愛詩tel by shig

プロカメラマン、詩人、小説家
shig による
写真、詩、小説、エッセイ、料理、政治、経済etc..

遺言 6~エピローグ

2016年12月14日 04時30分22秒 | 小説

降り注ぐ光の中、カートはゆっくりと走る。やがてテラスのような所に着いた。
5段ほど階段を上がると、そこはオープンバーとマリンスポーツのデスクだった。
もう、夕方に近いので、マリンメニューはすべて終わっている。人影はない。
テラスの上には、木造りの白い屋根があり、そこから落ちてくる光りが縞模様となって、
真白いデッキチェアーやテーブルを照らしている。
僕は思わず、その光景をCanon Eos1Dに納めた。思い通りの作品になった。
「見せて」冬美が液晶を覗き込む。
美しく切り取られた世界に冬美は感嘆の声を上げた。
「素敵。さすがプロね。同じ風景を見ていても、撮る視点が違う。
画面を見るまで、こんな綺麗な所にいるとはまるで気付かないわ」
「まあ、そうでなくっちゃこの世界では生きていけない」
「ねえ、そこのチェアーに座るから、私も撮ってくれるかしら」
「もちろん」
僕は先ほどの場所に立ち、同じ構図の中、左に冬美を置いて、3枚撮った。
まるで絵のような光景の中、冬美は違和感なく納まっている。
ひまわり色のビキニが縞模様の光りの中で浮きだって見える。
なんて綺麗な娘なんだろう。僕はあらためてこの出会いに感謝した。
もう一度、冬美は液晶を覗いて、満足そうに笑みを浮かべた。
「さあ、泳ぎましょう」
座っていたデッキチェアーにタオルを置くやいなや、冬美はハイビスカスの小道に向かって駆けだした。
その坂道をほんの10メートルも下ると、海に到達する。
僕はカメラをスタッフに預かってもらって、冬美を追いかけた。冬美はもう、海の中にいた。
華麗なフォームで、沖に向かって泳いでいる。美しいクロールだ。
僕も飛び込み、追いかけたが、追いつくどころか、どんどん離されていった。
疲れ切った頃、冬美が笑いながら立ち泳ぎで迎えてくれた。
「だめね、遅いわ。それに、泳ぎがなってない」
「君と比べるなよ。これでも週二回、スイミングに行ってるんだぜ」
「よろしい、教えてしんぜよう。アキラ君」
「お願いします。冬美コーチ」
冬美は正しいクロールを教えてくれた。言われたとおりに泳いでみた。驚くことに、とても楽に泳げた。
「筋がいいわね。かなり良くなったわ。そろそろ岸へ戻りましょう。あなたが溺れちゃ大変」
テラスに戻り、トロピカルドリンクを注文した。彼女はチチ、僕はマルガリータ。
南国気分が嫌が上でも盛り上がる。
飲み終えると、カートに乗り、コテージでシャワーを浴びた後、レストラン棟に向かった。
夕食はバイキングだった。
海の幸がふんだんに並べられていて、とても美味しかったが、冬美はあまり皿に取らなかった。
「食欲、ないのかい?」
「ううん、ダイエットしてるの」
冬美はそう言ったが、本当には聞こえなかった。
食事を終え、美しい夕焼けの空の下、カートでコテージに帰り、もう一度シャワーを浴びた。
二人は備え付けのカラフルな寝着に着替えた。
「もう、寝ようか」
「うん」
二人はそれぞれのベッドに潜り込んだ。
「おやすみ。明日はダイビングだ。楽しみだね」
「うん、どんな海かな。今からうきうきするわ。おやすみなさい」
小さなランプだけを残して、部屋の照明を落とした。
しばらくすると、冬美が僕の横にスルスルッと入ってきた。
「どうしたの?」
「わたしたち、まだ、キスもしてないわ」
僕は横を向き、彼女のふくよかな唇にそっと口づけた。
「初めてなのよ。優しくしてね」
僕はゆっくり時間をかけて冬美を愛した。
世界でただ二人だけのために時間が過ぎていった。
窓から漏れてくる波の音が、いつまでも二人を包み込んでくれていた。

 

