老人、老犬、老猫。俺は別に自然主義的なことを言うつもりはない。だから自然界においてXXだから本来XXであるべき、などという考え方を肯定するつもりはない。
何が言いたいかといえば、不健康な犬や猫や老人への「態度の在り方」というものは歴史にも自然界にも存在していないし正しいと思えるようなものも、正しいと言って大勢が納得するようなものもあるとは思えない。だからどうすればいいのかといえば、すぐに正解がでるわけではないのだが、新たに考え、新たに決めて明確にしなければならないと思う。
老人が年老いた犬や猫の面倒を見ている。両者は自身の健康を自ら管理することすら怪しいというのに。
高齢者が高齢者の面倒を見ている。両者は自身の健康を自ら管理することすら怪しいというのに。
両者が終着点へ向かって老衰の道を歩んでいるさなか、いつそこへたどり着いてしまうかもわからないというのに。
弱者は未来の強者のために群れを離れてひっそりと死ぬべきなのだろうか?強者は未来を費やしてまで弱者に寄り添うべきなのだろうか?十中八九、優生思想で云々だと批判されるだろう。しかしどの国のどの人間も人類の繁栄を目指していることは事実だ。どうあがいたところで、優秀な個体を求める本能からは逃れられない。
今がそうなのかは分からないが、人類はそろそろ「人格(教育)」「倫理」に本腰を入れなければならないんじゃないかと本気で思う。不老不死や惑星間移動移住が容易になるならそんな問題は風に吹かれて消えるかもしれないが。
地球の生存可能な地表は限られていて、利用可能なエネルギーも有限。人口には限度がある。増え続けてその誰もが一定以上に幸福というのは極めて困難なことだろう。狭い場所では殺しあって奪い合う。
平和なところでも羨望感や嫉妬で相手を攻撃する者は少なくない。若くて健康だろうが老けていて不健康だろうが関係ない。他者か他者の何かを奪うことでしか自分の何かを充足させることができない者ばかりでは、まともな人がそうでない人の数に負け続けてしまうのは当然といえば当然である。
根はどこまでも深く問題だらけ。根元がどこなのかなんて見当もつかない。高齢老衰要介護、良いと悪いの審判、教育の不足、愚者さえいなければ岸まで行ける泥舟
悪いのは馬鹿な親か?馬鹿になった環境か?その子供か?環境は誰が整えた?誰が間違えた?大衆か?頭か?
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