雑記帳

豊田市在住 あきたんの日記風ブログ 様々なジャンルのブログです。

今日のお弁当

2015-07-29 13:34:58 | 今日の食べ物
 今日のお弁当は…
①ご飯(きゅうりの漬物)
②玉子スープ
③サラダ(トマト)
④フライドチキン
⑤ナスの肉味噌
⑥バナナとコーン
⑦和菓子
●今日は、結構てんこ盛りみたいな感じになってます。和菓子も幾種類か入ってます。
今日のメインは、フライドチキンです。
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それは正解!?…ほう、どう?

2015-07-29 11:09:39 | 報道
■新国立、開閉屋根を断念…これは正解かもしれない…なぜなら…豊田市のサッカー場は開閉式屋根であるが…設計は建築家・黒川紀章…2015年度以降は、原則として屋根を開けたままとすることとなった。これは屋根の修繕費や維持費が、2032年度までに約109億円がかかるとしており、2015年度からは経費削減の一環として屋根を原則開けるとしており、開閉屋根の撤去も検討しているとされている…という事情から、開閉式屋根にはまだまだ解決しなければならない問題が多そうである。したがって…新国立、開閉屋根を断念。これは正解かもしれない。
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対案なし…民主問う。

2015-07-29 10:46:59 | 報道
■ミンスは、対案なし、で行くことに決めたのだ…大体が「廃案」を目的としているのだから、まあ、それでいいじゃないですか?…(ミンスの声);「どうせ滑稽内では数で負けてるんだから、何をどう言おうが関係ないよね」…しかし、こうした態度、言葉が後になって自分たちに帰ってくるということを学習してない愚かさ加減には、あきれてものが言えない。…いずれ、聖剣復帰するんでしょ?そしたら、聖剣時と同じ感覚で物事を進めていかなくては、「社会党」になってしまいます。…もう、このあたりですと「自暴自棄」に見えてしまいます。…哀れなるかな、哀れなるかな。
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なんか感じ悪いよね…ほう、どう?

2015-07-29 10:37:55 | 報道
■そんなにいるわけない…10万人…「参加者10万人」はあくまで主催者の発表。日本一のテーマパーク、京東デズニーラントの2日間分の入場客数に相当する数。それだけの人が、どうやって滑稽周辺の幅数メートルの歩道に集結できるのだろうか???…京東新聞は16日付の1面に国会前に集まったデモ参加者の写真とともに「人、人、人。抗議深夜まで。『闘いの始まり』」という見出しの記事を掲載。「最初二万五千人だった主催者発表の参加者数は、やがて六万人、十万人と増えた」と報じたが。…大嘘もいいところ。それに若者も高齢者も多くいたというが、深夜まで徘徊してて大丈夫か?…旭なんかは…「『民主主義って何なんだ』。抗議の意思を示そうと、人波が国会前へ向かい、その輪は各地に広がった」???よくわからん表現だ。もう文学的でさえある。これが新聞報道とは、情けない。事実を事実として報道できない新聞というのなら別だが。…ああ、旭はね。旭は…そして、そこに投手が現れたり、自分の主義主張のないツツモトがいたりとか…まあ、夏休みで学生さんたちもお暇なんでしょうね。なんかのパーティと間違えてるんじゃないの?そこでは、高齢者との交流もあったんでしょうね。楽しそうですね。深夜までやってたといいますからね。非日常空間が広がりましたね。…もう、むちゃくちゃですね。写真見ると、ミンス、凶産塔、斜民党の旗が一緒になってはためいている。…やはり、彼らには主義主張はないんですね。…「反対のための反対」か…敵の敵は味方、みたいな感じでしょうか?主義主張、ないね。いっそのこと、滑稽議事堂内の席順もバラバラにしたら???
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2015.07.28(火)