何かが唇に触れる感触で目が覚めた。
冬美の顔が目の前にある。
「起きた?モーニングコール替わりの、モーニングキッスよ」
冬美の柔らかい肌が心地よい。
裸の胸が押しつけられて、なんだか恥ずかしく、それでいて、とても愛しい。
「ねえ、お願いがあるの」
僕は冬美を抱きしめながら、お願いの続きを目で催促した。
「写真を撮ってちょうだい。このままで」「ヌードを?いいよ。化粧しておいで」
「私、化粧は基本的に嫌いなの。職場に行くときは、仕方がないから、最小限のメイクはするけど」
「それは素晴らしい。僕も実は化粧は嫌いだ。若い女性は、何も施さないのが一番美しいと思う」
冬美はベッドを抜け出し、鏡の前で歯を磨き、髪だけを整えた。
「どこで撮るの?」
僕はまばゆい裸の冬美に見とれていて、反応が遅れてしまった。
「じゃあ、窓辺に行って。レースだけ残して、カーテンを開けて。そう、そこで少し横を向いて」
「これでいい?」「うん、完璧だ」
僕はカメラを取り出し、解像度を最高に設定した。ストロボは使わない。自然光を大切にしている。
レースカーテン越しに、朝の光が冬美の横顔を照らしている。カーテンは飽くまでも白く輝いている。
28ミリレンズに替え、ファインダーを覗く。画角の広いレンズだ。
冬美の美しい長い髪の少し上から、足下のカーペットまで、すべてがファインダー一杯に納まっている。
シャッターを10回切った。その度に冬美はポーズを変えてみせた。
今度は標準50ミリレンズに交換した。目で見るのとほぼ同じと言われる、このレンズが僕は最も好きだ。
冬美に寄る。上半身を捉える。形の良い胸が僕をどきどきさせる。
明るい。そのまま撮るとアンダーになり、暗く写るので、マニュアルに変え、露出を3段階開く。
カシャン、カシャン、カシャン!モータードライブのシャッター音が鳴り響く。
Canon一眼レフのシャッター音は、他のメーカーのものに比べて、歯切れ良く、耳に心地よい。
冬美は物憂い表情をしている。美しい。でも、笑顔も押さえておきたい。P
「冬美、笑って」
冬美は少し、笑みを浮かべる。その口元が強調されるように、撮影位置を変え、5回シャッターを押した。
最後に、顔のアップを撮るため、接写レンズを取りだした。
冬美の目が朝の光を映し、きらきらしている。愛しい気持ちがこみ上げてきて、なかなかピントをどこに合わせばいいか分からない。接写レンズでは、ピントを合わせた所以外はぼけてしまう。
まず、目に焦点を合わせ、3ショット。横に回って、整った鼻に合わせたものを、やはり3ショット撮った。
「もう、いいよ。はい、タオル。カメラマンでなくなると、なぜか、君を見るのが恥ずかしいよ」
冬美はバスタオルを纏った。
「見せて」
僕は撮った写真を呼び出し、冬美に見せた。
「へえ、私って写真映り、いいのね」
「まさか。実物が一番だよ。愛してる。いつまでも僕のそばにいてくれるかい?」
冬美は目を輝かせながら、嬉しそうにうなずいた。

 

