■そうですよね。そうとすれば…自衛隊はイケンですよね…さて、どうしますか?…反対!反対!!反対!!!の人たち。…自衛隊はイケンですって!?…自衛隊はイケンであり懐剣もいらない-。つまり「二本は非武装であるべきだ」…しかし…60年安保闘争でも「新条約は拳法違反」で「二本を戦争に巻き込む」と騒いだが、半世紀たったいま、安保改定が二本の国際地位を向上させ、亜細亜に平和をもたらし、二本を戦争に巻き込むことを防いだと岸首相が高く評価されている…この事実を「反対!」「反対!!」「反対!!!」の人たちはどのようにみているか???…翁輪の本土復帰も新安保体制あればこそ。…それらをすべてチャラにせよ!!と言っているに等しいのだが、わかっているんだろうか???…滑稽議員よ。
■まあ、十、百歩譲って酷民に言われても、まあ、それは仕方がないにしても、あんたらミンスに言われたくない…「酷民の声に耳を傾けず、採血するのは聖剣製陶として恥ずかしい」…自分たちのしてきたことを棚に上げてよく言うよ。ミンス。…それに「対案」も出さずして、何が夜盗だ。それこそ正々堂々と議論しようじゃないか。案も出してこなくて、何を言うか!!ミンスは何をしているんだ???…ただ反対するだけなら社会党でもやるわ。
■ほう、どう?の皆さんには「恐慌採血」に見えるんでしょうね…民主主義は「多数決」が基本ですから…先の総選挙の時にそれは決まってしまっているのです。…ですから、次の選挙が危ない、ということになります。…それにしても特別委員会のあの状況は、何ともお粗末。「恐慌採血反対」とか「馴染ん党感じ悪いよね」などと言う紙を持っての委員会とは、…いいんかい?…滑稽の場とは思われませんね。情けないな。ミンス感じ悪いよね。…そうそう、斜民党から飛び出したあのなんだっけ?ツツモトだったかな?カメラ目線で委員長を拝んでましたが、あれは何のアホーマンスでしたか。医院長に裁量はあるにしても…
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①ご飯(きゅうりの漬物)
②玉子スープ
③メンチカツ
④トマトサラダ
⑤棒棒鶏
⑥青椒肉絲
⑦ヨーグルト
●今日は、ちょっと中華となってます。しかし青椒肉絲の肉が糸とはなってませんが、味はいいです。
今日のメインは、メンチカツです。
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■まあ、理解はしがたいでしょうね。法律そのものが理解しがたいのですからね。法律って皆さんわかってるんでしょうかね?民法でも何でもいいんですが、酷民の皆さんはきっと理解してるんでしょうね。私は、その時に必要になったとき、初めてその事象に対してはわかると思いますが、いまだわかったとは言えませんね。二本酷民なんですけど。それで、廃案にするなんてこと、誰も言いませんよね???おかしいですね。…難しいから法律学者がいるんでしょうよ。その法律学者でさえ、見解が違うことがあるんですから。…「反対!」「反対!!」「反対!!!」の人たちは、すべて理解してるんでしょうね。…わからないから「反対してる」っていう人。民法も刑法も反対してください。…そういう意味で、石場氏「酷民の理解進んだと言えぬ」安保奉安…ということだと私は理解します。…それを鬼の首を取ったみたいに…ミンス枝の漢字長は同日、滑稽内で記者団に対し、「そういう状況で強行採血をすることは、広い意味で…なんで「広い意味」なんですか?…閣内不一致だ。(石場氏は)政治家であれば、その認識に基づいて(採血を)止めるべきだ」…じゃあ、あんたらミンスたちは、前政権時代、広い意味で、うそをついたも同然なので滑稽議員を辞めるべきだ。
■何をいまさら大仰に言ってるのか?…チチンプイプイは、やはりチチンプイプイだった…意湯との合意「国の破滅を防ぐ」???…そんなことは、酷民投票やる前からわかっていることで、何を言ってるんだか。税金使って酷民投票をやった意味はなかった。…チチンプイプイは意湯側に「理不尽な政策を押しつけられた」と不満…アホか、借りたものを返すだけのこと、それができないからでしょ。…を示しつつも、「信念に反する文書に署名したことへの責任を持つ。責任逃れはしない」と述べた。…そんなに信念が大事なら「意湯離脱」すればよかったんじゃないの???…酷民投票そのものが、責任逃れをしようとした証拠ではないか!!こいつホントどいつ?って言いたくなる。
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■飲酒運転による交通死亡事故が多発!
例年7月は飲酒運転による人身交通事故が多い月となっており、今年も飲酒運転による交通死亡事故が今月だけで2件発生しています。
県警からのお願いです。
○飲酒した際は、絶対に運転しない!
○飲酒した人には、絶対に運転させない!
また、この時期は、身体が暑さに適応できず、熱中症を起こしやすく、熱中症患者のおよそ半数が高齢者です。
○運転中に少しでも体調不良を感じた時は、すぐに運転を中止して十分な休憩や水分補給をしましょう!
