このブログ、食べることをメインにしてあれこれ書き連ねるつもりだったのだが、気がつけば世のあれこれについて、凡庸な私がぶつぶつつぶやいている記事がほとんど。
大いなる志や戦略・野望があるわけでもなく、続けることに意義があるのでまぁいいか~♪と、お気楽なのである。
いつものように、年越し蕎麦を食らい、お雑煮を仕立て、おせちも今年はしっかり食べて始まった。
おせちというものは、年末年始の主婦が家事軽減を図る為の、保存のきくオカズと承知していたのだが、我が家では、とかく大皿に盛られた煮しめや、これまた大量の数の子、そしてハムやかまぼこ、伊達巻などといったお決まりの面々がお重に詰められて完成するおせちで、私など直ぐに飽きてしまっていたものだ。
そうして親族が集まれば、結局、やはり手のかかる茶碗蒸しや牛肉の登場となって、主婦が休める気配はなかった。
今年、初めて「おせち料理」なるものを購入してみた。
某ホテルで大量につくられ、デパートやスーパーを窓口に同一金額で予約を受けるタイプのものだ。
平均的な二段重ねの商品を購入、楽しみにして開けてみたが、全部で47品の料理名がおしながきにぎっしり書き連ねてある。
自宅で作るのと違って、ひとつひとつの煮物、ひとつひとつの焼き物がそれぞれ皆異なる手法で料理され、それぞれに最適と判断されたお味に仕上げてあって、飽きることはない。
一口一口その違いを楽しみながら、おしながきと見比べて納得する流れが、非常に楽しい一時となった。
我が家の主婦がまだ元気な頃に、こうした手抜きでの楽しみ方をさせてやればよかったと、今頃になって思うのだから、遅れ気味な思いつきも極まった感じだ。
何だか、亡き人を楽しませたかったという想いと共に、来年もホテルの厨房でつくられたおせちを買ってもよいかもしれない思うのだった。
大いなる志や戦略・野望があるわけでもなく、続けることに意義があるのでまぁいいか~♪と、お気楽なのである。
いつものように、年越し蕎麦を食らい、お雑煮を仕立て、おせちも今年はしっかり食べて始まった。
おせちというものは、年末年始の主婦が家事軽減を図る為の、保存のきくオカズと承知していたのだが、我が家では、とかく大皿に盛られた煮しめや、これまた大量の数の子、そしてハムやかまぼこ、伊達巻などといったお決まりの面々がお重に詰められて完成するおせちで、私など直ぐに飽きてしまっていたものだ。
そうして親族が集まれば、結局、やはり手のかかる茶碗蒸しや牛肉の登場となって、主婦が休める気配はなかった。
今年、初めて「おせち料理」なるものを購入してみた。
某ホテルで大量につくられ、デパートやスーパーを窓口に同一金額で予約を受けるタイプのものだ。
平均的な二段重ねの商品を購入、楽しみにして開けてみたが、全部で47品の料理名がおしながきにぎっしり書き連ねてある。
自宅で作るのと違って、ひとつひとつの煮物、ひとつひとつの焼き物がそれぞれ皆異なる手法で料理され、それぞれに最適と判断されたお味に仕上げてあって、飽きることはない。
一口一口その違いを楽しみながら、おしながきと見比べて納得する流れが、非常に楽しい一時となった。
我が家の主婦がまだ元気な頃に、こうした手抜きでの楽しみ方をさせてやればよかったと、今頃になって思うのだから、遅れ気味な思いつきも極まった感じだ。
何だか、亡き人を楽しませたかったという想いと共に、来年もホテルの厨房でつくられたおせちを買ってもよいかもしれない思うのだった。