シャワーを浴びたのち、カートで朝食会場に向かった。やはりバイキングだった。
冬美の皿は、山盛りになっていた。
「凄い食欲だね。昨晩とは大違い」
「だって、今日はダイビングの日よ。たっぷり補給しとかなくっちゃ」
残すかな?と思ったが、冬美はペロリと平らげてしまった。なんだか、ほっとした。
コテージに戻り、水着に着替え、昨日行ったマリンスポーツのデスクで受付をした。
「Cカードを出してください」
二人はライセンスとログブックを提出した。
「おや、取られたばかりですね。大丈夫ですよ。インストラクターの言いつけをしっかり守ってください」
集合場所の芝生で座っていると、真っ黒に日焼けした若い男がやってきた。
「インストラクターの山際です。今日はお二人だけです。初級者向けのスポットにご案内します」
山際氏に案内された建物で、身体に合ったウェットスーツを選んでもらい、それを着用した。合成ゴムで出来ているからか、なかなか引っかかって着ることが出来ない。冬美も悪戦苦闘していた。
やっと両足、両手を通すと、BCD、レギュレーターを受け取った。桟橋まで歩き、舟に乗り込んだ。
ダイビング専用の、白い素敵な舟だった。
舟にはタンクが積んであり、山際さんに手伝ってもらいながら、レギュレーターに取り付け、
残圧をチェックした。BCDと繋ぎ、羽織った。
山際氏が鉛が付いたベルトを二人に配った。ウェイトだ。ずしりと重かった。それを腰につけた。
持参したマスクに液体の曇り止めをすると、用意OKだ。舟はすでに出航していた。
30分ほどでポイントに着いた。山際氏が説明する。
「ここは海流が弱いから、初級者でも安心です。大物がいますよ。期待してください」
フィンとマスクを装着し、レギュレーターをくわえ、山際インストラクターに続いて、
後ろの金属製の梯子から海に入った。
舟と錨を結んでいるロープを伝いながら、ゆっくりと深度を深めていく。上を見ると、
さすがスポーツウーマン、冬美はスムーズに降りてきた。5メートルほど下で山際氏が待っていた。
三人揃ったところで、いよいよ潜行開始だ。冬美と手をつなぐ。なんだか嬉しい。
少しずつだが、着実に深度は深くなって行っている。何度も耳抜きをした。
突然、大きな魚が前を横切った。大きな鰺のようだ。80CMはありそうだ。
山際氏がボードに何か書いて見せてくれる。「ロウニンアジ」
突然、大群がやってきた。僕らの周りをぐるぐると回っている。
凄い光景だ。冬美もびっくりした表情をしている。
さらに進むと、岩場に着いた。大きな羽を開いたような珊瑚の下をくぐり、
山際氏が指さしている所に向かった。縞模様の獰猛そうな魚が穴から顔を出している。
これは分かる。ウツボだ。海のギャング。山際氏は手袋もなしで、その頭をなでている。
僕らにも触って見ろと言っている。僕は遠慮したが、冬美は果敢に挑戦した。
こわごわだが、頭をそっとなぜて見せた。
僕の方を振り向き、OKサインを指でしめした。僕は冬美の勇気に舌を巻いた。
そして、しばらく行くと、砂地にで出た。前方を山際氏が指さしている。
ずんぐりした魚がゆっくり横切っている。
「ナポレオンフィッシュ。めったに会えない」山際氏のボードに書いてある。
そして、そのあとに、ジェット機のような形の大型の海の動物がやってきた。
なんと、マンタだ。それも二匹つがいで。
広い海がすべて自分たちのものであるかのように、ゆうゆうと泳いでいる。
「凄い、ラッキーですね。マンタにあえるなんて」山際氏がボードに書きながら驚いている。
冬美はマスクの中で笑い顔を作っていた。
山際氏が残圧計を指さしている。チェックした。30を示している。冬美も同じだ。
それを山際氏に指で告げる。彼は右の親指を立て、浮上するように指示した。
ゆっくりと浮上し、最初つたって降りたロープにつかまり、
水深約メートルほどで5分ほど過ごしてから、舟に上がった。
マスクを取った冬美がにこにこしている。
「やったわ。ナポレオンフィッシュにマンタ・・
感動。来て良かった。ありがとうアキラ。人生最高の想い出よ」
冬美の表情に僕も嬉しかった。

 

その夜はビュッフェでなく、コースディナーだった。
ロブスターの鬼殻焼きと石垣牛のステーキを、冬美はとても美味しそうに食べた。
食事の間中、冬美は昼間のダイビングでの感動を語っていた。
レストランを出ると、外はもう、真っ暗だった。空は星で覆われていた。
「ねえ、はいむるぶしって南十字星って意味だったわよね。どれがそう?」
「残念がら今は見れないんだ。12月から6月までって、HPに書いてあった」
「じゃあ、今度は6月に連れてきてくれる?見てみたいわ」
「OK。ぜひそうしよう」
「南十字星は見えないけれど、凄いわ。満天の星ってこういうのを言うのね。
あの星が集まっているところは?」
「天の川だよ。MILKY WAY。ほら、あそこから向こうまでずっと続いているだろう」
「ホント。あ、流れ星」
口より先に、冬美は目をつぶっていた。両手は堅く握り合わされていた。
「間に合ったわよね」
「うん。何をお祈りしたんだい?」
「それは、ひ・み・つ」
「そうだな、祈りごとは人に教えたら叶わないと言うものね」
コテージに戻ると、冬美はふいに抱きついてきた。
「ねえ、脱がして」
僕は言われるままに、冬美のドレスの背中のファスナーを下ろし、下着も取った。
「覚えていてね。私の身体。けが一つしたことのない、生まれたままのきれいな身体」
そう言うと、ベッドに入り込み、僕を誘った。僕も着ているものを脱ぎ、冬美のとなりに滑り込んだ。
しばらくの間、冬美の美しい髪をゆっくり、ゆっくり梳かすようになぜていた。
それから、唇を重ね、長い長いキスを交わした。
情熱の時間は長く続いた。
僕はいつの間にか、眠ってしまった。
冬美に揺り動かされて目が醒めた。
「だめねえ、モーニングキッスじゃ起きないんだから」
冬美はもう、着替えていた。
「まだ、朝じゃないよ」
「いいの。今5時。朝日を見に行きましょうよ」
「いいね。ちょっと待って。顔洗ってくるから」
石鹸で顔を洗い、歯を磨いた。
冬美は待ち切れなさそうに、僕をせかした。
「早く早く。陽が昇っちゃうわ」
カメラと三脚をカートに積み込んで、海に向かった。
海に着くと、空は紺色で、東の方向に、少し赤く色付き始めている部分があった。
三脚を立て、カメラをセットし終えると、冬美の肩を抱いて、朝焼けを待った。
やがて、赤い部分が明るくなってきた。そして、太陽の頭が覗いた。
冬美はまた、手を組んで、目をつぶった。その間に、僕はリリーズを使って、朝焼けの写真を撮り、
三脚を動かし、朝焼けに祈る冬美を10ショットほどカメラに納めた。
冬美は朝焼けをバックに、綺麗なシルエットとして、切り抜かれていた。
完全に太陽が水平線の上に上がったとき、冬美は僕と一緒に撮って、と言った。
セルフタイマーにし、ストロボをシンクロにセットした。そして二人で抱き合った。
しばらくして、ミラーが下りる音がした。
二人でカメラの所に行って、今の画像を確認した。
抱き合った二人の右側に、生まれたての太陽が写っていた。
冬美は、少し哀しそうに写っていた。

