● 浄土宗
◇選択集について
選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。
【選擇本願念佛集】
法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
○第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
「第一 聖道浄土二門篇」
道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文
『安楽集』の上に云く、問うて曰く、一切衆生は皆仏性有り。遠劫より以来まさに多仏に値えるなるべし。何に因ってか今に至るまで、なお自ら生死に輪廻して、火宅を出でざるや。答えて曰く、大乗の聖教に依るに、良に二種の勝法を得て、以て生死を排はざるに由る。ここを以て火宅を出でざるなり。何をか二と為す。一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。
その聖道の一種は、今の時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理は深く解は微なるに由る。この故に『大集月蔵経』に云く、「我が末法の時の中に、億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るもの有らじ」。当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有って通入すべき路なり。この故に『大経』に云わく、「もし衆生有って、たとい一生悪を造るとも、命終の時に臨んで、十念相続して、我が名字を称せんに、もし生ぜずば正覚をとらじ」と。
またまた一切の衆生はすべて自ら量らず。もし大乗に據らば、真如実相第一義空、かつていまだ心を惜かず、もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、乃至那含羅漢に、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問うこと無く、いまだその分有らず、たとい人天の果報有れども、皆五戒十善に為って、能くこの報を招く。然るに持ち得る者は、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、何ぞ暴風駛雨に異ならん。ここを以て諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしむ。たとい一形悪を造るともただ能く意を繋けて、専精に常に能く念仏すれば、一切の諸障、自然に消除して、定んで往生を得。何ぞ思量せずして、すべて去る心無きや。
私に云く、密に計れば、それ立教の多少は宗に随って不同なり。且く有相宗のごときは、三時教を立てて一代の聖教を判ず。いわゆる有・空・中これなり。無相宗のごときは、二蔵教を立てて以て一代の聖教を判ず。いわゆる菩薩蔵・声聞蔵これなり。華厳宗のごときは、五教を立てて一切の仏教を摂す。いわゆる小乗教・始教・終教・頓教・円教これなり。法華宗のごときは、四教五味を立てて以て一切の仏教を摂す。四教とはいわゆる蔵・通・別・円これなり。五味とはいわゆる乳・酪・生・熟・醍醐これなり。真言宗のごときは、二教を立てて一切を摂す。いわゆる顕教・密教これなり。
今この浄土宗は、もし道綽禅師の意に依らば二門を立てて一切を摂す。いわゆる聖道門・浄土門これなり。
問うて曰く、それ宗の名を立てることは本、華厳・天台等の八宗九宗に在り。いまだ浄土の家において、その宗の名を立てることを聞かず。然るに今、浄土宗と号すること何の証拠有るや。答えて曰く、浄土の宗の名その証一に非ず。元暁の『遊心安楽道』に云く、「浄土宗の意は本、凡夫の為にし兼ねて聖人の為にす」と。また慈恩の『西方要決』に云く、「この一宗に依る」と。また迦才の『浄土論』に云く、「この一宗、密かに要路たり」と。その証かくのごとし。疑端に足らず。
ただし諸宗の立教は正しく今の意に非ず。且く浄土宗に就いて、略して二門を明さば、一には聖道門、二には浄土門なり。
初めに聖道門とは、これに就いて二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就いて顕密権実等の不同有りといえども、今この『集』の意はただ顕大および権大を存ず。故に歴劫迂廻の行に当る。これに準じてこれを思うに、まさに密大および実大を存すべし。然ればすなわち今、真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論これらの八家の意、正しくここに在り。まさに知るべし。次に小乗とは、すべてこれ小乗の経律論の中に明す所の声聞・縁覚・断惑証理入聖得果の道なり。上に準じてこれを思うに、また倶舎・成実・諸部の律宗を摂すべきのみ。およそこの聖道門の大意は、大乗および小乗を論ぜず、この娑婆世界の中において、四乗の道を修して、四乗の果を得るなり。四乗とは、三乗の外に仏乗を加う。
次に往生浄土門とは、これに就て二有り。一には正に往生浄土を明すの教、二には傍に往生浄土を明すの教なり。初めに正に往生浄土を明すの教とは、謂く三経一論これなり。三経とは一には『無量壽経』、二には『観無量壽経』、三には『阿弥陀経』なり。一論とは天親の『往生論』これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。
