鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

談笑と幸福感

2015-03-16 16:58:09 | 日記

なんの変哲もない日常の食事会。

とある曜日のとある集まりの打ち上げの時の話。

因みにこれは毎週定期的に開催されているものであり、冒頭にもあるように特別な出来事があったわけではない。


その日の会に、俺は参加するかどうか悩んでいた。

「参加者達との他愛ない会話から俺が得られるものはあるのだろうか?」

答えはNOだ。

しかし、参加者達の中で俺以外に誰一人としてそんな風に考える人間はいない。

彼等はその"他愛ない会話"に何も求めてなどはいない。

然るに、期待するものはなにもない。

俺はどうだろう?先にも書いたが"何かしら有益な"時間を期待している。それこそが間違いだったのだろうか、と結局のところは参加して思ったのである。


つまるところ、得なのか損なのかという判断は、何を基準に考えるかが肝なわけだ。


俺はこう考えていた。

「その会で参加者達に関する情報のうち、新しく明らかになった事実だったりが含まれていたとしても翌日に誰かしら参加者に尋ねれば得られる情報だ。

だとしたらその会に数時間を費やすほどの価値はないのではないか?」


しかしその日、俺はあることに気付いた。

他愛ない会話というのは簡単に言えば" 駄弁り "である。下衆な会話やくだらない漫才染みたものだったり…というのを文字通りの意味によって指すのである。

その駄弁りの価値というものがなんなのか紐解いてみると、それは考えるまでもないことなのだ。

駄弁りの価値、それはつまり"その場の空気"である。

会話の節目なり要所要所を繋ぐ"過程"あるいは"道のり"と呼んでもいいし、全体のことを"流れ"と呼んでもいい。

ある時、一つ明らかになる情報があったとしてもそこまでに至るための会話が不可欠である。

駄弁りの価値とはそこにあると思うのだ。

会話のテーマなんてものは重要な会議といったような場面でもない限り、これといった誓約など一つも存在しないまま二転三転するものだ。

一つの会話のテーマにオチがつくまでの間、会話の当事者達は一体何度口を開けて笑うだろうか。

話し手と聞き手のユーモアやセンスや感性が予測不能な化学反応を起こし更にはその連鎖の結果、全く想像のつかない時間をもたらす。

それを知った俺は、自分のことをなんと愚かだったのかと痛感した。


俺が事前に用意していた期待や想像や予想は、結果的にはなんの意味も持たなかったのだ。

なぜなら俺はその日、想像していたよりも遥かに沢山笑ったのだから。

言うまでもなく、その笑いが俺の将来を現実的な意味(出世や経済面)で豊かにしてくれるとは微塵も思わないのは今までもきっとこれからも変わらない。しかし、結局人生の喜びというのはそういう刹那の連続でしかないのだろうということだ。



この類の悩みの原因は、全て将来への不安から来る"焦燥感"だということは昔から分かっていることだ。

とある古い格言にこういう言葉があるそうだ。

「人間の一生には昨日、今日、明日しかない」


何歳まで生きたい?或いは何歳になったら死にたい?

とある友人はこう答えた。

「明日や来週まででいいや、って思う時が来ると思うか?思わないだろ?明日も来週も死にたくないだろ?あなたは今日までしか生きられませんって言われたら明日も生きたいって思うだろ?だから俺は何歳までだなんて答えは持ってないし、死にたいなんて思わない。」

いやはや全くその通りだと感心したのは、今でも忘れはしない。


生きることから逃げられない以上は、人生ができる限り豊かであってほしいと願う。

駄弁りにしてもなんにしても、刹那の連続だというのなら楽しむという気概以上にそこで必要なものなどありはしないのだ。

おーわり☆
コメント
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