 

10

「今日は潜れないよ。航空機に乗る日は、気圧の関係でダイビングできないんだ。
観光するかい?NHKドラマのロケ地もあるよ」
「いいわ。海で遊んでいたい」
朝食の後、海へ行った。マリンスポーツのデスクで、僕はメニューを検討した。
「ねえ、マリンジェットに乗ってみようか」
「面白そう。二人で乗れるの?」
「うん、僕は二級船舶を持っているから」
僕はスタッフにマリンジェットのレンタルを申し込んだ。
スタッフはビーチに乗り上げてあるマリンジェットを海に押し出した。
僕が前に乗った。エンジンをかけ、ハンドルを握り、少しひねると、マリンジェットはゆっくり進み始めた。
「しっかりつかまってなよ。振り落とされると大変だから」
後部座席の冬美は、僕に強く抱きついてきた。僕はスピードを上げ、左へ大きく旋回した。
「小浜島の周りを一周してみよう」
「素敵。わくわくしてくる」
太陽は真上にあった。風を切って走ると、とても心地よい。半周したところで、冬美は大声をあげた。
僕はマリンジェットを停止した。
「どうしたの?」
「見て、この海の透明度。下の珊瑚礁がクリアに見えているわ」
「ホントだ。こんな海、見たことない。素敵だね。よし、出発するよ」
僕はスピードを上げた。透き通った海の上を走るのは、とても快適だった。
プライベートビーチに帰ってきたとき、冬美は言った。
「素晴らしい経験だったわ。マリンジェットといい、ダイビングといい、星空といい、朝日といい・・」
テラスで簡単な食事を取りながら、僕は冬美に尋ねた。
「ねえ、一つどうしても君に聞きたいことがあるんだ。時折見せる、君の暗い表情の原因は何なんだい?」
「もう、隠せないわね。恥ずかしいけど告白するわ。実はもう長いこと生理不順が続いているの。
2週間も続くこともあれば、1ヶ月ないときもある。
ネットで調べたら、子宮内膜症や子宮筋腫の疑いがあるって。
そうでなくとも、赤ちゃんが産めない体質になっている可能性もあるわ。
あと、子宮癌の可能性も排除できないって。
それが気になって、時々ブルーになっていたのよ。
あなたに一目会ったとき、ああ、この人は神様が与えてくださった、最も大切な人になるって直感したわ。
でも、子供が産めないなら、結婚できないと悩んでいたの。
串本の後、近くの産婦人科で観てもらったけど、大きな病院でCTやMRIを取った方がいいと言われたの。
だからね、もしもの事を考えて、早く沖縄に連れてきてもらいたかったの。急がせてごめんなさいね。
だって、突然貧血で倒れて入院でもしちゃったら、連れて行ってもらえなくなるじゃない。
でも、ありがとう。小浜島、来て良かったわ。もう、思い残すことはない」
「ばかだな。君は心配性だね。考えすぎだよ。それに、もし君が子供の出来ない身体であっても、
そんなことは関係ない。
見てごらん、海はあんなに蒼い。空も蒼い。雲は白く、風は優しく、ハイビスカスは飽くまでも赤く、
プリメリアの花は美しい。
そして君のすべてを僕は受け入れている。
子供が出来なくったって、そんなことは気にしない。
今、目の前にいる君がすべてなんだ。君を失いたくない。
結婚してくれるかい?いつも君の側にいたいんだ」
冬美の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、テーブルに水滴を作った。
それは太陽の光を反射させ、美しく光った。そして、可愛い唇をそっと開いて言った。
「ありがとう、私もあなたを失いたくない。はい、結婚してください。大切にしてね。浮気はだめよ。
京都に帰ってまだ、生理不順が続くようなら大きな病院で精密検査を受けてみるわね」
帰りの航空機の中で、冬美は疲れが出たのか、ずっと眠っていた。
その寝顔を見ながら、僕は心の中で誓った。この先何があろうと、この人を守っていこう。
もしも、病気だとしても、僕がしっかり支えてあげよう。きっと大丈夫だ。
この時、その先に襲いかかる衝撃を、僕はまだ知らなかった。

