鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【三途の川の渡り賃】

2015-08-19 02:37:15 | 日記



「やがて訪れる生の果てには、思い出ぐらいしか持ってゆけるものはないだろう。」


お気に入りの漫画のとある台詞を少しいじった。

俺はこの台詞が好きだ。


盛者必衰。どんなに屈強でどんなに健やかな心身であろうとも人は死ぬ。

偉業を成し遂げても、多くの名声や富を得ても、どれだけ多くの仲間を得ようとも、いずれも向こう岸へはもってゆけない。

老衰で逝けるのであれば、その時まで最愛の人が傍で手を握っていてくれたらそれ以外になにが要るだろう?

漫画『HUNTER×HUNTER』のメルエムとコムギがそうだったな。


思い出。

出自が思い出せないのだが、「人は最終的には感性を巡って過ごすものなのだ」的な言葉をどこぞで見聞きした。

日頃それを痛感している。

典型なのが、雪だるま。

勿論保存する方法はいくらでもあるだろう。

しかし殆どの場合はいずれ溶けてなくなる。

雪だるまに限らず「つくる」という行為が肝要だということ。

仲間がいるのならその作業やその時間を共有したという記憶が脳みその中に積まれていく。

言うまでもなく、日々の収入や労働は生きていくうえで死活問題だ。

しかし、人の一生で価値があるものというのは、どれだけ稼いだとかそういうことではない。

長い人生でふと立ち止まって振り返ってみた時に、思い出達がどんな顔をしているかというところでその一生の価値が問われるんじゃないかと思う。

自分がどんな人間であったかなんてこともそれに比べたら大したことじゃない。どんな容姿をしていたかというのはそれにも増して気にすることではない。

不思議なことだが、私達はあの世で人生のレポートを閻魔大王に提出しなくちゃいけないという決まりがあるつもりでいるように思えるのだ。そんなことは全くないというのに。


映画を見るのもつくるのも、車を走らせるのもつくるのも、食べ物を料理するのもつくるのも、どれも全て喜びのためでしかない。

合理的だとか生産的だとか、人の幸せや喜びが効率主義に埋もれてときどき見失うことが多い世の中だなって思う。


俺は一般的にも社会的にも大して価値のない人間だが、年収4桁を越えるとか医者になって大勢を救うのも、一人の誰かと楽しい時間を築くのも同じ実りだと思っている。人生の使い方がどんなものだったとしても、喜びを基準に比べるなら俺の人生はなかなか捨てたもんじゃない。

そういうふうに考えると、今の俺を振り回して止まない焦燥感も不思議なくらいおとなしくしていてくれる。
コメント
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