愛詩tel by shig

プロカメラマン、詩人、小説家
shig による
写真、詩、小説、エッセイ、料理、政治、経済etc..

夏風邪 病からの奇跡の復活三部作より

2016年12月14日 04時31分19秒 | 小説

プロローグ

お盆が過ぎた。いつもみたいに窓を開けっ放しにして、布団も掛けずに寝てしまった。
明け方、寒さに目が覚め、急いで窓を閉め、布団をかぶったが、遅かった。
起きて布団をはいだ途端、寒気が襲ってきて、ぶるぶる震えた。
体温を計ると、39.7度あった。
急いで医者に行った。9時に開く医院は空いていた。まだ8:00だ。診察は9時だが、扉は開いている。
震えはまだ止まらない。
なじみの看護師が通りかかった。名札で名前は知ってる。山口さん。前から可愛いと思っていた人だ。


「山口さん、体温計を貸してくれませんか?」


「はい、どうぞ」

彼女はポケットからデジタル体温計を出し、差し出した。
ピピ!取り出すと、なんと39.9度に上がっていた。


「まあ、大変。診察が始まるまでベッドで休んでいてください」


僕は素直に従った。
冷たく絞ったタオルを、彼女は持ってきてくれた。それを僕の頭にのせ、言った。


「季節の変わり目ですからね。風邪引く人、結構多いんですよ」


「ご親切にどうも。今度お礼になにかごちそうさせてください」


「仕事ですから。お気遣いなさらず」


「いや、前から誘おうと思ってたんです。声かけるタイミングがなかっただけ。彼氏いるの?」


「そんなこと・・いいわ。2週間前に別れたばかり。今はひとりよ」


「じゃあ、今度食事でも。携帯のアドレス書いておきます」


僕は山口さんにメモを渡した。


「うーん、じゃあ、風邪が治ったらね」


「やった! メール待ってます」


そうするうちに僕の名前が呼ばれた。
医師は「典型的な夏風邪です。抗生物質を出しておきます。注射もしましょう」と言った。
薬をもらって医院を出るまでの間、山口さんを見掛けることはなかった。
家に帰って、横になった。寝ている間に大汗をかいた。熱は37度まで下がっていた。
次の日、日曜日。熱は平熱に下がり、元気になった。メールはまだ来ない。
玄関のチャイムが鳴った。

「はい」


「山口です。風邪はどうですか?」


僕は驚いた。急いでドアを開け、彼女を招き入れた。


「メールが来ると思ったら、本人が来た。びっくり!」


「あれからあなたのこと、ずっと気にかかっていたの。


あまり心配で、カルテの住所控えて来ちゃった。で、体調は?」


「完全復活だよ。君が来てくれたから、熱が上がっているかも知れないけど」


「言うわね。で、何食べさせてくれるの?」


「神戸に海に面したレストランがあるんだ。シーフードが美味い。車で行こう」


「素敵。来て良かったわ。」


僕は彼女を助手席に乗せ、走り出した。サンルーフと窓をすべて開け、高速を速いスピードで駆けていった。

音楽が聞こえてきた。ハンドルのリモコンで、音量を最大にした。
渡辺貞夫「CALIFORNIA SHOWER」が、BOSEのスピーカーから流れてくる。胸が高鳴る。
やがて、海が見えてきた。朝遅い時間の太陽に、キラキラ輝いていた。風が彼女の髪をなびかせた。

 

「ところでさ、君、下の名前知らないんだけど」

大きなカーブでハンドルを切りながら聞いた。


「真樹。真実の真に、樹木の樹。あなたは知ってるわ。透よね。透明のトオル」


「真樹かあ。いい名だね。ねえ、どうして窓の外ばかり見てるの?」


「え?海が綺麗だと思って」


風になびく綺麗な髪の向こう側に、彼女の陰りを感じたが、僕は黙って運転した。
高速を下り、目指すレストランに到着した。ちょうど昼前だった。
銀色に輝く海を見ながら、今朝神戸港に揚がったばかりの魚を食べた。