 

11

関西国際空港に着いた。特急はるかに乗り、僕は天王寺で降り、冬美はそのまま京都へ向かった。
車内で冬美は今までの暗い表情を見せなかった。
天王寺のホームで、冬美の座席の所まで歩き、窓越しに「愛してる」と言った。冬美もそれに答えた。
それから2ヶ月が経った。僕らは主に冬美の住む、京都で逢った。
僕はいつも愛車、オペルアストラをとばし、名神を走り、京都南で降り、冬美のマンションに迎えに行った。
秋に入ったばかりの京都の空気は爽やかで、僕らはいろんな所に足を運んだ。
と言っても、金閣寺のような有名観光地には行かなかった。冬美がお気に入りの場所に行くのだったが、
さすが地元だけあって、穴場に連れて行ってくれた。
中でも僕が気に入ったのは、蓮華寺という寺だった。畳の奥に座って、庭を見る。柱で風景が切られており、それが屏風絵のように見える、と受付でもらったパンフレットに書いてある。確かにそう見える。
「いつもここで1時間は座って眺めているの。こころが落ちつくわ。クリスチャンなのにね」
庭を堪能した後、抹茶を頂いた。僕は茶道の経験がなく、冬美に教えてもらいながら、味わった。
苦かったが、雰囲気を楽しむことが出来た。
冬美が通っている教会の礼拝にも参加した。
僕はクリスチャンではないが、聖書はよく読んでいるから、抵抗は全くなかった。
賛美歌を歌い、聖書を読み、説教を聞いた。
礼拝が終わると、冬美の体調が良くなるよう、牧師が祈ってくれた。
ある日、僕が自宅で写真の整理をしていると、携帯電話が鳴った。待ち受けメロディーで冬美と分かる。
待ち受けは、冬美とお揃いの、「銀の龍の背に乗って」。中島みゆきの歌で、
沖縄の離島で活躍する医師のドラマのテーマソングだ。
「ねえ、お願いがあります」
「なんだい、あらたまって」
「病院に着いてきて欲しいの。行きつけの産婦人科から紹介状をもらったから、京大病院に検査にいくの。
また、生理不順が続いているから。この2ヶ月、ないのよ」
「いいよ。いつ?」
「明日、10時に予約取ってある」
「OK。9時に君のマンションに車をつければいいかい?」
「うん、それでいいわ。ごめんね、一人じゃ心細くって」
「分かった、じゃあ、明日」
電話を切ってから、冬美の不安そうなしゃべり方が気になった。
翌日、マンションの前で車を停め、携帯で冬美を呼びだした。
待ちかまえていたのだろう。1分もかからず降りてきた。
彼女が落ちつくように、MDから自然の音を流した。水の流れ、鳥の声・・」
「わぁ、すごい。目をつぶったら森のせせらぎにいるみたい」
「バーニー・クラウスだ。自然の中に入り、膨大な自然の声を録音し、それを重ねて作品にする。
これはカリフォルニア州、シェラネバダ山脈」
「心が軽くなるわ。ありがとう」
そうするうちに京大病院に着いた。パーキングに車を停め、病院内に入った。受付で冬美は紹介状と健康保険書を提出し、しばらく後、診察券をもらって戻ってきた。
「行きましょう。産婦人科は5階だって」
産婦人科の受付で書類を提出した後、診察室の前でしばらく待った。
やがて、どこかにあるマイクから「酒井さん、どうぞ」と呼び出しがあった。
僕は彼女の後に続いて入った。
40過ぎの女性の医師だった。白衣の胸元にある、IDカードに「松本 愛」とある。
「どうぞ、座って。そちらは?」
「はい、私の婚約者です」
「結城です」
「そう、検査の時は外に出ていてもらいます。で、生理不順だそうですね」
「はい、もう半年近く、おかしいんです。長くなかったり、逆に二週間も続いたり・・。
今は2ヶ月ありません」
「分かりました。とりあえず、尿検査とエコーを診てみましょう」
診察室を出て、冬美は紙コップを持ってトイレに入った。
また、診察室の前で待っていると、松本医師の声がマイクから流れた。冬美は一人で入っていった。
30分ほど待っただろうか。ドアが開き、松本医師が僕を招き入れた。
そして開口一番、びっくりするようなことを告げた。
「あなたの婚約者、酒井さんは妊娠しています。これを見てください」
大きめの手帳くらいの用紙に、黒っぽい画像が写っている。
「ここに、見えますね、生を受けて8週、3ヶ月めの胎児です。」
冬美はにこにこしていたが、医師は「おめでとうございます」とは言わなかった。

