ひと通り言いたいことを言って満足したようで、ユキはビールからカクテルに替えて、ゆっくりと飲みはじめていた。店内に静けさが戻った。
コウがテーブルを拭く時のダスターが擦れる音や、グラスの水気を取る時のキュッキュという音だけが耳に届く。2杯めを飲みはじめたショウは、そんな清音の中で目頭を抑え、考えごとをしていた。
日中の母親の動向が心配で、一度だけ行政に相談をしに行ったことがあった。担当の人は見るからに多忙そうで、自席と相談者のあいだで行ったり来たりを繰り返していた。
ひとつの案件を処理するのに30分はかかっていた。これでは自分の番が来るまで有に2時間はかかるだろう。ショウはその日、会社は午前休を取っており、平日にしかできないことをまとめてこなそうと、色々と予定していた。
2時間の待ち時間の合い間にそれらを片付けられれば効率がよいのに、予約券の発行があるわけでもなく、応対してもらうにはひたすら順番を待つしかなさそうだ。
この時間を有効に使えればあれもできる、これもできると、そう思えば思うほど、余計にフラストレーションがたまってくる。
こういった時間の浪費にしても、多くのひとたちの経済活動をどれだけ阻害しているか、誰か真剣に考えた事があるのだろうかと疑問でしかない。
それだけでなくショウは、会社で自分のしている業務と比べて、異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。仕事でお客様の一分一秒を無駄にしていては、競合他社に寝返られてしまう。そして、他社よりスピーディーな対応をすることで、他から顧客を獲得することも出来る。
それを思うとここは隔世の感がある。他に選択肢がない仕事では、他に頼るところもなく、そんな顧客が従順に従う姿に勘違いすれば、サービスの低下につながっていってもしかたない。
ただショウの会社にしても、スピードでしか勝負できていないからそうなるわけで、他にオンリーワンの技術とか、他社との差別化出来る部分がなければ、脈々と続くスピード勝負にいつしか疲弊していくだけだ。
時間に勝ることに執着して、仕事の本筋から外れており、その時さえよければの勝ち負けに一喜一憂していれば、将来への展望を考える余地もなくなる。あえてそうしていように。
ショウも実際に、ここの仕事ぶりを見て、羨ましさも同時にあったのは否めない。結局待ち続けるしかなかったショウは、他の要件をひとつも片付けることもできずに、順番が回ってきたのは正午に近かった。
ようやく面談した担当者に言われれたのは、近所の民生委員に相談してみたらの一言だった。そんな人が近所にいるのかわからないし、知っていれば最初からそちらを当たっている。
もっと行政ならではの取り組みとか、対応場所などへの紹介が合ってもよさそうなものだと、そう食い下がるショウに、もう昼休みだから、続きが話したければ、1時になったらまた来ればと言われた。
ショウは心の中で煮えたぎる怒りを飲み込んで、平静を装い礼を言って、急いでこの場を立ち去った。ここで行政への不満を述べても何も変わらない。この担当者にしても、こうしてこれまで仕事をしてきただけだ。未来を変えようとしているわけではない。
グラスのフチを指でなぞりながら、コウの仕事ぶりを眺めていたユキが、不意に問いかけしてきた。
「知ってる? コウちゃん。ミタムラさん、またボクサー育てる気になったみたいよ」
コウは磨ていたグラスを照明にかざし、透明度を確認してから食器棚に置いた。ユキの問には少し首を捻るにとどめた。
「それが今度は女のコだっていうから嗤っちゃうわよね。どこまで本気なんだか」
そう言ってため息をつくユキは、頬杖を付いてコウの方を見上げる。コウはさあといった風情で両肩をあげる。興味がないのかとユキは、もうそれ以上を言及することはなかった。
興味がないわけではない。いくつかの思いがあたまの中を巡って、ユキへの対応が疎かになっただけだ。
あそこはもうボクシングジムというよりスポーツジムになっていた。それも女性客目当てにボクシングエクササイズを売りにしているだけで、もう本格的な設備は整っていないはずだ。
ミタムラも経営者というより、生活のために管理人の仕事をしているだけだった。あの日以来、人が変わったようにやる気を失っていたミタムラが、再びやる気を取り戻したというならば、よほどの逸材に巡り合ったのか。
しかしそれが女となると話しは別だ。あのミタムラが、女をリングに上げるなど想像がつかない。前世の遺物のような人間だ。