「素敵な所ね。それに、とても美味しい」


食後のコーヒーを飲みながらも、真樹はどことなく暗い。
どうしたの?あまり楽しくなさそうだね。


「いいえ、そんなこと、ないわ。昨日までの仕事で疲れただけ」


僕はそれ以上聞かなかった。その代わり、一つ提案をした。


「元町にね、古い教会があるんだ。とても素敵な所だから、行ってみるかい?」


「いいわ、行ってみたい」


「OK。行こう」


30分ほどでその教会に着いた。門の所に、こう書いてあった。


「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
マタイによる福音書11章28


真樹はそれをしばらくじっと見つめていた。


「入ろうか?」


「うん」


礼拝堂の中は暗かった。午前の礼拝はとうに終わっていて、誰もいなかった。
正面の窓がステンドグラスになっていた。そこから光が射し込み、とても美しかった。
長椅子に二人腰掛けて、無言のまま光りを見ていた。
振り向くと、真樹は瞳一杯涙をためていた。
真樹は言った。


「私、疲れたの。妻子ある人と付き合ってて。こちらから別れを切り出したけど、まだ、ふっきれてない」


「いいさ。僕はキリストじゃないけど、休ませてあげることはできる」


真樹は突然ぼろぼろ涙をこぼし始めた。
僕はそっと白いハンカチを渡した。


「ありがとう」

真樹はそれをただ、握りしめ、涙を拭きはしなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。真樹は泣きやんでいた。
そして、初めて頬からあごまでハンカチでぬぐった。


「不思議。泣くだけ泣いたら、すっきりしたわ。もう、あの人のこと、どうでも良くなった」


「本当?だってさっきまでまだ、ふっきれてないって」


「だから不思議なの。きっと大きな力が働いたんだと思う。ステンドグラスと、光りと、古い教会堂と、
何よりもあなたの優しさ。ねえ、ここであなたに抱きしめてもらったら、不謹慎かしら」


僕は黙って真樹を抱きしめた。


「お願い、もっと強く。力一杯」


僕は力を込めて、胸一杯の愛しさを込めて、彼女を抱きしめた。
午後のステンドグラスの光りが、いつしか二人をスポットライトのように包んでいた。

 

教会の前で、真樹は僕に聞いた。


「さあ、優しいトオル。次はどこに連れて行ってくれるの?」


「六甲に上ろう。景色が綺麗だよ」


表六甲ドライブウェイは右に左に急カーブが続く、ドライバー泣かせのロードだ。
僕はシフトをセカンドに放り込み、コーナーを次々に攻めていった。
カーブの手前でブレーキを踏み、曲がりきる直前にアクセルを踏む。
タイヤはしっかりと路面をグリップし、アストラは僕の思い描いたターンをトレースしていった。
音楽はかけない。常に緊張感が求められるからだ。
真樹はのんきなもので、木々の切れ目から時たま見える神戸の景色に、
「見て、綺麗よ」と叫ぶが、僕はそれどころではなく、前を直視し、運転に集中している。
最後のカーブを終えたとき、僕は大きくため息をついた。
T字路を右に取り、しばらく行くと、オルゴール館が見えてきた。
車を停め、中に入った。入場券を買って、最初の部屋に、高さ2メートル以上もある木造りのオルゴールが置いてあった。

