ナイジが診察室に入ると、小柄だが芯の強そうな初老の男が上目遣いにのぞき込んできて、品定めをするように目線が広く動いている。
ナイジはこの医師がマリの伯父であると聞き、なるべく自分の感情をオモテに出さないよう気をつけた。心証が悪いのはあたりまえで、これ以上変に勘ぐられるのも困る。
志藤は顎のあたりを人差し指で掻き出すと、何かを理解したように一度目を閉じる。ナイジの背後にマリが寄り添うように立つのを見て、気に入らないのか鼻を鳴らす。
「マリ、ここはいいから外に出てなさい」
すべてを把握したような強い口調だった。マリは躊躇した半身を残しつつナイジと志藤を交互に見て「わかりました。なにかあれば呼んでください」と言い残して出ていった。ナイジはそれを振り返らない。
ひとりになったナイジを志藤はもう一度、あたまのてっぺんから足の先までをつぶさに観察する。
「ふん、元気そうじゃないか。まあ、これも決りだ。やるこたあ、やらんとな。さてと、目ェつぶって、片足で立ってみろ。そう、案山子みたいにしてな。ふうん、もう一方も、同じようにして。そうだ、まあ、いいだろ、じゃあ座って。目の動き診るからこのペンライトの光を見てろ」
ナイジが言うとおりに丸椅子に腰かけると、志藤は胸ポケットからペンシル状のライトを取り出し灯りを点け、見開かれたナイジの瞳孔を刺激し黒目の動きを確認する。そのあいだ、志藤のこめかみには何度か皺が寄った。
その動きにいちいち反応しないように、他ごとを考えるナイジ。痛む左手はカムフラージュされた右手と同様にだらんとさげたままだ。
「いいだろ、極めて正常だ。なんの問題もない。見かけに寄らず頑丈な体をしとるし、芯もつよそうだな」
そう言うと、後頭部を手のひらで叩き少し顔を歪ませる。しばらくその仕草を続けたあと、ペンライトを胸ポケットにしまい込みカルテに書き込みをはじめた。
「おしまい、 …ですか」
丸椅子の上で落ち着かないナイジは、アラが出ないうちに早めに診療室を出たく、催促のつもりで言ってみた。鼻をつく消毒液の匂いも不快でしかない。
志藤はペンを走らせるのを止めて「他にどこか気になるところはあるのか?」と言う。ナイジは自分のカラダを見回して、そして首を横に振る。やはり余計な口をきけば痛くない腹を探られると相手のでかたを待った。
そんなナイジに「なあ、ここに来たのは初めてか?」と問いかける。先程までのつんけんとした口調と打って変わって、穏やかな話し方だった。
ナイジは自分から漂い出るすべてをオモテに出さないよう気配を消し、そうしておいて質問の意味がわからないといった風に、首をかしげ志藤の次の言葉を待った。
「まあ、いいさ、アタマは大丈夫だがな。いいか、ごまかそうとすると他に影響がでてくるぞ、来週も走りたいなら止めやせんがね。そこまで、診るのは決まりじゃないんでな。自己申告がなけりゃ、医者も万能じゃない」
暗に別の悪い部分を知っているような口ぶりをしてくる。カマをかけているとも思えない態度にナイジは一度天をあおいだ。
「敵に自分の弱みを見せるのは勝負ごとにおいてご法度だ。ただし、それを逆手に取ることもできる。それはなにも敵だけじゃないがな」
「絶対に他言はしないでほしい。カルテに書かくのもだ」いどむような目つきのナイジは、それが受け入れなければ即座に席を立つつもりだ。
その言葉に志藤は大きく笑う。
「以前にそんな言葉を聞いたことがある。今日は舘石のタイムが破られたそうじゃないか。それもなにかのめぐりあわせってやつか」
「むかしばなしはどうでもいい。それにそのタイムはオレが破ったわけでもない」つい悔しそうに唇を噛んでいた。
「そうせくな。外で待つマリに心配をかけるのが気になるか」志藤はニヤリと笑った。