2015-07-29 04:01:58 | 日記
 34.7℃( 25.7℃)
○きましたね、熱帯夜。昼間の暑さも相当なんですけど、夜が寝苦しいのは何ともなりませんよね。そろそろ台風が発生してませんかね?無いようですね。今後1週間はずっとこの調子のようですね。35℃‐25℃ですから、体調管理、水分補給は絶対ですね。気を付けましょう。
さて、今日はライオンズクラブ国際会長就任祝賀会へ出席しました。参加人数は1300人だそうで、会場はいっぱいでした。ライオンズクラブは、まずは「入場」から入りますね。まあ、他もそうですか。3部構成で、1・2部は参加してきましたが、3部(食事会)はお参りのため参加してません。ウェスティンまで単車で行きまして、時間はおよそ70分くらいでしょうか。まあまあの時間で行くことができました。今回は道に迷うということはありませんでしたので、すんなりと行けました。腕時計もしていきまして、腰にはペットボトル(熱中症対策)下げて、万全の態勢?で行きました。でも、街中で一本道間違えまして、混んでる道をわざわざ選んでしまったようなかっこうでした。事前に調べたんですけどね。夜は、お参りがありました。ですので、5時15分くらいに向こうを出まして、着いたのが6時半くらい。時間的に混雑の時間帯でしたか。単車ですからまあまあの時間で来ることができたというところでしょう。
  

 今日の記念日
「菜っ葉の日」。7+28=な・つ・ぱの語呂合せから設けられた日。8月31日の《野菜の日》とともに、野菜の消費拡大を目的としている。キャベツ、レタス、ほうれん草などの菜っ葉を食べて酷暑を乗り切ろうというもの。
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今日の万歩計

2015-07-29 03:46:26 | 今日の万歩計
 今日の万歩計は…
①14024歩
②11.2K
③497Kcal
●今日は、かなりいい線まで行きましたね。もうあと1周?ってところですよね。
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浄土宗 61