すぐに、自動演奏が始まった。オルガンの音、太鼓、シンバルなど、本格的なものだ。


「感動しちゃった。これ、すごい機械ね。作るの大変だったでしょうね。」


「200年以上も前にヨーロッパで作られたものだ。維持が大変だろうね」


広いホールで幾つかのオルゴールを聴いた後、出口で僕は小さなオルゴールを包んでもらった。


「誰かにお土産?」

支払いをしている僕の背中越しに真樹が聞いてきた。


「うん、大切な人にね」


「ふうん」

真樹は疑わしそうに僕を見た。


車に戻り、エンジンをかけ、窓をすべて開いた。

セピア色の風が二人を包み、通り過ぎていった。


「さすが山頂ね。夏なのに、とても涼しい」


「はい、これ。僕の大切な人」

僕は先ほどの包みを真樹に手渡した。


真樹はそれを丁寧にを開き、オルゴールを取りだし、小さなハンドルを回した。ゆっくりと。


「あら、聞いたことあるわ。確か、AMAZING GRACE」


「そう、驚くばかりの恵みなりき」


「うれしい。大切にします」

真樹はしばらくハンドルを回し続け、やがて言った。


「ねえトオル。私はもう、これ以上ない恵みをもらったわ。あなたから。何をお返しすればいいのかしら」


「何も要らないよ。ただ、僕のそばにいてくれればいい」


「もちろんよ、約束するわ。あなたほど優しい人、初めてよ」


「優しくなんかないさ。君に夢中だから、出来るだけのことをしたいだけだ」


「いいえ、私には分かる。でも、その優しさ、私以外の女の人には、これからはあまり分けちゃだめよ」


僕はほほえみを隠して、ハンドルを握った。


「お腹減ったね。この先のホテルにバーベキューコーナーがある。神戸が見渡せるよ」


「わぁ。早く行きましょう」


ホテルに着いた。レストランが開くまでには少し時間があったので、ホテルを見学した。
ホテルの裏手は一面の芝生で、真白いチャペルがあった。夕方の太陽が、それをオレンジに変えていた。


「素敵。こんな所で結婚式したいわ。ねえ、予約しない?あなたさえよければ」


「ちょっと待って。プロポーズは僕からする。最高の雰囲気の中でね」


「はい。期待してます」

 

5時になった。レストランがオープンする時間だ。
蝶ネクタイをしたウェイターが案内してくれた。最初の客ということで、海側の特等席に案内してくれた。


「うわぁ。すごい景色。街と海。絶景ね」


真樹の陰はすっかり消えていた。まるで別人のようだ。


「とっても綺麗だ」

「ホント」

「いや、君のことだよ」

「お上手ね。私なんか・・」


「煙草吸ってもいいかい?」

「あら、吸うの?今朝から初めてじゃない」

「いや、教会や車では吸えないからね」

「一日にどれくらい吸うの?」

「3箱くらいかな」

「健康に悪いわ。やめなさい」


僕は笑ってピアニシモに火をつけた。

「ここはオープンエアーだから、君には迷惑をかけない」


「お酒は飲むの?」

「うん、冷凍庫にジンを入れている。1週間でなくなるな」


「ヘビースモーカーで、酒飲みか。心配だわ」


先ほどのウェイターが皿を運んできた。上等の牛肉、大振りの海老、ウィンナー、野菜などがのっていた。
円形の鉄板に、真樹が少しずつのせていった。


「ねえ、この間うちのクリニックで採血したでしょう?1週間で結果が出るから、来週いらしてね」


「いいよ、この通りぴんぴんしてる。」


「だめ、必ず来てね。ずっと私のそばにいてくれるんでしょう?健康でいて」

「わかった」


「職業は何?」

「フォトグラファーだよ。風景やイメージ写真を撮ってる」


「じゃあ、今度私も撮ってくれる?」

「人物は撮さない。でも、真樹なら撮ってあげる」

「ありがとう」


肉が焼けた。真樹が僕の小皿に置いてくれる。口に運んだ。

「美味しい」


「ホント、美味しい。神戸ビーフね。こんな贅沢していいのかしら」


すべての皿が無くなったとき、7時前になっていた。


「早く帰らなきゃいけないね」

「あら、大丈夫よ。私一人暮らしだから」


「じゃあ、もう少し付き合ってくれる?」

「もちろん」


精算を済ませ、車に戻った。


「ここからは、目隠しをして貰わなくちゃいけない」


「え?変なことするんじゃないでしょうね」


「まさか。目隠しを取ったとき、素敵なものを見ることになる」


真樹は素直に、僕の渡したタオルで目を隠した。

僕は山頂展望台へ車を走らせた。暗くなってきた。
山頂に着くと、僕は車を降り、助手席に回った。ドアを開け、彼女を注意深くエスコートした。
柵の前に着く頃、辺りはすっかり暗くなっていた。

