年長者の介護に追われている頃は考えていた。
「後何年」とゴールの見える子育てに比べ、介護は「いつまで」と終わりが設定できないから大変だと。
そもそも介護のゴールは、哀しむべき出来事とリンクするものであるからして、望むべきものでもない。
それ故、そこに生じる苦しみは、底なしを呈する。
しかし、今、守るべきものも育まなくてはならないものもない、お気楽な身の上になってみても、やはり人生は先の見えぬものだと思い知る。
あと何年自分の人生があるか、人は通常知ることなく生きなくてはならないのだから。
計画経済なんて概念が崩壊して久しいが、人生計画なんてのも、壊れ、綻ぶことを大前提に語られるべきものなのだ。
それは明日、突然ピリオドが打たれるものかもしれないし、「長生きリスク」なんて怖ろしい言葉を背負って、歩いたことのない道を進み続けなければならないかもしれないのだから。
「後何年」とゴールの見える子育てに比べ、介護は「いつまで」と終わりが設定できないから大変だと。
そもそも介護のゴールは、哀しむべき出来事とリンクするものであるからして、望むべきものでもない。
それ故、そこに生じる苦しみは、底なしを呈する。
しかし、今、守るべきものも育まなくてはならないものもない、お気楽な身の上になってみても、やはり人生は先の見えぬものだと思い知る。
あと何年自分の人生があるか、人は通常知ることなく生きなくてはならないのだから。
計画経済なんて概念が崩壊して久しいが、人生計画なんてのも、壊れ、綻ぶことを大前提に語られるべきものなのだ。
それは明日、突然ピリオドが打たれるものかもしれないし、「長生きリスク」なんて怖ろしい言葉を背負って、歩いたことのない道を進み続けなければならないかもしれないのだから。