private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over25.31

2020-04-04 08:37:25 | 連続小説

「おまたせっ」
 ふたりでなにか準備してると思ったら、朝比奈がお盆に紅茶をのせて運んできた。これまた見たこともないティーポットとカップアンドソーサがテーブルにひろげられた。つづいて母親がパウンドケーキとホイップクリームを並べた。
 母親は普段もこういうことをしたかったんだ。もしくはいつか、かなえる時を夢見ていた、、、 今日かなった、、、 おれがおとこで、ブタがエサ喰うぐらいの感じで、カラダを大きくするためだけなような食いかただから、ここまでの道のりは長く険しかっただろう。
「ようやくわかった? おかあさんにもね、いろいろとやりたいことや、本心とかは別のところにあるのよ。今日は朝比奈さんのおかげでそれがひとつできてよかったわ」
 ひとつか、、、 あとどんだけかなえたいことがあるんだ、、、
「わたしも、いつも、ひとりで料理してるから。それに教えてもらったこともなく、こういうの憧れていたんです」
 朝比奈の口調はいつもと違っていた、、、 微妙に敬語。
「そう、でも、夢や憧れは毎日じゃダメなのよねえ。たまたまタイミングがあったり、偶発的にその流れがおこるからやってみたくなるし、うれしくなっちゃうだけで、日常になればもうそれは夢でも憧れでもなくなるから、表裏一体、紙一重。難しいところね。はははっ」
 と、最後は的を得ているのか、わかりづらい熟語を言って母親はひとりで受けてた。「そういうのわかります」わかるんかい。おなじ方向性か。というか同一人物にさえ見えてきたら、ふたりは意味不明深げな目つきをおれに向けた。
 朝比奈は3つのカップにつぎつぎと紅茶を注ぐ。肩ひじ張ることなく優雅な手つきはそのままだ。そしてそれぞれのもとへソーサごと配膳してから、もういちどいただきますと手を合わせて、泡だて器でホイップクリームをとり、パウンドケーキのよこに添えた。
 おれは子どものときに、ホイップクリームが出るとあの泡だて器をなめつくそうと必死に舌をからませ、くちもとをクリームだらけにするぐらいしか能がなかった。こう思うと、ことごとく母親を幻滅させることしかできなかった。
「甘すぎなくて、軽いクリームだから美味しいし、いっぱい食べれますね」
「でしょ。うれしいわ、そういう言われかたしたのはじめてよ。朝比奈さんに食べてもらえてこのコも幸せよねえ。うちのおとこどもは甘くないって文句言うだけだから。クリームは甘いもんだって固定観念から離れらなくて、そこから新しく見える違う世界を想像できないんだから」
 なに、ホイップクリームから新しい世界とか、、、
「世のおとこどもは女性が見えない水面下でどれだけ努力しているかわかってないし、わかろうとしないですからね。自分の立場がうえであることを知らしめて、それを認知させないと自分の存在価値が見いだせなくなりますから」
 母親はカップを両手で支えて声をださずに笑った。おれのほうを見て、この子じゃ役立たずでしょと言わんばかりだ。おれはふたりのあいだで息つく暇もない。オトコは欲情と同情をてんびんにかける。オンナは共感と見映えと、おいしいものがあればいい。
「この子はね、ひとりで集中してトコトンやり抜いていくのが唯一の取り柄で、それがなにであろうと。わたしもね、陸上のなにが面白いのかわからなくて、気を付けてねって送り出すしかできなかった。母親としてできることってそれぐらいのものなのよ」
 なにが面白いかって、おれも実際のところよくわからなく、ただ記録がのびたとかはなしするとまわりが喜んでくれて、それは両親もおなじで、だからそれがうれしかったのはまちがいない。
 どうやら、それは相互関係だったらしく、おれが嬉々としてはなすから母親もうれしくなり、それを見ておれもよりやる気が出たという。どっちがどっちでもなく、おたがいにいい感情の流れにのっていたみたいだ。
 それにしても、もう少し持ち上げてくれてもいいんじゃないかと言いたいところだけど、 そんなトコ自分に持ち合わせていないのはわかっているし、変に持ち上げられりゃ親バカになるから難しいし、、、
 なんだかおれは好き放題、自分のやりたいことやっちゃてるみたいで、いつだって誰かに、、、 母親に、、、 見透かされてるわけで、おれなんてオンナの、、、 朝比奈の、、、 手のひらで駆け回ってるだけだ、、、 どんなに速く走ってものがれられそうにないくらい、、、
「ホシノは、あっ、すいません。いつもそう呼んでいて… 」