相手のペースにまんまと乗っていた。弱味を見せた時点でそうなるのは必然で、そこからいろいろと切り崩しにかかってくるつもりなのか。ナイジは後悔しかかっていた。
「自分の気持ちをオモテに出すのが嫌いみたいだな。それも悪くないが相手にそれを悟らせては逆効果だ。相手が何を考えているのか迷わせる。それで主導権が握れる」
志藤はカルテを閉じて、クッションの利いたイスに深く座った。そしてナイジの目を見据える。
診断室に静寂がおとずれた。机の上にはペンや、聴診器や、なにかしらの資料が乱雑に置かれていた。それに反してテーブルの書棚や、部屋の中はきれいにかたずけられている。マリが気づくごとに整理整頓している姿がうかがえる。
ナイジは左手を前に伸ばした。志藤はそれを手に取り触診をはじめる。痛点に指が触れそうになるところで手を離す。
「骨には異常はないがな。これから腫れてくるし、痣も出てくるだろう。飲み薬と塗り薬ぐらいは出すことができるが。マリに黙っているつもりはないだろ」
「どれぐらいかかる」そこが一番気にかかるところであった。そこに触れない志藤にナイジはイラ立ってしまいすぐに「スイマセン」とあやまる。
「安静にしとれば2週間といったところだろ」志藤の答えにナイジは目を閉じた。
「腕を吊るどころか、包帯もせんつもりだろ。それでは不意に動かして悪化させる。ましてやシフトチェンジを繰り返せば治るものも治らんくなるぞ」
ナイジは志藤が話しはじめると、椅子を離れ軽く一礼して診療室を出て行ってしまった。それを特に咎めるようすもなくやりすごし、処方箋を書こうとした手を止めペンを置き、ナイジが消えた扉の先に椅子を回し身体を向ける。
――あれだけの、動体視力を持ったヤツはなかなかお目にかかれんな。それに、先読みしてくるぐらい直ぐにワシの言動を把握してくる。 …左手の怪我、必死に隠そうとしとったが。まあ、無理強いしたって逆効果になるタイプの人間だ。自分でどうするか決めるだろ。久しぶりにレーサーらしいヤツにあったな――
検査を終えたナイジは、左手に一度目をやっておいて、すぐに右手でマリを手招きして呼び寄せる。心配げなマリがそばにくる。
「長かったけど、どうだったの?」
「脳に異常はなしだってよ」嘘は言っていないが、言うべきことも言えていない。
「良かった。ドクはね、あんな感じだけど、ウデは間違いないの。お墨付きをもらえればもう安心ね」
そうやって喜ばれるとよけい言いづらくなる。
「それよりマリさ、今日どうやって帰るんだ?」
「ああ、あのね、いつもは伯父さんに送り迎えしてもらってるの。昨日はね、ウソついて友達と一緒に帰って、そのまま泊まってくるって。ハハ、言っちゃった。ミエミエだったかしら?」
ナイジはそれを受けて、あえて他人事を話すように言い返す。
「うわ、悪いヤツだな。そんなこと言って、きっとロクでもないオトコを追っかけてたんだろ」
たおやかな笑みは、さかのぼった記憶から自然とそうなったのか、マリは小さく首を左右に振った。
「ううん、とっても素敵な人だったよ、運転も、 …キッスもね」
「 …へっ、あ、あの」今度は、ナイジが固まる。
「え、そこで黙んないでよ。言っている方が恥ずかしくなっちゃうじゃない」
「いや、オレの方が十分恥ずかしいけど… 」
照れながら、鼻先をかくナイジに、マリは頬を膨らませたあとで笑いだす。
「そうね、誉められるのはなれてないし、今日は勝手が違って、もう満腹だったしね」
苦笑いだったナイジは真顔に変わる。
「 …あのさ、オレ、オースチン直さないといけない。不破さんに相談してからだけど、しばらく掛かりそうで。よかったよ、マリ帰りどうしてるのかと思って。なんだったらリクさんに頼もうかと、ちょっと危険だけどな、ハハ、いろんな意味で」