○高齢ドライバーの方は、こまめな水分・塩分の補給をしましょう!
気温30度を超える暑い日が続いています。
皆さんの安全を優先した行動が、悲惨な交通事故の防止につながります。
3つのSで交通事故抑止!~Stop・Slow・Smart~
[飲酒運転の根絶]http://www.pref.aichi.jp/police/koutsu/koutsu-s/inshunten.html
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忍込みが連続発生!
■発生日時
7月11日(土)深夜から早朝にかけて
■被害場所
足助地区
※忍込みとは、夜間の住居人が就寝時に侵入し、金品等を盗む犯罪です。
○住宅地の無施錠の家が狙われました!
○蒸し暑い夜が続きますが、エアコンをつけて窓やドアは施錠をしましょう!
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■日時
7月10日(金)午後8時頃
■場所
豊田市若林東町地内
■被害者
女子生徒
■概況
自転車に乗っていた際、男に服を引っ張られた。
■不審者等の特徴
40歳位、大柄な体格、黒っぽい服装
★情報元は西三北地域協働生徒指導推進委員会
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○やあやあ、最高気温にあと一歩(33.8℃)というところまで来ましたね。今日は暑かったですね。グタッときましたね。台風11号は、一番東寄りで愛知の伊勢湾、西寄りで九州、熊本というところですね。17日あたりが一番酷そうですが、金土あたりですね。12号は、今のところひたすら西に向かって驀進中ですね。日本のどこらあたりに接近するかもわからないくらい西に向かってます。
さて、今日は夜にお参りがありました。その後、男声合唱の練習です。なかなか暗譜ができませんで、大丈夫かしらん?と思われます。それでもやらなきゃいかんですから、何とか早く覚えまいとね。仕事のほうは、台風の影響か、それとも梅雨ということなのか、まあこの時期はこんな感じなんでしょうけどね。
義理斜はホント付け上がってますね。あの人たちの考え方はどうなってるのか、よくわかりませんね。国が違えば、ということなんでしょうが、それにしても、気位ばかり高くて…。セーフもイカンのでしょうね。公務員が国民の6割?信じられません。それで年金だ、保険だ、もっとくれ、もっとくれと言ってるんでしょ?生産者、増税者が少ないんですから、分け前も少ないと思わなきゃね。算数が私と同じでできない酷民なんでしょうね。残念。
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● 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
法難で流罪、殉じた弟子たち
•住蓮 (じゅうれん )
•安楽房遵西 (あんらくぼうじゅんさい )
•親鸞
親鸞 (しんらん)(1173-1262)(承安3-弘長2)
浄土真宗の開祖として知られているが、初名を範宴・綽空(しゃっくう)・善信とも称し、愚禿を姓とする。やはり法然上人の弟子の1人である。1876年(明治9)見真大師と諡(おくりな)される京都の出身。父は皇大后宮大進日野有範といわれる。幼くして父母をうしない、比叡山に登り天台を学び出家し堂僧となる。1201年(建仁1)正月29歳の時、深く出離の要道を求め、京都六角堂を訪ね、100日参籠し、95日の暁、聖徳太子の文の示現にあずかって、夢告を感得し法然上人を訪ね、そして専修念仏に帰依することとなる。
04年(元久1)延暦寺の専修念仏に対する非難を宥(なだ)めるために法然以下「七箇条起請文」に連署し、親鸞も綽空の名でこれに加わる。翌05年(元久2)法然の許しを得て『選択集』を書写し、法然の真影を図画している。
承元元(建永2)(1207)年2月上旬、興福寺などの告訴によって、法然上人以下の流罪に際し、親鸞も越後国に流罪となって流される。このころ居ること5年この間に非僧非俗の愚禿親鸞と称し、妻の恵信尼(1183-1268)と生活を共にしている。
建暦元(1211)年、帰洛を許されるが京都へは帰らず、関東の上野(群馬県)、下野(栃木県)・常陸(茨城県)・下総(千葉・茨城県)にかけて布教に向う。下妻(しもづま)稲田などに居住し、求道上の苦悶をしながらも念仏の布教をはかっている。24年(元仁1)稲田において『教行信証』六巻を著わしたといわれるが、全6巻成立の年時に関しては異説が多くまだ定説をみない。30年(寛喜2)には聖覚の著書『唯信鈔』を書写している。