2015-07-29 03:42:16 | 宗教
 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
 京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
 ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
 そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
 その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
●隆寛(りゅうかん)
•成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
•正信房(聖信房)湛空(たんくう)
•覚明房長西(ちょうさい)
•蓮寂房信慧(しんえ)
•記主良忠(きしゅりょうちゅう)
•然空(ねんくう)
•良空(りょうくう)
•道光(どうこう)
•良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●隆寛(りゅうかん)字は皆空(また道空)無我といった。1148-1227(久安-安貞1)
 法然上人の門弟、多念義を唱えた人。また長楽寺流の祖。京都の人。少納言藤原資隆の子。幼少のころ比叡山に登り横川戒心谷知見坊に住み、伯父功徳院皇円について天台を学び、ついで皇円の実兄範源について椙生流の相伝をうけた。
 のち粟田青蓮院の慈円に勤仕した。慈円と隆寛とは和歌を通じ慈円の『拾玉集』に隆寛の名がよく見出される。戒系では権律師であるけれども青蓮院の記録は学階已講とあるから青蓮院では学僧として優れていた。
 隆寛が法然に入門した年代は明らかではないが次第に法然の教えにひかれて、1204年(元久1)3月14日小松殿の裏堂で『選択集』を伝授された。それから尊性昇蓮に助筆させ26日書写しおおって返書。
 『勅伝』四四によると1192年(建久2)各堂衆が退けられ衆徒によって安居が行なわれ衆議によって隆寛が唱導に迎えられ、法然の弟子という理由で一部反対があったが、抜群の栄誉を得たとある。ただし、年時に誤りがあって1208年(承元2)ころと考えられる。
  隆寛署『弥陀本願義』の附記の中で100日の本願義を講じたとあり、60歳ころで乗輿が許されたことと一致する。隆寛は1207年(同1)の法然配流後もなお青蓮院に勤めていたことは1208年(同2)7月23日の如法経に勤仕していることで知られる。
 法然が広谷から大谷へ移された中ノ坊は、弟子感西に譲られたが感西は早逝したため、流罪と定まると借地謝礼として青蓮院に寄付され、青蓮院ではこれを宇治知恩院一部坊舎を移建した知恩坊とをあわせて隆寛親子の住房とさせたようである。
 法然は老齢の流罪だったので都ヘ帰るとは予想もしなかったが、赦免(1211年)になったところ、中ノ房はすでに隆寛一族が使用中であったので、別に青蓮院の空房、法楽寺を借用し、入滅した。隆寛は法然滅後57日3月1日に導師をつとめた。
 そののち法性寺空阿弥陀仏が画家信実に描かせた法然像に隆寛は自ら筆をとって賛文を書き、もとの法然の住房、中ノ坊にかかげて念仏した。毎月25日の命日には参詣者が群をなしたとある。
 承久の乱がおわると、後烏羽・順徳・土御門の三帝は遠国へ遷され、後鳥羽天皇の第四皇子六条宮雅成親王は北条義時のために但馬へ遷された。雅成から称名念仏の用心など三箇条の疑問を示された隆寛はそれに答を送った。
 25年(元仁2)天台定昭(一説宝地房証真の弟子定真ともいう)が、法然の『選択集』を反駁して『弾選択』を著わした。隆寛はそれを反撃して『顕選択』を著わし、激しく論難した。 それを隆寛の弟子岡本の迎運が関東へ行って披露し隆寛の説が正しく立派だという噂が立ったので、関東の天台学者は大いに驚き怒リ、両書を比叡山延暦寺へ送った。のち両書はあるいは太政大臣西園寺公経に進覧させ取りあげられ世に出されなかったようである。
 全山の碩学、一山の衆徒は大いに蜂起して朝廷へ強訴したので、朝廷は喧嘩になることを恐れて、専修念仏停止の綸旨を座主に伝えた。
 専修念仏の張本として隆寛・幸西・空阿弥陀仏を遠国追放と定められ、隆寛は陸奥へ、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国と定められたが、 隆寛は27年(嘉禄2)7月5日長楽寺来迎房で別時念仏を修し、80歳の老齢で、幕吏森入道西阿に率られたが、途中西阿は隆寛に帰依し、陸奥ヘは代理突成房を遣わし、途次遠江国国府で禅勝房(岩田郡見付蓮華寺)を訪れ、相互に再会を喜び、また離別に感涙した。
 鎌倉で相模四郎北条朝直(22歳)を教化し、8月1日飯山(厚木)に着き、12月13日午後4時ごろ端座合掌、高声念仏二百余遍『往生礼讃』の『弥陀身色如金山』の文を唱えて寂した。
 隆寛はしばしば霊異を感じ、三味発得したことは著書に見られる。隆寛には諸系譜によると多くの門弟があったが、いつのころか絶滅した。 著書には『弥陀本願義(四十八願義)』四巻『具三心義』二巻『一念多念分別事』『顕選択』(来伝)、『念仏同法要記』『自カ他カ事】『得生西方義』『善導十徳鈔』『知恩講私記』『別時念仏講私記』各一巻、『散善義問答』『極楽浄土宗義』『念仏得失義』『滅罪却数親』若干巻、また『捨子問答』『閑亭後世物語』二巻は師の法語を録したもの。(12・13寂)
*参考『明義進行集』『勅伝』四四、平井正戒『隆寛律師の浄土教附遺文集』、石橋誡道『隆寛律師の教義と三心思想の展開』(日仏年報一三)、三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』。
(浄土宗大辞典より)
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ライオンズクラブ国際協会Dr.J.Yamada国際会長就任祝賀会

2015-07-29 03:30:46 | ライオンズ・JC・Eクラブ
 14:00-17:00 ウェスティンナゴヤキャッスル
◇今日の内容は…
・国際会長ご夫妻入場
≪第1部≫
ハンガリーリスト音楽院コンサート
山田實紘国際会長と〝命の尊厳と和″
≪第2部≫
①開会のことば
②歓迎のあいさつ
③来賓あいさつ
④祝電披露
⑤国際会長スピーチ
⑥ローア
⑦閉会のことば
≪第3部≫
①開会のことば
②ホストクラブ会長感謝の辞
③乾杯~WE SERVE~
④閉会のことば
・国際会長ご夫妻退場
 
  国際会長ご夫妻入場
  コンサート
   国際会長スピーチ
 ローア
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