「ううん、大丈夫よ、今日は伯父さんに付き合わなきゃ、機嫌直してもらわないとね。来週、サーキットでまた会えるから、それまで楽しみにしてる」
「ああ、そうだな、あのさ、その、オレ… 」
何かまとまったセリフでも言えれば良かったが、しかし、そんな思いが強いほど、逆にひとカケラの言葉も思い浮かばない。めずらしく、ためらいがちなナイジを見てマリが首を振る。
「あのね、ナイジ。アタシね、この週末すっごく楽しかった。色んなことが起きて、これまでのアタシの一生分より充実した2日間だった気がする。こんな日が自分に来るなんて、今まで想像もできなかった。ナイジも目的が出来て頑張ったし、よかったね。いままでの走りの中で一番素敵だったよ。最後は残念だったけど、でも、もっといい走りができるって思えた。そんな予感がしてならないの。オースチン、早く直るといいね。アタシはなにもできないけど、信じてるよ。きっと、来週また、ナイジが走ってることを」
自分も同じようなことをマリに言いたかったナイジは、申し訳なさそうに下を向く。オースチンも自分も治るのかいまの段階では何とも言えない。
「うぉーい、マリ、いつまでくっちゃべっとるんだ、早くかたずけて帰るぞ、今日は、夕食作ってくれるんだろうな。まったく、昨日は茶漬けで食った気がせんかったわ。だいたいな… 」
言いたいことだけ言うと、その後はまた、愚痴がはじまる。ふたりは肩をすぼめて、笑いあった。志藤は薬を処方するつもりはないようだ。それをすればマリの知るところとなってしまう。
なにが正しいか今の段階ではわからず、それでも自分の意思を尊重してくれた志藤に感謝しつつ、マリに真実を述べていないことを心で詫びた。
「じゃあ、またな」そう言うのが精一杯であった。そうして唐突にその場を立ち去ろうとする。
マリの手がナイジを引き寄せる、暖かく柔らかな手が。沈黙の時間でも、そのあいだはふたりを幸せへと導いてくれる。温もりに包まれるほど、1秒でも離れることが苦しくなるのはわかっていた。愛おしさと、切なさと、心の弱さが混濁し、それらが反発を繰り返している。
いったいどこにすがりつけばよくて、相手に何を求められているのかわらない。ただ、今からやらなければならないことをタテにして、一度断ち切るための名目にしか過ぎなくとも、納得させるしかなかった。
そうして無言のままふたりは離れていった、明日になんの約束もできないまま、それでもお互いを信じる心だけはつながっていると、それぐらいしか支え合えるものを持てないまま。
ナイジはとぼとぼと通路を歩いていく、もう振り返ることはない。そうすれば余計につらくなる。
――なんだろ、この感じかた。あたり前だけどナイジの傍を離れたくない。それが今、求められていることではないのに――
「どうやら、オマエさんのお目当てはアイツだったみたいだな。ふん、なかなかいい目をしとる、さすが、ワシの姪じゃな」
ちゃっかりと、ふたりの様子を覗き見していたらしく志藤がそこにいた。
「伯父さん。趣味悪いわよ、覗き見なんて」
「伯父さんじゃない、ドクと呼びなさい。だいたい悪いのはオマエの方だろ。ワシに嘘ついて外泊しおって。まったく、これじゃあ恭一郎に合わせる顔がないわ。まあ、たいしたこともなかったみたいだし、今回は大目にみとこうかの。この頃じゃ中学生だって、“チュ“ぐらいするからの。ワッハッハハーッ」
「もーっ、そんなとこまで聞いてたの。夕食作らないからね」
そういいながらも、志藤と腕を組み一緒になって歩いていく。ナイジを認めてくれている発言に満更でもないマリだった。