても喜んでいた。
僕 はミナミへ出かけていって、専門店でCANON EOS 1D用のハウジングを購入した。ハウジングとは簡単にいうと、カメラを覆うプラスチックの箱で、水深100メートルまで耐えられる防水機能がついている。 この中にカメラを収納して、撮影する。シャッターボタンは大きく、水中で押しやすくなっている。
デジカメはフィルム交換が必要ないので、大容量の記憶メディアを入れておくと、たくさん撮影できる。
昔は36枚しか撮れなかったので、フィルム交換が大変だった。便利になったものだ。
水中ライトと水中写真の撮り方の基本を書いた本も購入した。
当日はあいにく雨だった。
撮影機材があるので、かさばる荷物を持って空港に行くのに、傘はささなかった。
幸い、僕の家からはJRの駅が近いので、早足で駅に向かった。
関西国際空港に着き、冬美と待ち合わせしているチケットカウンターに到着すると、もうすでに冬美は来ていた。
「遅いじゃない」「ごめん、でも、約束に時間の10分前だよ」
「なによ。私なんか1時間前からここにいるのよ」
冬美は文句を言いながらも、嬉しそうにしていた。
荷物を預け、出発ゲートに向かった。アナウンスがあり、僕らは機上の人となった。
5
僕たちをのせた航空機は静かに離陸した。
しばらくすると、窓を叩いていた雨は消え去り、雲の上に出た。
冬美は突然、「わぁ!」と大声を上げた。
「凄いわ。雲の海。真っ白でふわふわしてて、上を歩けそう」
冬美の前に乗り出して僕も窓の外を見た。スカイブルーと雲海の境目に、別の航空機が見えた。
「海も好きだけど、空も好きだ。特に航空機から見た、雲は大好きだ」
「ホント、綺麗。ありがとう、アキラ。一生忘れないわ」
「大げさだな、この先、何度でも見られるよ」
冬美は黙って視線を下げた。僕は気付かないふりをした。
時間が加速度をつけて通り過ぎた。
機内アナウンスが流れてきた。
「当機はまもなく、石垣空港に到着いたします。現地の天候は晴れ、気温は・・・」
ランディングは見事だった。スムーズな動きで、航空機はエプロンに到達した。
荷物を受け取り、空港を出ると、日差しが強烈だった。
「さすがね。じりじり日差しが肌を刺すわ」
送迎バスに乗り、港に着いた。すぐに小さな舟に乗り、小浜島に向かった。
海の色が串本とは比べものにならないくらい明るく、美しいコバルトブルーをしていた。
後ろのデッキで、南の風に綺麗な髪をなびかせながら、冬美は芯から楽しんでいるようだった。
僕は少し安心した。
舟が桟橋に着くと、片方の爪がとても大きな蟹、シオマネキのマークのバスが待っていた。
車体に「はいむるぶし」と書いてあった。南十字星と言う意味らしい。
ネットで予約したとき、そう書いてあった。
ホテルに着いて、チェックインとダイビングの予約を済ますと、僕は電動カートを借りた。
カートに荷物を積み込み、走り出した。
「どこへ行くの?」
「コテージだ。このリゾートは敷地が広いから、カートがないとどこへ行くにも沢山歩かないといけない」
コテージの扉を開けると、既にエアコンが作動していて、心地よかった。さすがリゾートホテルだ。
「夕食まで時間があるけど、どうする?」
「海で泳ぎたいわ」
「OK。じゃあ、僕はバスルームで着替えてくる」
トランクスに着替えて、少し時間をおいてから、部屋へ戻った僕は目を見張った。
鮮やかなひまわり色のビキニをつけた、八頭身の美女が微笑んでいた。
「ワォ!」
「どう、似合う?」
「似合うなんてもんじゃないよ。夏の女神だ。南の島のビーナスだ」
冬美は笑った。
「言い過ぎよ。でも、気に入ってもらってよかった。昨日、デパートで二時間かけて選んだんだから。
さあ、泳ぎに行きましょう」
僕らのカートは、燦々と輝く太陽と共に、海に向かった。
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