問うて曰く、三部経の名、またその例有りや。答えて曰く、三部経の名その例一に非ず。一には法華の三部、謂く『無量義経』・『法華経』・『普賢観経』これなり。二には大日の三部、謂く『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』これなり。三には鎮護国家の三部、謂く『法華経』・『仁王経』・『金光明経』これなり。四には弥勒の三部、謂く『上生経』・『下生経』・『成仏経』これなり。今はただこれ弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づく。弥陀の三部とはこれ浄土正依の経なり。
次に傍に往生浄土を明すの教とは、『華厳』・『法華』・『隨求』・『尊勝』等の、諸の往生浄土の行を明すの諸経これなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等の、諸の往生浄土の行を明すの諸論これなり。
およそこの『集』の中に、聖道浄土の二門を立る意は、聖道を捨てて、浄土門に入らしめんが為なり。これに就いて二つの由有り。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。この宗の中に二門を立てることは、独り道綽のみに非ず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等の諸師、皆この意有り。
且く曇鸞法師の『往生論の註』に云く、「謹んで案ずるに、龍樹菩薩の『十住毘婆沙』に云く、菩薩阿毘跋致を求めるに、二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。難行道とは、謂く五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求めるを難とす。この難にすなわち多途有り。ほぼ五三を言いて、以て義意を示さん。一には外道の相善、菩薩の法を乱る。二には声聞の自利、大慈悲を障う。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顛倒の善果、能く梵行を壊す。五にはただこれ自力にして他力の持無し。かくのごとき等の事、目に触れて皆、是なり。譬えば陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。易行道とは、謂くただ信仏の因縁を以て、浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて、すなわち彼の清浄の土に往生することを得。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入らしむ。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。譬えば水路の乗船はすなわち楽しきがごとし」。已上
このなかに難行道とはすなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり。難行・易行と、聖道・浄土と、そのことば異なりといえども、その意これ同じ。天台・迦才これに同じ。まさに知るべし。
また『西方要決』に云く、「仰ぎ惟れば、釈迦、運を啓いて、弘く有縁を益す。教、随方に闡けてならびに法潤に霑う。親り聖化に逢えるは、道、三乗を悟りき。福薄く因疎なるは、勧めて浄土に帰せしむ。この業を作す者は、専ら弥陀を念じ、一切の善根、回して彼の国に生ず。弥陀の本願、誓って娑婆を度したまう。上現生の一形を尽くし、下臨終の十念に至るまで、ともに能く決定して、皆往生を得」。已上
また同じき後序に云く、「それ以れば、生れて像季に居して、聖を去ることこれ遙かなり。道、三乗に預かれども、契悟するに方無し。人天の両位は、躁動にして安からず。智博く、情弘きは、能く久しく処するに堪えたり。もし識癡に、行浅きは、恐らくは幽途に溺れん。必ずすべからく跡を娑婆に遠ざけ心を浄域に栖ましむべし」。已上
この中に三乗とはすなわちこれ聖道門の意なり。浄土とはすなわちこれ浄土門の意なり。三乗浄土と、聖道浄土とは、その名異なりといえども、その意また同じ。浄土宗の学者、まずすべからくこの旨を知るべし。たとい先に聖道門を学せる人といえども、もし浄土門において、その志有らば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。例せば彼の曇鸞法師は、四論の講説を捨てて、一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いて、偏に西方の行を弘めしがごとし。上古の賢哲なお以てかくのごとし。末代の愚魯、むしろこれに遵わざらんや。
問うて曰く、聖道家の諸宗、各師資相承有り。謂く、天台宗のごときは慧文・南嶽・天台・章安・智威・慧威・玄朗・湛然、次第相承す。真言宗のごときは、大日如来・金剛薩(タ=土+垂)・龍樹・龍智・金智・不空、次第相承す。自余の諸宗、また各相承の血脈有り。而るに今言う所の浄土宗に、師資相承血脈の譜有りや。答えて曰く、聖道家の血脈のごとく、浄土宗にもまた血脈有り。ただし浄土一宗において、諸家また同じからず。いわゆる廬山の慧遠法師と、慈愍三蔵と、道綽・善導等とこれなり。今且く道綽・善導の一家に依って、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説有り。
一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師なり。 已上『安楽集』に出づ