女は男がいい仕事ができるように下支えに徹しろというタイプで、ただでさえ表に出ることを極端に嫌っている。それが女をリングに立たせようなど、コウからすれば天地がひっくり返るぐらいの出来事だ。
棚からシングルモルトのウイスキーを取り出して、グラスに1センチほどそそぐ。ユキに付き合ってコウも少し飲むことにした。
グラスをユキのカクテルグラスに軽く当て、乾杯をしてひとくちだけ含んだ。今日はもう客足は期待できそうにない。それに混乱したアタマを鎮めたかった。
「わたしにも、もう一杯ちょうだいよ」
最後のひとくちを口に含み、グラスの底を指で挟んでコウに差し出す。コウも残りを一気に呷って、おかわりのドライマティーニを作り出す。
「時間外手当にしないでよ」酒を飲みはじめたコウに、ユキは憎まれ口を叩く。
「少々飲んだからって、不細工な仕事はしませんよ」
「ふーん、じゃあ美味しくなかったら、コウちゃんのおごりね」
お互いにいつものやり取りで、漫才の掛け合いみたいなものだった。飲んでいようがいよまいが、コウの仕事が雑になることはないとユキが一番知っている。
「美味しかったらコウちゃんの分も払うから、わたしのにツケときなさいよ」
それはユキ流の遠回しな言い方で、少しでも店の利益につながるようにコウを気遣っている。それがユキひとりでは、たかがしれているとしても。
シェイカーにカクテルの素材を流れるように投入したあと、砕いた氷を少し追加してゆっくりとシェイクしはじめる。派手なパフォーマンスをすることなく、中身の状態を見通すようにシェイクしていく。
ショウは見るでもなしに、横目でその動きを見ていた。動きや流れに一切の無駄がない美しい所作に見惚れてしまう。
何故か右手の人差し指は、何をするにも伸ばしたままで、何か不具合があるのか、そうしておく理由があるのかショウにはわからない。
ユキは知っているのかもしれず、今さらそれについて言及することもない。コウはそれで美味しいカクテルを作り出す。そこに何の理由があろうと知る必要はない。
何度かこの店で飲んでいたショウも、これまで気にもとめなかったコウの仕事ぶりがやたら気になり、今では気づけば自然と目がそちらに向いていた。
失礼ではあるがそんなに繁盛しているとも思えない。今日も身内らしき人と、たまたま来店した自分だけしかいない。それでもプロとして仕事に手を抜かない姿勢に感心してしまう。
同じ仕事中でありながらも、やらされている仕事と、やりたい仕事との差がそこにあるのに、収益に差が出てしまうことに疑問でしかなかった。
新しいカクテルグラスを取り出し、曇りがないのを入念に確かめると、丁寧にカクテルを注いでいく。ひとくち含んだユキから感嘆の声が漏れる。
「じゃあ、遠慮なくご馳走になります」ニヤリとしてコウはグラスにもう一杯注いだ。
「ちょっと、おごるからって何杯も飲まないでよ」
ユキは目を細めて抵抗する。コウはそのツッコミには反応しなかった。そしてお互い小さく笑う。
そんなふたりの親密なやりとりを見て、ショウは疎外感が少なからずあった。グラスは空になり、いい時間にもなっていた。店主に声をかけて精算をお願いした。帰り際にドアを開けて店主は見送りをしてくれた。
「すいません。騒がしちゃって」そう言ってコウはアタマを下げた。
店主がそんなことを言ってくれるなど思いもしなかったショウは急いで首を振った。
「いいえ、そんなこと。お客さんひとりひとりを大切にしているんですね。すみません。端から見ていていろいろと勉強になることがありました」
「はは、その割には客が少ないし、もうそういう時代じゃないんでしょうね。これに懲りずにまた飲みに来てください」
そう言ってコウは微笑んだ。ショウもアタマを下げて返答する。
「ええ、久しぶりだったけど、このお店、落ち着くんです。これからはもっと頻繁に寄らせてもらいます。だから、、、」
だから、店をたたむことなく続けて欲しい。そうショウは言いたかった。これ以上は出てこなかった。いまだ感情を制御しつづけて、そして感情を制御できていない。それでもなにかが変わるような気配があった。
「なので、また来ます。ごちそうさまでした」
だから、なので。つながらない言葉にキョトンとするコウ。ショウは笑顔だった。よくわからない状態でも、それでコウは満足だった。ショウの後ろ姿に深々とあたまを下げる。
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