彼女を海に向かせ、目隠しを取った。


眼下に神戸の百万ドルの夜景が広がっていた。


「・・・」

真樹は目を大きく見開き、その瞳には星のようにきらめく光りが映っていた


「さあ、今しかない。数え切れない宝石たちを君に贈る。僕と結婚してください」


「いいの?こんな私で。不倫経験者よ」


「人を好きになるのはしかたがない。でも、出来れば傷つくことのない恋愛の方がいいに決まってる」


「あなたは私を傷つけない?」


「この宝石たちに誓うよ。一生君を大切にする」


「信じるわ。はい、私でよければお嫁さんにしてください」


どちらからともなく、顔を近づけていった。そして、二人は口づけを交わした。
形のよい真樹の唇の感触をいつまでも味わっていたかった。永遠ともいえる時間が過ぎていった。

 

離れがたかったが、もう、遅い。

僕は真樹をそっと、押した。

「もう、帰らなきゃ」


「待って、きっとトランクにカメラ積んでいるんでしょう?夜景をバックに二人の姿、撮れる?」


「もちろん。ここで待ってて」

僕は愛機 CANON T90とストロボ、三脚を持ってきた。


デジタル全盛の時代だけれど、僕はアナログ銀塩写真にこだわっている。発色が全然違う。


真樹は夜景を見続けていた。

三脚をセットし、カメラを取り付け、ストロボをスローシンクロにセットした。
セルフタイマーをONにすると、彼女の横に立った。

「光った後も動いちゃだめだよ。画像がぶれる」


「ピ、ピ、ピピピピピピ・・」

ストロボが光る瞬間、真樹が僕にキスしてきた。


「ピカ!」

そしてしばらく後、カメラのミラーが落ちる音がした。

「カシャン!」


「こんな写真、恥ずかしいよ」

「いいのよ。あなたが浮気したとき、相手に送りつけるんだから」


「ホントかね?」

「まさか。2枚焼いて。一枚づつ常に持ち歩くの。いい?」

「はい、君には負ける」


その後、彼女の姿を夜景をバックに数枚撮った。

車に戻り、帰途についた。


下りのドライブウェイは、上りよりもよけい気を遣う。

ブレーキを踏み続けると効かなくなってしまうことがあり、危険なので、エンジンブレーキを使いながら、慎重に下りていった。


大阪に帰り、彼女のマンションに着いた頃にはもう、10時前になっていた。


「次のデートはまた日曜日でいい?私日曜と祝日しか休みないから」

「いいよ」


「金曜には採血の結果が出てると思うから、必ず来てね」

「分かった」


二人は車の中で、軽く別れのキスをした。


マンションの自動ドアが閉まり、彼女の姿が消えるのを見届けて、僕は家に帰った。


それからは毎日、何度も携帯メールを交わした。

夜には電話でたわいもないことを話し合った。
そして金曜日。

僕は彼女に会いたくて、また、8時にクリニックに入った。


真樹は嬉しそうに待ちかまえていた。

キスの写真と、夜景に浮かび上がる、彼女の写真を手渡した。


「うれしい。ありがとう。いつも身につけてるわ。診察まで時間があるから、血圧計りましょうか。」


真樹は銀色の箱を持ってきて、それを開いた。

「手動血圧計。一番、正確。右手を出して」


僕の上腕に布を巻き、真樹はポンプを何度も押した。

「そんなに膨らましたら痛いよ」

「文句言わない」


水銀が下がっていくのを見ながら、真樹は「え!」と言った。

「どうしたの?」


「160の94。血圧が高いわ。ちょっとカルテ持ってくるわね。採血の結果が挟んであると思うから」


真樹はすぐに戻ってきた。

「中性脂肪623。なに、これ。高すぎるわ。

LDLコレステロール。これもあなたの歳にしては高い。HDLコレステロール。これは低すぎるわ。
心配。設備の整った病院で精密検査して貰わなきゃ」


「大丈夫だよ。君がついていてくれるんだから。自覚症状があれば、考えてみてもいいけど」


真樹はため息をついた。