二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善道禅師・懐感法師・小康法師なり。 已上『唐宋両伝』に出づ
◇選択集について
選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。
【選擇本願念佛集】
法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
○第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
「第一 聖道浄土二門篇」
道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文
『安楽集』の上に云く、問うて曰く、一切衆生は皆仏性有り。遠劫より以来まさに多仏に値えるなるべし。何に因ってか今に至るまで、なお自ら生死に輪廻して、火宅を出でざるや。答えて曰く、大乗の聖教に依るに、良に二種の勝法を得て、以て生死を排はざるに由る。ここを以て火宅を出でざるなり。何をか二と為す。一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。
その聖道の一種は、今の時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理は深く解は微なるに由る。この故に『大集月蔵経』に云く、「我が末法の時の中に、億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るもの有らじ」。当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有って通入すべき路なり。この故に『大経』に云わく、「もし衆生有って、たとい一生悪を造るとも、命終の時に臨んで、十念相続して、我が名字を称せんに、もし生ぜずば正覚をとらじ」と。
またまた一切の衆生はすべて自ら量らず。もし大乗に據らば、真如実相第一義空、かつていまだ心を惜かず、もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、乃至那含羅漢に、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問うこと無く、いまだその分有らず、たとい人天の果報有れども、皆五戒十善に為って、能くこの報を招く。然るに持ち得る者は、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、何ぞ暴風駛雨に異ならん。ここを以て諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしむ。たとい一形悪を造るともただ能く意を繋けて、専精に常に能く念仏すれば、一切の諸障、自然に消除して、定んで往生を得。何ぞ思量せずして、すべて去る心無きや。
私に云く、密に計れば、それ立教の多少は宗に随って不同なり。且く有相宗のごときは、三時教を立てて一代の聖教を判ず。いわゆる有・空・中これなり。無相宗のごときは、二蔵教を立てて以て一代の聖教を判ず。いわゆる菩薩蔵・声聞蔵これなり。華厳宗のごときは、五教を立てて一切の仏教を摂す。いわゆる小乗教・始教・終教・頓教・円教これなり。法華宗のごときは、四教五味を立てて以て一切の仏教を摂す。四教とはいわゆる蔵・通・別・円これなり。五味とはいわゆる乳・酪・生・熟・醍醐これなり。真言宗のごときは、二教を立てて一切を摂す。いわゆる顕教・密教これなり。
今この浄土宗は、もし道綽禅師の意に依らば二門を立てて一切を摂す。いわゆる聖道門・浄土門これなり。
問うて曰く、それ宗の名を立てることは本、華厳・天台等の八宗九宗に在り。いまだ浄土の家において、その宗の名を立てることを聞かず。然るに今、浄土宗と号すること何の証拠有るや。答えて曰く、浄土の宗の名その証一に非ず。元暁の『遊心安楽道』に云く、「浄土宗の意は本、凡夫の為にし兼ねて聖人の為にす」と。また慈恩の『西方要決』に云く、「この一宗に依る」と。また迦才の『浄土論』に云く、「この一宗、密かに要路たり」と。その証かくのごとし。疑端に足らず。
ただし諸宗の立教は正しく今の意に非ず。且く浄土宗に就いて、略して二門を明さば、一には聖道門、二には浄土門なり。
初めに聖道門とは、これに就いて二有り。一には大乗、二には小乗なり。大乗の中に就いて顕密権実等の不同有りといえども、今この『集』の意はただ顕大および権大を存ず。故に歴劫迂廻の行に当る。これに準じてこれを思うに、まさに密大および実大を存すべし。然ればすなわち今、真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論これらの八家の意、正しくここに在り。まさに知るべし。次に小乗とは、すべてこれ小乗の経律論の中に明す所の声聞・縁覚・断惑証理入聖得果の道なり。上に準じてこれを思うに、また倶舎・成実・諸部の律宗を摂すべきのみ。およそこの聖道門の大意は、大乗および小乗を論ぜず、この娑婆世界の中において、四乗の道を修して、四乗の果を得るなり。四乗とは、三乗の外に仏乗を加う。
次に往生浄土門とは、これに就て二有り。一には正に往生浄土を明すの教、二には傍に往生浄土を明すの教なり。初めに正に往生浄土を明すの教とは、謂く三経一論これなり。三経とは一には『無量壽経』、二には『観無量壽経』、三には『阿弥陀経』なり。一論とは天親の『往生論』これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。
