パラリンピック、ほんとに感動的でした。
激しいぶつかり合いの車椅子ラグビーから、自分では投げることができない
ボッチャまで魅入ってしまいました。
開会式も閉会式も良かったです。
ヘタな感想を私が書くより、体操の先生から、体操演技中の事故で
首から下が動かなくなってしまった、星野富弘さんの言葉を
ご紹介したいと思います。
”かぎりなく やさしい花々”より
でもわたしは、車椅子にのるようになって、とってもだいじなことを
知ることができました。
わたしが元気だったころ、からだの不自由な人を見れば、かわいそうだとか、
気味がわるいとさえ思ったことがずいぶんありました。
しかし自分が車椅子にのるようになてって、はじめてわかったことののですが、
からだが不自由な自分を、不幸だとも、いやだとも思わないのです。
けがをして、一、二年は、からだのことでなやんだり、くるしんだりしました。
でも、うけた傷は、いつまでも、ひらっきぱなしではなかったのです。
傷をなおすために、そこには新しい力が自然とあたえられ傷あとはのこりますが、
そこには、まえよりつよいものがもりあがって、おおってくれます。
からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、心はいつまでも不自由ではないのです。
不自由と不幸はむすびつきやすい性質をもっていますが、まったく、
べつのものだったのです。
不自由な人を見て、すぐに不幸ときめつけてしまったのは、わたしの心のまずしさでした。
聖書にはこのようなことばがあります。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。
ヨハネ9-1~3
お出でいただきありがとうございます。