 

12

松本医師は真剣な顔で言った。
「酒井さんは出産を望んでおられます。ただ、問診では生理不順がひどいようです。
過去に血の塊が大量に出て貧血で倒れたりしたこともお有りな様ですので、
念のため細胞を調べてみる必要があります。
少し時間がかかりますが、婚約者の方、結城さんでしたね。表でお待ちください」
僕は1時間ほど待たされた。やがて冬美が出てきた。
「どんな検査をしたの?」
「いろんな検査をしたわ。内診台っていうの?ベッドに乗って足を・・だめ、恥ずかしくて言えないわ。
エンドなんとかって検査、すごく痛かった。涙が出たわ。
今から血を採って、CTとMRIの予約入れなさいって」
彼女は受付に行って予約を取り、しばらく後、看護師に呼ばれて別室に入り、すぐに出てきた。
「予約は1週間後。また、ついてきてくれる?」
「いいよ。検査の結果が問題ないといいね」
精算を済ませ、冬美と僕は病院を出た。
「お腹減ったね。どこかで食べよう」
「南禅寺の湯豆腐を食べたいわ。ここからそう遠くない」
「OK。それでいこう」
アストラに乗り込み、南禅寺に着いたのは2時を回っていた。
山門の手前に、古い造りの建物があった。湯豆腐、と看板があがっている。
中に入ると、庭が見事だった。野菜の天ぷら付きの湯豆腐を注文し、庭を眺めながら食べた。
とても美味しかった。柔らかい豆腐で、普段僕が大阪で購入するものとはまるで別物だった。
店を出て、南禅寺の裏から続く、哲学の道を歩いた。細い綺麗な川の両側に小道が続いている。
「いいところだね、昔の有名な文学者たちが散策しながら構想を練ったんだろうな」
「ねえ、お願いがあるの。検査の結果が良性であるように、いつも祈ってて欲しいの。
あなたがクリスチャンでなくてもいいの。
この間読んだ本では、
神でも仏でも、とにかく大いなるものに祈ればそれはかなえられるって書いてあったから。
アメリカの有名な臨床医の書いた本よ。ええと、ラリー・ドッシーって言ったっけ。
手術や薬による治療に加えて、祈ることで、驚くべき結果を残している、そう書いてあったわ。
祈る心は治る力、て本。アメリカでは医師が患者の為に祈る病院が増えてきてるそうよ。
「もちろん、毎日、四六時中祈るよ。僕も近くの教会に行ってみる。この間君に連れられて行って、
とても良かったから。僕は無宗教じゃない。
どちらかというとあらゆるものに神を認める、アボリジニやアメリカ先住民族の信仰に近いけれど」
「あなたが救われると素晴らしいわ。
救われるっていうのは、イエスキリストを救い主として受け入れるって意味なの」
「まだ、何も分からないけど、大阪に帰ったら、聖書を買ってみるよ」
「聖書は私にプレゼントさせて。今から買いに行きましょう。京都駅前に大きな書店があるの」
書店で、冬美は「新共同訳聖書」を選び、そこでペンを借り、表カバーの裏側に、なにやら書いていた。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく、心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
エレミア書29−11 -冬美からアキラへ-
「はい、どうぞ。あなたへの初めての贈り物。メッセージは私が一番好きな聖句」
「ありがとう。この言葉、今は君に一番必要だね」
僕は祈り続けた。毎日聖書を読み、日曜には冬美と一緒に礼拝に出た。
1週間が過ぎた。僕は冬美を車に乗せ、再び京大病院を訪れた。
冬美は長い時間をかけてCTとMRIを撮影した後、診察室に二人で入った。
松本医師が深刻な顔で僕らを見た。

 