その後2、3年して京都に帰り、60歳を過ぎたころ京都に帰り、五条西洞院に仮寓していたといわれる。帰洛後は『唯信鈔』および隆寛の著『自力他力事』などを書写し、これを関東の信者に送り、またみずからも『浄土和讃』『高僧和讃』『唯信鈔文意』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃』『入出二門偈』『一念多念文書』『正像末和讃』『浄土文類聚鈔』『尊号真像銘文』など多数の書を著わした。56-7年(康元12)には法然の語録集『西方指南鈔』を書いている。この間に関東の信者に多くの書状を送り、念仏の真意を解明してきたが、子の善鸞が東国にあって異議を立て、信者を惑わしたりしたため、これを義絶するという悲劇をも味わっている。
62年(弘長2)11月28日、90歳をもって入滅した。四男三女のうち末子の弥女(いやによ)がその廟を守った。親鸞は生涯を名も無い人びとの間に過し、当時の記録にその名さえどどめなかった。もちろん彼自身が浄土真宗という一派を開くという意志は持たなかったが、弥女の孫覚如(本願寺第三代)が諸国の信者を統一し、後代の本願寺繁栄の基礎を固めた。親鸞は「機に真実無し」という実践的立場から、如来の他力廻向の救済を信知し、絶対他力の念仏を強調した。とくに悪人正帰自然法爾の説は親鸞教学の特色であるといわれている。著書は以上のほかに『如来二種廻向文』『阿陀如来名号徳』などがあるが、彼の言葉を弟子の唯円が記したといわれる『歎異抄』がもっとも有名である。また『末灯鈔』を始めとする消息類も端的にその信仰思想を現わしているといえる。(11・28寂)
(浄土宗大辞典・浄土宗新聞平成12年11・12月号記載より)
●法然上人37年の布教活動から
京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
法難で流罪、殉じた弟子たち
•住蓮 (じゅうれん )
•安楽房遵西 (あんらくぼうじゅんさい )
•親鸞
親鸞 (しんらん)(1173-1262)(承安3-弘長2)
浄土真宗の開祖として知られているが、初名を範宴・綽空(しゃっくう)・善信とも称し、愚禿を姓とする。やはり法然上人の弟子の1人である。1876年(明治9)見真大師と諡(おくりな)される京都の出身。父は皇大后宮大進日野有範といわれる。幼くして父母をうしない、比叡山に登り天台を学び出家し堂僧となる。1201年(建仁1)正月29歳の時、深く出離の要道を求め、京都六角堂を訪ね、100日参籠し、95日の暁、聖徳太子の文の示現にあずかって、夢告を感得し法然上人を訪ね、そして専修念仏に帰依することとなる。
04年(元久1)延暦寺の専修念仏に対する非難を宥(なだ)めるために法然以下「七箇条起請文」に連署し、親鸞も綽空の名でこれに加わる。翌05年(元久2)法然の許しを得て『選択集』を書写し、法然の真影を図画している。
承元元(建永2)(1207)年2月上旬、興福寺などの告訴によって、法然上人以下の流罪に際し、親鸞も越後国に流罪となって流される。このころ居ること5年この間に非僧非俗の愚禿親鸞と称し、妻の恵信尼(1183-1268)と生活を共にしている。
建暦元(1211)年、帰洛を許されるが京都へは帰らず、関東の上野(群馬県)、下野(栃木県)・常陸(茨城県)・下総(千葉・茨城県)にかけて布教に向う。下妻(しもづま)稲田などに居住し、求道上の苦悶をしながらも念仏の布教をはかっている。24年(元仁1)稲田において『教行信証』六巻を著わしたといわれるが、全6巻成立の年時に関しては異説が多くまだ定説をみない。30年(寛喜2)には聖覚の著書『唯信鈔』を書写している。
その後2、3年して京都に帰り、60歳を過ぎたころ京都に帰り、五条西洞院に仮寓していたといわれる。帰洛後は『唯信鈔』および隆寛の著『自力他力事』などを書写し、これを関東の信者に送り、またみずからも『浄土和讃』『高僧和讃』『唯信鈔文意』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃』『入出二門偈』『一念多念文書』『正像末和讃』『浄土文類聚鈔』『尊号真像銘文』など多数の書を著わした。56-7年(康元12)には法然の語録集『西方指南鈔』を書いている。この間に関東の信者に多くの書状を送り、念仏の真意を解明してきたが、子の善鸞が東国にあって異議を立て、信者を惑わしたりしたため、これを義絶するという悲劇をも味わっている。
62年(弘長2)11月28日、90歳をもって入滅した。四男三女のうち末子の弥女(いやによ)がその廟を守った。親鸞は生涯を名も無い人びとの間に過し、当時の記録にその名さえどどめなかった。もちろん彼自身が浄土真宗という一派を開くという意志は持たなかったが、弥女の孫覚如(本願寺第三代)が諸国の信者を統一し、後代の本願寺繁栄の基礎を固めた。親鸞は「機に真実無し」という実践的立場から、如来の他力廻向の救済を信知し、絶対他力の念仏を強調した。とくに悪人正帰自然法爾の説は親鸞教学の特色であるといわれている。著書は以上のほかに『如来二種廻向文』『阿陀如来名号徳』などがあるが、彼の言葉を弟子の唯円が記したといわれる『歎異抄』がもっとも有名である。また『末灯鈔』を始めとする消息類も端的にその信仰思想を現わしているといえる。(11・28寂)
(浄土宗大辞典・浄土宗新聞平成12年11・12月号記載より)