問うて曰く、三部経の名、またその例有りや。答えて曰く、三部経の名その例一に非ず。一には法華の三部、謂く『無量義経』・『法華経』・『普賢観経』これなり。二には大日の三部、謂く『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』これなり。三には鎮護国家の三部、謂く『法華経』・『仁王経』・『金光明経』これなり。四には弥勒の三部、謂く『上生経』・『下生経』・『成仏経』これなり。今はただこれ弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づく。弥陀の三部とはこれ浄土正依の経なり。
次に傍に往生浄土を明すの教とは、『華厳』・『法華』・『隨求』・『尊勝』等の、諸の往生浄土の行を明すの諸経これなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等の、諸の往生浄土の行を明すの諸論これなり。
およそこの『集』の中に、聖道浄土の二門を立る意は、聖道を捨てて、浄土門に入らしめんが為なり。これに就いて二つの由有り。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。この宗の中に二門を立てることは、独り道綽のみに非ず。曇鸞・天台・迦才・慈恩等の諸師、皆この意有り。
且く曇鸞法師の『往生論の註』に云く、「謹んで案ずるに、龍樹菩薩の『十住毘婆沙』に云く、菩薩阿毘跋致を求めるに、二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。難行道とは、謂く五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求めるを難とす。この難にすなわち多途有り。ほぼ五三を言いて、以て義意を示さん。一には外道の相善、菩薩の法を乱る。二には声聞の自利、大慈悲を障う。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顛倒の善果、能く梵行を壊す。五にはただこれ自力にして他力の持無し。かくのごとき等の事、目に触れて皆、是なり。譬えば陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。易行道とは、謂くただ信仏の因縁を以て、浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて、すなわち彼の清浄の土に往生することを得。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入らしむ。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。譬えば水路の乗船はすなわち楽しきがごとし」。已上
このなかに難行道とはすなわちこれ聖道門なり。易行道とは、すなわちこれ浄土門なり。難行・易行と、聖道・浄土と、そのことば異なりといえども、その意これ同じ。天台・迦才これに同じ。まさに知るべし。
また『西方要決』に云く、「仰ぎ惟れば、釈迦、運を啓いて、弘く有縁を益す。教、随方に闡けてならびに法潤に霑う。親り聖化に逢えるは、道、三乗を悟りき。福薄く因疎なるは、勧めて浄土に帰せしむ。この業を作す者は、専ら弥陀を念じ、一切の善根、回して彼の国に生ず。弥陀の本願、誓って娑婆を度したまう。上現生の一形を尽くし、下臨終の十念に至るまで、ともに能く決定して、皆往生を得」。已上
また同じき後序に云く、「それ以れば、生れて像季に居して、聖を去ることこれ遙かなり。道、三乗に預かれども、契悟するに方無し。人天の両位は、躁動にして安からず。智博く、情弘きは、能く久しく処するに堪えたり。もし識癡に、行浅きは、恐らくは幽途に溺れん。必ずすべからく跡を娑婆に遠ざけ心を浄域に栖ましむべし」。已上
この中に三乗とはすなわちこれ聖道門の意なり。浄土とはすなわちこれ浄土門の意なり。三乗浄土と、聖道浄土とは、その名異なりといえども、その意また同じ。浄土宗の学者、まずすべからくこの旨を知るべし。たとい先に聖道門を学せる人といえども、もし浄土門において、その志有らば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。例せば彼の曇鸞法師は、四論の講説を捨てて、一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いて、偏に西方の行を弘めしがごとし。上古の賢哲なお以てかくのごとし。末代の愚魯、むしろこれに遵わざらんや。
問うて曰く、聖道家の諸宗、各師資相承有り。謂く、天台宗のごときは慧文・南嶽・天台・章安・智威・慧威・玄朗・湛然、次第相承す。真言宗のごときは、大日如来・金剛薩(タ=土+垂)・龍樹・龍智・金智・不空、次第相承す。自余の諸宗、また各相承の血脈有り。而るに今言う所の浄土宗に、師資相承血脈の譜有りや。答えて曰く、聖道家の血脈のごとく、浄土宗にもまた血脈有り。ただし浄土一宗において、諸家また同じからず。いわゆる廬山の慧遠法師と、慈愍三蔵と、道綽・善導等とこれなり。今且く道綽・善導の一家に依って、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説有り。
一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師なり。 已上『安楽集』に出づ
二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善道禅師・懐感法師・小康法師なり。 已上『唐宋両伝』に出づ