13

松本医師は検査結果を伝えた。淡々とした語り口で。
「酒井さんは子宮体部癌と診断します。あなたのような若い女性にはきわめてまれな病気です。
私もこの何年か、扱った覚えがありません。
重い病気です。子宮を全摘出しないと、命の保証はできかねます。
残念ですが、出産は諦めてください。中絶をお勧めします」
「そんな・・」
冬美の顔を絶望が覆った。しかし、次の瞬間には松本医師をしっかりと見つめた。
「いいえ、赤ちゃんは産みます。こんなこと、先生に言うのは何だけど、
彼と楽園のような島で授かった、神様からの贈り物なんです。
私、初めての体験で、生理不順にもかかわらず、妊娠することができた。
この命、消し去るわけには行きません。私、クリスチャンなんです。中絶はお断りします」
冬美は左手で胸の十字架を、右手で下腹部を大切そうに押さえていた。
「私もクリスチャンです。愛という名は、両親が『神は愛です』という聖書の言葉からつけてくれました。
分かりました。出産に向けて、できる限りのことをしましょう。と言っても、子宮体部癌に有効とされる、
ホルモン治療や抗癌剤治療はお腹の胎児に悪影響を与えます。
医師としてできることは、実は全くないのです。立場上、許されないことですが、
いくつかの健康食品を紹介します。それを毎日摂取してください。
それと、一月に一度は今回と同様の検査をしていただきます。いいですね。
もう一つ。今日撮ったCTやMRIで卵巣や腹膜、さらに肝臓や肺に転移していたなら、
あなたの命は赤ちゃんが産まれてくるまで持ちません。
その場合は、手術で子宮はもちろん、いくつかの臓器にメスを入れます。
大きな手術になります。むろん、赤ちゃんは諦めるしか有りません。
私もあなたのために祈らせてください。神の祝福のあらんことを」
さっきまで冷静だった松本医師の目が少し潤んでいた。
松本医師の勧めた健康食品とは、ノニジュースという、タヒチ産の果実をベースにしたジュース、
そして、アガリクス茸という、ごくわずかしか採れない、高価なキノコの乾燥した物だった。煎じて飲む。
共に癌に効くというが、薬事法に抵触するので、おおっぴらにはそれをうたう事は許されていない。
まして、医師が勧めるなどというのは、異例のことだ。僕は松本医師の人柄に通常の医師以上の、
患者への愛を感じた。「愛」と言う名の通りだな、と深く感謝した。祈ってさえくれるという。
世の中にはこんな医者がいるんだ。それも、大学病院という、きわめて閉鎖的な病院に。
「検査の結果は来週です。また、1週間後に来てください。それでは」
冬美と僕は、深々と頭を下げて、診察室を出た。
「1週間後か。心配で眠れないだろうな」
冬美は意外にもけろっとしていた。
「これ以上悪い結果が出るわけないじゃない。聖書を開いてみてよ。
平和の計画であって災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。って書いて有るじゃない。
南の島で、海が、空が、太陽が、星が、何よりも全能の神様がくださった命なのよ。
私、全然心配してないわ。でも、お祈りは欠かさないでね。
松本先生もお祈りしてくださると言ってくださったし、あなたも祈ってくれる。
教会の牧師も祈ってくれているわ。祈り手は多い方が神様に届くのよ」
冬美の言葉に、思わず僕は涙してしまった。

 

14

運命の日が来た。診察室に入る。松本医師は無表情で冬美を見つめている。
「どうぞ、かけてください」
「はい」冬美は松本医師の前の椅子に、僕は丸椅子に腰を下ろした。
松本医師は少し、表情を和らげて言った。
「結論から言いましょう。子宮以外への転移は見られません。まずは、一安心ですね。
でも、今後転移しないという保証はありません。出産の意思は変わらないのですね」
「はい、産ませてください」
「分かりました。先日言ったように、月に一度検査に来てください。祈る以外に何もできないのは、
医師として歯がゆいばかりですが、お祈りは欠かしません。神の祝福が豊かに与えられますように。
健康食品は飲んでますか?」
「はい、毎日。なんだか、体の調子が前よりいいような感じがするんです」
「そうですか、まあ、健康食品なのですから、身体には悪いわけはありません。
健康食品が医薬と呼ばれる様になるには、今の日本ではハードルがとても高いのです。
厚生省の認可を取るためには、何年もかかることが普通です。認可を取ってからも大変です。
丸山ワクチンも、未だに一般的ではありませんからね。とにかく、飲み続けてください。
1ヶ月後、また来てください。お祈りしましょう。
これは、秘密ですよ。診察室で患者に祈ったと知れたら、ここに居られなくなる」
松本医師は冬美の頭とお腹に手を当てて、冬美の癌が進行しないよう、祈ってくれた。
「素晴らしい先生だね。信じられないよ」
病院の出口で、僕は冬美に言った。
「クリスチャンはね、人の為に祈るのは喜びなのよ。それにしても、病院で祈ってくださるなんて・・」
そして月日は過ぎていった。毎月の検査でも、冬美の癌は他へ飛び火することはなかった。
松本医師は暇を見つけては、冬美や僕に携帯メールをくれた。冬美の教会に来てくれたこともあった。
冬美はつわりも軽く、どんどんお腹が大きくなっていった。
ある日、予定日を1ヶ月以上前にして、冬美は突然、倒れた。
死にそうな声で携帯に電話がかかってきた。
「救急車呼んだわ。もうだめ」電話はつながったまま、冬美の声は消えた。
僕はアストラに飛び乗り、制限速度を無視して、高速をすっ飛ばした。
京大病院に着くや、階段を5階まで駈けのぼった。
受付に聞いた。冬美は今、分娩室にいるという。
分娩室に行くと、血相を変えて松本医師が飛び出してきた。
「あ、アキラさん、冬美さんはこれから緊急オペです。帝王切開で赤ん坊を取り上げます。ただ・・」
「どうしたんですか?」
「母体は救えないと思います。癌が急速に悪化していました」
「そんな・・」
「手紙を預かっています。どうぞ」
受け取った封筒には、震える文字で「遺言」と書いてあった。
手を震わせながら、中身を取りだした。
「アキラ、ごめんなさい。私はもう、だめみたい。最後のお願いを聞いてください。
生まれてくる子は女の子です。先生に聞きました。
夏に授かった子なので、夏美、と名付けてください。
それと、骨は小浜島の海にまいてください。私の大好きなプリメリアの花とともに。
天国からいつもあなたと夏美を見ています。今まで、本当にありがとう。私は幸せでした」
最後の文字は、涙でにじんでいた。
涙が僕の目から、次々に溢れてきた。
分娩室の前で、僕は永遠とも言える時間、立ちつくしていた。冬美の遺言を握りしめて。
やがて、分娩室の、手術中のランプが消えた。