「しょうがないわね。ちょっとでも気になることがあったら、私に言ってね」


「分かった」

実はその朝、ごく軽い頭痛がしたことは黙っていた。


その後の医師の診断もおおよそ同じだった。

人間ドックを勧められたが、あいまいな答えをして、
真樹に

「じゃあ、明日」

と言ってクリニックのドアを開いて外に出ようとした。


だが、ドアに手をかけた途端、頭に激痛が走り、そのまま気を失った。


その後のことは記憶にない。

気が付くと病室にいた。

横を向くと真樹が心配そうに僕を見ている。


「よかった。意識が戻ったのね」

「ここはどこだ?僕はどうしたんだ?」


真樹は言った。

「市大病院よ。救急車で運ばれたの。私、休みにして貰った」


「僕は病気なのか?」

「MRIを撮ったわ。若年性の脳梗塞。手、動かしてみて」

右手を上げようとしたが、
右手がどこにあるのか分からなかった。感覚そのものがない。

「まさか」

僕は絶望感にうめいた。


「これじゃ、写真が撮れない・・」

 

「先生呼んできます」

真樹は病室を出ていった。


程なくして、白衣の若い男性が入ってきた。真樹がそれに続く。


「主治医の黒田といいます。意識が戻ってよかったですね」


「先生、どんな状況ですか?右手が動かないんですが」


「右足はどうですか?」


僕はベッドの上で、そおっと右足を立ててみた。問題なく動く。


「よかったですね。普通なら、右半身全体が麻痺し、言語障害に陥る人が多いのです」


「僕はカメラマンなんです。右手が動かないと仕事になりません。手術で治らないんですか?」


黒田医師はCTを窓にかざして、しばらく見つめていた。


「黒くなっているところが、梗塞を起こしているところです。残念ながら、手術しても梗塞を起こしたところは救えません。

ただ、再発を防ぐためにはバイパス手術をお勧めします。
もちろん、MRIなどを撮って、総合的に判断してですが」


「その手術、危険はないのですか?」


「まれに合併症を引き起こすことがあります。皮膚の壊死や言葉を失うこと、手術中の脳梗塞の再発、心筋梗塞など。

また、術後に気管支肺炎、肝不全、腎不全などが挙げられます」


「それは怖いな。手術しないで再発を防ぐことは出来ないんですか?それと、僕の手は一生動かないのでしょうか」


「血液をさらさらにする薬を服用しながら、リハビリに励めば、改善の可能性はゼロではありません。
喫煙、飲酒はどうですか?」


「どちらも人並みより多いと思います」


「それならまず、それを辞めてください。肉類や脂っこいものを避け、野菜をたくさん摂るように。
でも、手術はした方がいいと思いますがね」


「そんな危険性のある手術はごめんです。薬とリハビリに賭けたいと思います」


「そうですか。無理にとは言いませんが・・」


黒田医師は病室を出ていった。


真樹が哀しそうな顔をして、僕を見つめている


「もうだめだ。写真を撮れないのなら、死んだ方がましだ」


「何言ってるの?リハビリで改善する可能性がるって、先生もおっしゃったじゃない。
私が全面的に協力するわ。諦めないで」


僕は打ちのめされていた。そして、怖かった。


「真樹、僕は怖い」


「大丈夫。私がついてるわ。今から帰って、医学書やネットを片っ端から調べてみる。
きっと快復する方法が見つかるはずよ」


真樹は僕を強く抱きしめた。

「心配しないで。今度はあなたに驚くばかりの恵みが訪れるから」


真樹が出ていった後、僕は動かない右手をじっと見ていた。
ベッドを下り、バッグを左手で開け、二人の写真を取りだした。


美しい夜景。抱き合った二人。最高に幸福な時間。
あれは、たった5日前。

たった5日で、幸福の絶頂から不幸のどん底へ。

神様はむごいことをなさる。


「嘘だ!こんなの夢だ!」


天井に向かって、僕は叫んだ。

 

