陽が沈んだあとも心地よい水温で、足を入れてても気持ちがいいんだけど、さすがに長時間ではふやけてくるから、プールサイドに移動して脚を伸ばして甲羅干し、、、 陽は照ってないから干せないけど、、、 をした。
適度に冷えた脚が、まだぬくもりを残すコンクリートから熱を吸収して、これはこれでまた気持ちがいい。今日は久しぶりに走ったし、歩いたし、フェンスよじ登ったし、運動したあとだからよけいに爽快感がある。
部活のときってハードな練習のあとにはアイシングもしたし、大切な試合の前にはなれない冷温の交換浴をして、疲労を積極的に抜くといいだなんて、聞きかじりでやってみたら体調くずして、なれないことはやるもんじゃないと教訓をまなんだ。
「そういうのって、ただたんに気持ちいいからやってたらた、またま効果があるってあとから知ることのほうが多いんじゃない。マリイさんから、のどに良い飲み物とか、肺活量がアップする運動とか、そうね、いろいろと、教えてもらったりしたけど、すでにやってたこともあったり、それは自分が本能的におこなっているのかもしれないし、心地いいから続けていたのがたまたまそうだったとか。知識として習得したこととか、言われてやってみたことって、どこかに強制力を感じて、それを無理にやるのがかえって苦痛なる。これも感じかたひとつなんだろうけど」
感じかたで忘れられない記憶がある。その日、シューズを忘れてどうしようかって困ってたら、先輩が声をかけてくれて、そのひとと足のサイズが一致してるって以前はなしたことがあったのもあるんだけど、もう捨てようとしてロッカーに入れっぱなしになっていたシューズを、よかったらやるよって言ってくれた。
使い古されてクタクタになっていたボロシューズで、今日一日履ければいいんだからって使ってみたらやけにフィットして走りやすく、自分のために開発され、熟成されたように思えたほどで。なによりも履いてて気持ちがよかった。シューズなのにサポーターを巻いているような感覚。
それで、それからも自分のは使わずに、そのまま練習のときに履いていたら、タイムも目に見えてアップしていった。そうすると先輩が、どうしたんだえらく調子いいじゃないか、おれのシューズのおかげか? なんて笑って、おれもそうかもしれませんねって言ったけど、何がどう違うのか自分でもわからないままだった。
感覚的な身の受け取り方って不思議なもんだなって、何が原因で結果が出るのか、その時のタイミングがボロいシューズだっただけで、でも本当の要因は別のところにあるのかもしれないし、ただ変化した自分に対して、その拠りどころが欲しくて、シューズに答えを求めていただけなのかもしれないのに。
「どうしたって、結論に対して原因がわからないままの状態に、非常な不安を覚えるものだから、こじつけでもなぜそうなったのかを自分に納得させる必要がある。自分の経験値にあてはまるものがなければ、本で調べたり、人に聞いたり、歴史に学んだり。そこにつけこむのは神の名を借りた迷信とか、進言とかね。自分の能力の進化だって信じられればいいんだけど、なにをしたからそうなったのかわからないって、偶然と実力のハザマで、どちらに振ったかで今後の自分の成長の度合いも変わってくる」
そう、おれたちは都合のいいときだけ神に頼り、ダメになったときに神を捨てる。シューズの摩耗がひどくなり、アッパーとソールに亀裂が入ってきて、さすがに走るのには耐えられない状態になっていた。
同じメーカーの同じシューズを購入して柔らかくなるように、足にフィットするように、手でもんだり、形をはめて伸ばしてみたりしたけど、同じ感覚は二度と戻ってこず、タイムがその時以上に良くなることもなかった。
はたしておれのタイムがあがったのがあのシューズのせいだったのか、たまたまそういう時期だったのか、単にめぐりあわせだけだったのか、そういうのに引っぱられると過去の栄光と道具だけにすがりついてしまい、成長の本質を見逃してしまうってあるんだ。
だから今回も、そこは過大評価せずに、偶然の一致ってことにしておこう。自分のからだにフィットするってのは、主観でありつつも客観であるのかもしれない。どれだけ自分が自分のからだについてわかっているのかなんて、思い込みの内でしかないんだから。こういう感覚が大切なんだ。実測ではなく速かったって感じを求め続けることが。
「そうね、そもそも基準値を置くことで、それ以上か、以下かってことに、こだわってしまい別の新しいモノが生まれる要因にはなり難い」
朝比奈はいつだって、いまの能力にプラスアルファした成長を望んじゃいない。別の方法や、まったく違った方向からやり直して、いまを超えることを考えている。やりかたはどうだっていい。いまより成長できている自分があればいいんだ。