 母親は笑顔でくびを振った。了承を得た朝比奈は続けた。おれだっていまさら別の呼ばれかたしても気持ち悪い。
「そういうとこありますよね。そこには興味があります。わたしがする課題解決とは違う別のアプローチのしかただったり、はじめて体験する行為に対する捉え方が、見ていてもどかしくもあり、堅実でもある」
 “そこには”とか“もどかしい”とか気になる点はあるけど、おおむねほめ言葉だったととらえておこう、、、 そこは前向き、、、 昨日クルマを運転したとき、自分の身体で走るのと、クルマを介して走るのは、ぜんぜん違うんだけど、あたまで考えることはそれほど変わりないんじゃないかって一致してきた。
 そのうちに、どれも同じに溶け込んでいくような感覚になる。それなのにクルマで走ったとき、いまひとつピンとこなかったのはなぜなんだろう。もうひとつ踏み込んでみようという気にならなかったけど、なにかやりかたがまずかったのか。
 おれが陸上時代にやっていた方法は、走りながらひとつひとつ課題を出していき、そいつをクリアしていく方法で、トライしては修正していくことでタイムを削っていった。最初はそこそこタイムを縮められるが、あるところまでくるとその幅も少なくなる。
 そこでどれだけ我慢して続けられるかで、また突然タイムが削れたりする。それがこれまでに培ったおれの経験則だった。それなのに、昨日できてたことが今日できなくなることもある。その理由もわからない。いつだって一進一退。
「堅実ってやさしい聴きざわりねえ。いいのよ。ハッキリと要領が悪いとか言ってあげて。もどかしくとも、その時間で動く感情はそれぞれ貴重なんだから」
 と母親が言う。そういう経験値があるかないかで気持ちも大きく変わってくるはずだ。先が見えなければ誰だって同じことを続けるのは困難になる。そこで止めてしまうのか、ひとつでも可能性を信じて続けるのか、おれは何度もその場に立たされては盛り返してきたはずだ。
 バカの一つ覚えだとも言えるし、石の上にも3年という言い方もある。なんにしろ結果がすべてなら、おれがやってきたことだってそれほど間違っていないはずだけど、それ以外の要因が積み重ねていたものを無にしてしまう。
「努力も方向性を見間違えば単なる自己満足になってしまう。その世界の住人になってしまうの簡単で楽なの。比べることも、差を見出すことも、優越感を得るだけの快感ホルモンの増幅と放出による疑似体験でしかない。それを感じるとき、わたしはひどくガッカリした気分になるんです」
 母親も、朝比奈もなんだか自分のことをわかってくれていると思ってた。そのなかでの完全否定でもなくゆるやかな否定。おれがその不安を打ち消すためにできる選択肢は多くはないわけで。
 その工程をなぞっていくのは懐かしくもあり、そして楽しくもあった。ひとつ課題をクリアすると自然と顔がニヤついてくる。すべての結果には必ず起因があり、そこにたどり着くと無性にうれしくなってしまう。自分の足で速く走るために、ただ足を素早く動かすだけではおのずと限界があるんだから。
 足を素早く動かすためにできること、力任せにならないこと、効率的に自重を活かすこと。それらをもう一度見直していると、それもみんな自己陶酔でしかなく、自分の成長になんの影響も与えていなかったか、もしくは微々たる進歩だったと。
「私有地の向こうは自由地区だって、そんな願望にすがりつきたくなる」
 そう母親は言った。もうどちらがどっちのセリフを言っているのかわからない、、、 すべては連動している、、、 そう、すべては連動しているわけで、骨盤をうまく動かすために肩甲骨と一体化させなきゃいけないし、それにあわせて背筋の力と動かしつづけるスタミナが必要なのと同じだ。
 そんなことを教えられたり、本で読んだりして自分のものにしようと練習を繰り返して、それらは当然すべてが噛みあってこそ力が発揮でき、あたまで理解してカラダを動かしているつもりでも、すべてがつながるようになるには、何度もの挑戦と失敗を繰り返していく。
 それで自分の身になったのか自分ではよくわからない。もっとできたのかもしれない。それは出せたタイムだけが如実に物語っていて、いまのおれの現状がすべてなんだと思い知らされる。
「ひとはそういうのは無駄ではないと声をかけ、なぐさめて、明日への糧にする。それもいつか終わる時がくる。いつまでも愚直なのが評価されるわけじゃない。結果を出さなきゃ好きなことも続けられない」
 そう朝比奈が言った。すぐにでも結果を求められる世界に飛び込もうとしている朝比奈は、逃げ場をつくらずに前に向かっている。クルマを走らせるにもアクセルを踏めばスピードは上がってくれる。だれだってできることだけど、速く走らせるにはやるべき行動はいくつもあるんだ。