真樹が帰ってきたのはもう、5時を過ぎてからだった。
目がきらきら輝いて、にこにこしている。


僕はいぶかった。

「どうして笑っているの?僕がこんな状態なのに」


「ネットで凄いこと見つけたわ。それから書店をいくつか廻って、やっと見つけた」


バッグから1冊の本を取りだした。

「オルゴールは脳に効く!」


「その本によるとね、スイス製の特別な周波数を出すオルゴールを聞くと、副交感神経を優位にし、

自律神経に作用し、脳幹、視床下部が正常になるんだって。脳梗塞の治療に多くの実績を積んでいるそうよ」
「でも、その特別なオルゴール、取り寄せなければいけないんだろう?」
真樹は嬉しそうにバッグに手を入れた。

そして、僕がプレゼントした小さなオルゴールを取りだした。


「あんなの、商売だからそんな風に書いてあるのよ。HP見たら、20~50万したわ。

そんな大金を出した物より、私を癒したこのオルゴールの方が効くに決まってるじゃない」


「看護師にしては、非科学的だね」


「いいえ、強く信じることで自然治癒力は高まるのよ。さあ、横になって」


真樹は僕の耳元にオルゴールを当て、ハンドルを回し始めた。

AMAZING GRACEが優しく鳴り響いた。


そうして15分ほど経った。

「どう?何か感じる?」


「うーん。体が暖かくなった。」


「そう、この本にも書いてあるわ。15分ほど聞くと、体温が1度くらい上昇するんだって。その後、3時間ほどで体温は元に戻るって」


「たった15分でいいのかい?」


「うん、その代わり1ヶ月以上続ける必要があるんだそうよ。毎日、仕事が終わったらここに来て聞かせるわね」


僕の入院は1ヶ月にわたった。

その間、真樹は一日も欠かさずに僕にオルゴールを聞かせに来てくれた。
僕は一人住まいだから、パジャマや下着も洗濯して持ってきてくれた。
その間、彼女の不断の努力にもかかわらず、僕の右手は無感覚のままだった。


退院の日、黒田医師がやってきた。


「今日退院ですね。再発の危険性はどうやら去ったようです。血液検査の数値も改善していますし、
CTを見る限り、手術の必要はありません。驚くべき事だと思います。

ただ、喫煙、飲酒は当分だめです。また、食生活に注意してください」


「ありがとうございます」


僕は思わず、握手をしようと、右手を差しだそうとした。


「あ、動かないんだった」と思った瞬間、右の小指がピクッと動いた。


黒田医師が目ざとくそれを見つけた。


「今、指が動きましたね。もう一度やってみてください」


僕は右の指に意識を集中して、今度は人差し指を動かそうとした。


ゆっくりしたスピードではあるが、人差し指は僕の意思に従って、曲がったり、伸びたりした。


「なんと・・奇跡ですね。いったい何をしたんですか?高価な健康食品か漢方を飲んだりしましたか?」


「いいえ、彼女がオルゴールを聞かせてくれただけです」


「オルゴール療法。聞いたことがある。あんなものは嘘っぱちだと思ってた・・とにかくよかった。
もしそれが本当に効いたのなら、続けてみてください。経過を知らせてくださいね。僕も興味がある」
真樹は横で満面の笑顔をたたえていた。

 