校庭からの部活の生徒の声も、いつしかなくなっていた。おれはもうその渦中にいないことに寂しさを感じていた。ひとの声がとぎれて静けさが広がっていくと、物悲しさがただよってくる。みんなや先生が迷惑するだろうと遠のいた足は、本当は自分がその場でなにもできないことを再認識したくないからだ。
夕方から鳴きだしたセミの声も、ヒグラシに代わっていたんだ、、、 夏の終わりが近づいているといやでも認識させられる。その場にいたときはなにもかも普通すぎて目にも耳にもとまらないあれこれが、いまはすべて特別なこととして記憶に刻まれていく。
「ヒグラシってさ… 」
そう切り出してきた。朝比奈がセミについてなにを話そうってんだと、おれはけげんな顔をしていたんだ。だからなのか朝比奈も続きを話すのに少しためらいがあったみたいで、おれがまた気のないふりをして、視線を切るまであいだがあいた。
「 …初夏から鳴いてるんだ」
えっ、そうなの? 思いもよらぬ物知り博士っぽい情報は、これまでにない種類のネタだった。バツが悪そうにくちびるが尖っていた。それも可愛すぎて、おれはそのくちびるをいただいてやろうかと身構えたところで長い脚が、、、 すっかり水気が飛んだ脚が、、、 脇腹をおさえてきた。
「いろいろと勘違いするのもホシノの主観ひとつだけど、べつに昆虫情報を伝えたいわけじゃなくて、初夏は他のセミが、つまりアブラゼミが、それがうるさすぎて聴こえないだけで、ヒグラシも鳴いてるの。夏が終わるにしたがって、ほかのセミがいなくなり、ヒグラシの声だけが残り、それがいつしか晩夏の象徴になっていくプロセスがね、いろんな示唆をふくんでいるようで面白いのかな」
この国の民の指向としては、どうしたって少数派には肩入れしたくなるし、最後に立場が逆転して風物詩として語られる存在になるなんざ、この国民性の琴線にふれやすいデキたストーリーじゃないか。
「桜があれだけ愛でられるのも、冬から春に切り替わるあの時期に、パッと咲き、そして儚いほどパッと散るところが美しくもあり、無常を感じるところでもある。そのなのも含めてそういうのって人の感じ方だけで、自然はあくまでも、ただ単に自分の生態をまっとうしているだけなのに」
それを感じられるのが人間だけで、じゃあ人間が表現する生態は、いったい誰が関心を持ってくれるのかといえば、それはやっぱり人間でしかないわけで、どんなカタチで心を動かしてくれるのかは、やはりその人の持つ人間性が大いに影響をおよぼすだろう。
自分の立場を考えればそれは相当に難しい状況で、華やかさはあっても、それはハナに着くもので、人の情に働きかける儚さも、弱い立場から逆転するストーリーを持ち合わせているわけでもない、、、 どちらかといえば強者の立場だ、、、 イテッ、、、 するどく鋭利なヒジが飛んできた。
「それは自分が一番わかってるよ。でも、いまさらね、人格を変えることも、他人に迎合することも、ありもしないストーリーをでっちあげることもできない。いまの自分をつくっているのは、良くも悪くもこれまでの自分でしかない。なにかを成し遂げるために、それを曲げたって、それは過去の自分の信念を裏切ることでもあり、未来に得るものもない」
ああ、なにを聞いても耳が痛い。おれにこの芯の強さがあれば、もっと有意義な陸上部生活が送れたはずだ、、、 してないから、いまのおれがある、、、 教訓通り。
「そんなのは、誰にだって、もちろんわたしにだってあるよ。どれだけ完璧にやっているようでも、あとから考えれば、もう少しこうしておければよかったとか、もっと別の方法があったとか、やりきったと思えたことは一度もない。自分に厳しいのも、ありもしない理想を求めてるのかもしれない。でもね、そうね、でも、それがなくなっちゃもう、生きてる意味はないから、レベルがどこだとしてもそこは変わらないんじゃないかな」
だからこそ、自分を高めようともせず、誰かをおとしめるこで自分のポジションを確保しようと、時間と生命を消費しているヤツらを理解できず、悲しみとしてみている。対立するのではなく、自分を見せることでそれを理解して欲しいと思っている。それを明日、成し遂げることができるか、、、 なんだか盛り上がってきたなあ。
「だれも自分をわかってくれないのはあたりまえだし、共感があってもどこまで本当かはさだかではない、かえって、その気持ちが相手を不安にさせることだってある。感情だけがわたしたちの喜怒哀楽を制御している。その背景にあるものはひとそれぞれ、それがあるときだけ、ひとつになってしまう。それが、ねっ」
音楽の力だと、、、 できすぎじゃない?