和楽の会民謡(唄、三味線、尺八、太鼓、箏 etc..)

インターネットで民謡好きならどなたでも ネット民謡の会(和楽の会)情報交換、大会応援、交流会などを楽しみましょう♪

真似の難しさ

2013-09-30 09:32:34 | 日記
和楽の会民謡ファンのみなさまおはようございます きょうは真似について語りたいと思います。 昔の日本人は、西洋人との交流によって新たな文化を取り入れ、その良さを真似ることにより発展していったと思います。 つまり良いお手本を研究し追及されたのだと私は思っております。 なんでも習い事は同じことでございましょう。 私の場合は民謡におきましては、人の真似などはあまり意識は致しません。 といいますのも、私は隠岐しげさ節が大好きで、中でも隠岐の島の唄姫のゆかりさんのしげさ節が大好きでした そしてその唄を何百回と聞き自分の中に取り入れようと必死だったのですが・・ 民謡の唄をコピーする(完全に真似を行う)ことなど無理でした。 これは私の考え方なのですが、私が、ゆかりさんのしげさ節の真似をしても、ゆかりさんの持つ、しげさ節の味は出せませんし、真似っぽくなることすら出来ません。 つまり、自分には自分にしか唄えない唄や唄い方があるのだと勝手に悟りました。 音戸の舟唄全国大会では、私の唄が動画で貼ってございますので、お手本がないからと何名かの競技者の方から「あなたの唄で学んだのだよ」とおっしゃって頂きました。 不思議な気持ちでしたが大変に光栄でした  では、私は一体・・ どうやって一人で唄を作りあげていっているのかについて述べようと思います。 簡単に言いますと、私の場合には、なるべく多くの唄を生でまず聞きます 自分が感動する唄とはいったいどんな唄なのか 誰の唄う唄が好みなのかを自分自身がまず知る必要があるからです。 それに一人の方のばかりを真似するのではなく、自分の気に入った方を例えば10人くらい聞いてみて、色々な唄い方を心に取り入れるのです。 例えばですが決勝に残った競技者が全て私の心に響くことはありません。 優勝された方の唄が一番響くということもございません。 中には予選に惜しくも毎回落ちる方の中に涙を誘うほど感動を呼ぶ競技者様もいらっしゃいます。 私は、その方の技術を聴いているのではない 私には、その競技者の心が聴こえてくるのだと思う 苦労を乗り越えてきた方やそれにより作られてきた慈悲深さ・・ そのようなものが唄に変換され舞台の上に立った競技者から聴こえてくるのです なんて素晴らしいのでしょう。 競技大会は決勝戦を観る以外にも、こんなに素敵な人間がたくさん隠れているのでございます  毎回、決勝に残る方もいらっしゃいます  毎回、予選に落ちる人もたくさんいらっしゃいます  だけれど僕の中では・・ 毎回予選に落ちても毎年出場される方の舞台の方がなぜだか感動致します  その民謡にかける思い  唄に乗せて自分自身を表現する素晴らしさは、私が思うに民謡の最も素晴らしいところではないでしょうか  

そして私は一人だけの唄を真似ることの難しさを知っております(真似をしたくて出来る生易しいものではないと悟りました)。 だからもう真似をするのは止めました。 真似をして同じように唄えるのならば、誰だって優勝できるし決勝にも残れます。 私が思うに審査員は、唄う人の心の在り方と、音程と、伴奏とのバランス、そして唄から表現される情景を聴いているのではないでしょうか。 競技者というのは誰もが勝ちたいという想いが現われます ですが私のこれまでの経験ですと、その心が強ければ強いほど、唄に無駄な力が入ってしまって 唄は重くなり聴く側の心には良い唄とは感じられません つまり人に勝とうとするのではなく、自分の唄いたい唄が舞台の上で素直に表現することがいかに出来るのかだと私は考えるのです それと大げさに言えば、心の唄というものは、例え音程が外れていたとしても伝わるものです。 もちろん音程を外したのであれば人より上に行くことはできませんが、私の中で最も大切な部分の確信は、唄う人そのものの、人間性にあると思っております(人間性は音程が外れていても伝わるのです)。 良い唄を唄われる人の心は素晴らしいと考えているのです。 どんなに格好が良くても、どんなに唄を練習を積んでも、人間性というものは、唄に現われるのです  つまり唄を聴けば、その人の人間性が聴こえてくるのです  私は隠岐の島でも、よく初級者の皆さんの練習伴奏にお付き合い致します。 本当は中級での自分の競技のことに集中するためにも、一人で集中して練習するべきなのかもしれません。 ですが、私にとって・・ 自分の成績よりも初級クラスで一生懸命に上に上がろうと頑張っている方の伴奏が出来る方が大切なのです。 その唄い手さまの中には、本当に素晴らしい魅力を持たれた方が中にいらっしゃいまして  そんな方の練習伴奏ができるってことも隠岐本土に渡った大きな価値が私にはあるのでございます。 どんなに素晴らしい唄をテレビで観て聴いても  CDで聴いたとしても  はやり本物の歌い手さまには叶わないのでございます  目の前で唄に人生をかけている方が私の三味線に合わせて歌っている  それがどれだけ尊いことでございましょう  そして私も伴奏の先生の前で唄わさせていただくことがございます  それはまるで先生の前で素っ裸になって見せるほどに本当は恥ずかしいのですが  自分の心が丸裸に伝わるわけでございますから  それでも、生きている人生の中で最も幸せなひと時といえることでございます

去年、隠岐の島に私は行けませんでした  たった1年、一度、行けなかっただけなのに・・ もう10年くらい行っていない感覚に襲われているのです  隠岐は僕のことを覚えてくださっているのでしょうか  未だにしげさ節は思うように唄えません・・ けれども来年の大会までにはなんとか形にしたくて研究しております  今は民謡だけが心の支えです。  僕から民謡を取ったら髪を切ることだけになってしまいます。  今日も広島のどこかで三味線を弾いてこようと思っております。  ご拝読、誠にありがとうございました  

人気ブログランキングへ 毎度、ランキング絵柄のクリック、誠にありがとうございます これだけが私の心の支えとなっております 今日も広島で三味線を弾いてこようと思っております  皆様、素敵な一日を送ってくださいませ

























最新の画像もっと見る

コメントを投稿