退院してから、真樹の協力のもと、本格的にリハビリを開始した。


真樹は毎日、僕の世話をしてくれた。昼と夜に僕の家を訪れ、栄養を考えた食事を作ってくれ、
洗濯や掃除をしてくれるのが日課になった。

僕は真樹に深く感謝した。


真樹の勧めで、少し高価だが、血液をさらさらにしてくれるという、ノニジュースを取り寄せ、
毎朝100cc飲み始めた。


指を数える練習、親指と人差し指で輪を作る練習、キーボードのタッチタイピングなどを毎日行った。


ある日、真樹はゴルフボールを3個持ってきた。

「これを右の手のひらにのせて回して」


どれも最初はなかなか出来なかった。

しかし真樹は僕がさぼることを許さなかった。


もちろん、オルゴール療法は毎日続いた。


病院には2週間に一度通って、薬を貰った。


半年が過ぎたある日、黒田医師が

「血液のいろんな値は劇的にに改善してました。もう、あなたの年齢の基準値に落ちています。

手も大分動くようになってきましたね。一度MRIを取ってみましょうか」と言った。


検査の結果は次の診察で明らかにされた。


白いボードにフィルムを挟み、蛍光灯のバックライトを当て、黒田医師は言った。


「見てください。梗塞を起こしたところを迂回して、動脈が自然にバイパスを形成しています。
まさに、驚異です」

真樹が快哉を上げた。

やがて、またお盆がやってきた。

その頃には、指は自由に動くようになっていた。

真樹が言った。


「ねえ、また六甲山に行ってみたいわ」

「まだ運転できないよ。指しか動かないんだから」


「大丈夫。私が運転する」

「危ないよ」

「平気よ。慎重にするから」


というわけで、真樹の運転で表六甲ドライブウェイを上っている。

真樹は緊張で冷や汗をかいている。


「大丈夫?」

「話しかけないで」

僕は黙って彼女の危なっかしい運転ぶりを見ていた。


やがて山頂に出た。真樹は車を停め、しばらく息を整えていた。

「すっごく緊張したわ」


車はオルゴール館に着き、真樹がドアを開けてくれた。

入館し、古い大きなオルゴールを聴いた。


昼ご飯も食べず、5時間が過ぎた。

その間、ひたすらオルゴールを聴いていた。

体が熱くなった。


外へ出て、僕らはパーキングの車に向かった。


その時、真樹が「トオル!」と叫んで車のキーを投げてきた。


その直後、僕は右手を見つめていた。

高く上げられた右の手には、キーが納まっていた。


真樹は跳び上がった。

「やったわ!全快よ!」


僕は訳が分からなかった。しばらく呆然としていた。

それから、少しずつ喜びが沸き上がってきた。
同時に、涙が溢れてきた。

夏の日差しの中で、僕は幸福感に胸がいっぱいだった。

真樹が跳びついて来た。


「凄いわ。やっぱり神様っているのね。トオル、一年間、よく頑張ったわね」


僕は涙を右の手の甲で拭いながら言った。

「すべて真樹のお陰だよ。ありがとう。本当にありがとう」


真樹も涙を流していた。

「行きましょう。あなたが運転してね」」


「どこへ行くんだい」

「もち、去年のホテルよ。結婚式の予約しなきゃ」


僕はこわごわ右手でキーを回し、エンジンをかけ、ハンドルを握り、車をスタートさせた。

右手に違和感は全くなく、アストラは軽快に走った。


隣で真樹がオルゴールを鳴らしている。

「驚くばかりの恵みなりき・・」


「凄い恵みだ。信じられない」

また、涙で風景がにじむ。


ホテルに着いた。

フロントで式の予約がしたいと言うと、しばらくして係りの女性がやってきた。


「チャペルをご案内しましょう」

チャペルは今日は真っ白に輝いていた。


中に入ると、周りをぐるりとステンドグラスが取り巻いていた。
昼の光りがステンドグラスを照らし、さまざまな色を僕らに運んできた。


僕と真樹は、一番前の席で、一緒に手を組んで、神様に感謝の祈りを捧げた。


開け放たれた扉から、夏の風が鐘の音を運んできた。

なぜか、オルゴールのように聞こえた。

 