 

エピローグ

僕は小浜島の海を見ていた。透き通るように蒼い、海を見ていた。
この海に、冬美は眠る。永遠に。
5年前、冬美の遺灰を、この海にまいた。
漁師に舟を出して貰って、冬美の好きだったプリメリアの花弁を、灰とともに、まいた。
海面に真白い花が咲き、広がっていく。
どこからか冬美の声が聞こえる。僕はどうかしてしまったんだろうか。
誰かに揺り動かされて、目が醒めた。
冬美が笑っている。
「なによ、デッキチェアーで寝ちゃって。だらしないわね」
僕はまだ、半分夢の中にいた。
「冬美、君、死んだんじゃ・・」
「何、とぼけてんの、しっかりしてよ」
「パパ!」水着姿の小さい女の子が駆けてくる。その後ろには、松本女史が笑いながら歩いてくる。
「夏美・・」僕はようやく現実に戻ってきた。
「どうしたの?アキラ」
「ん、悪い夢を見ていたんだ。君の遺灰を海にまく夢」
「縁起でもないわ。さあ、泳ぎましょう」冬美はワンピースの水着を着ていた。
傷を隠す為だろう。しかし、その色は、鮮やかなひまわり色だった。
松本女史と目が合う。記憶は5年前にさかのぼる。
あの日、分娩室のランプが消えて、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
扉が開き、手術着姿の松本医師が出てきた。
「可愛い元気な女の子です。もちろん、何の傷害もありません。夏美ちゃんですよね。
冬美さんから聞きました」
「先生、冬美は、冬美はどうなったんですか?」
「大丈夫。安心して。助かりました。奇跡です。信じられないことが起こったみたい。
今はまだ、麻酔から醒めてません。もう少し待ってね」
しばらくして、白衣に着替えた松本医師がにこにこしながらこっちへやってきた。
「個室にいます。今、意識が戻りました。525号室です」
僕は思わず走った。525号の扉を左に引いた。冬美が笑っていた。
側には、プラスチックのケースが置いてあり、真っ赤な赤ちゃんが寝ていた。
「夏美ちゃんですよ。パパにそっくりね」後ろから松本医師の声がした。
「まさに奇跡です。99、99パーセント、冬美さんは助かる見込みはなかったんです。
こんなこと、私が医師になってから、初めて経験しました。愛の力ですね」
「いいえ、先生のお祈りのお陰です。神に感謝します。僕も洗礼を受けます」
ホルモン治療と、抗癌剤治療は、1年で終わった。良い意味で異常なことだと、松本医師は言った。
「凄い奇跡を見せて貰いました。私も信仰を新たにしました」
それからの日々。親子3人の幸せな日々。そして今、想い出の小浜島にいる。
その夜、コテージの外に出た。となりのコテージにいる、松本女史も誘った。
相変わらず、満天の星。そして、水平線の上、南十字星が輝いていた。
思わず呟いた。「神様、感謝します」
傍らでは、冬美と松本女史が、南十字星に向かって、手を組んでいた。
夏美は僕の足にすがっていた。そして、僕も手を組んだ。
波の寄せる音が優しく繰り返す。あの、素晴らしい夜のように。



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2 コメント

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Unknown (迷いネコ)
2015-06-26 05:44:28
本当に経験された お話みたい。
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なんかね (shi)
2015-06-26 06:41:19
僕の小説は
体験したことをアレンジして書くので
「実話ですか?」ってよく聞かれます

でも
実話はほとんどないです

ただ
主人公の男性の優柔不断なまでの優しさは
僕の性格そのものです
返信する

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