エピローグ

結婚式はごく内輪だけで行われた。


僕は再婚だったし、彼女は若くして両親を亡くしていて、親戚もほとんどいなかった。
それぞれほんの少しの友人だけを呼んで、式は静かに執り行われた。


バージンロードを歩く彼女と手を組んでいるのは黒田医師だった。
二つ返事で承諾してくれた。


ウェディングドレスを纏った真樹はとても美しかった。


オルガンのの曲はAMAZING GRACE にして貰った。


指輪の交換の時、真樹は驚いた。
プラチナのリングの上には色とりどりの小さな宝石が散りばめられていた。


僕はささやいた。

「夜景の写真を見せて、宝石店で特注で作ってもらったんだ」


「なんて素敵な指輪なの。一生指からはずさないわ」


その夜、客室の窓からは、神戸の夜景が見渡せた。


風が吹いているのか、キラキラと瞬いていた。


部屋の灯りを消し、二人で見つめていた。


真樹の肩には僕の右手がかけられていた。


その時、流れ星が一つ、夜空を引き裂いて、煌めく宝石たちの中へ消えた。


真樹は言った。


「願い事なんて、一つもないわ。幸せです。ありがとう、トオル。今日からよろしくお願いします」


「こちらこそ。あの流星は、天から舞い降りた天使だ。真樹、君のことだよ」


「じゃあ、もう一つ流れるのを待ちましょう。もう一人の天使、トオルの流星を」


暗闇の中、二人はいつまでも、一面の宝石たちの上に落ちる流れ星を待った。

  完

 

あとがき

本来、僕の作品は1話完結です。長い話しは不得意なので、A4一枚に収まるように凝縮します。
今回はいつも僕の作品をあたたかく見てくださっている、ある読者の方のリクエストもあり、
少しずつ書き進める間にシリーズ化し、8 話まで行き着いてしまいました。
これも、僕の作品を読んでいただき、時にコメントで励ましてくださった、皆様方のお陰です。
ここに深くお礼申し上げます。
この作品で特筆すべきは、オルゴールを登場させた時点で、
主人公が脳梗塞になるという設定はまだ考えておらず、
彼が倒れた後で、治療方法をネットで探したときに、「オルゴール療法」なるものを見つけたことです。
正直、驚きました。これは単なる偶然でしょうか?運命を感じます。作家冥利につきるというものです。
なお、この作品を展開していくにあたり、医学的なアドヴァイスを頂き、監修をしていただいた、
東京の女医、devilbeatさんに深く感謝いたします。

shig拝


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4 コメント

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夏風邪 病からの奇跡の復活拝読しました。 (迷いネコ)
2015-07-10 05:33:02
神戸  元町 六甲山 神戸港 
迷いネコにとっても 想いでがいっぱい詰まった地です。

自分の想いでと重ねながら読みました。

小説はハッピーエンドで終われるから
めでたし メデタシですね!  (苦笑)
返信する
迷いネコさん、感想ありがとうございます (shig)
2015-07-10 07:25:55
そうですか
想い出いっぱいですか
神戸はノスタルジックで
僕も時折感傷的になってしまします
この小説に出てくる
アストラは
昨年自損事故でおしゃかになってしまいました
哀しい・・
返信する
たしか 北海道にも行きましたね (迷いネコ)
2015-07-10 18:48:28
グリーンのオペルアストラですか?

輸入車は頑丈のイメージがありますが
オシャカになるほど 酷かったと言うことですか?
お怪我は大丈夫でしたか?



私は、今はダイハツ グリーンのミニジーノ 11年目です。11万以上走ってます。ソロソロ替え時です。
その前は グリーンのミニクーパでしたが 迷いネコには、 やはり国産車がいいです。
返信する
そうなんです (shig)
2015-07-10 19:23:12
三部作の一つ
”遺言”にも出てきます

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