私は本日を持ちまして人生47年を迎えることが出来ました たった一つのコメントでも、私の誕生日を祝って頂ける方がブログファンの中に一人存在することの嬉しさ幸せさ 誠に素晴らしいコメントを頂け心より感謝申し上げます。 有難うございました 今日は47年の節目の日、私は日本民謡フェスティバル2017のラジオ放送を録音した中の、刈り干し切り唄を聴きながら書いております この唄は、高橋ななさんが唄われた唄です なんて心素晴らしき涙を誘う見事な唄なのでしょうか ななさんは、私と同じ楽屋にいらしたのに 私は勇気もなく、記念写真をお願いすることが出来なかった だけど私は確かに生で観れたのです
ななさんは、あの紅白の舞台上にて刈り干し切り唄を唄われておられました。 余りに私に取りまして素晴らしい心の唄であり、特に
「稲かろうかよ~」 の、稲(いね)という発音の部分が涙を誘った見事な唄い方、表現であり、あのとてもお若い方が、あれだけの心の篭った素晴らしい表現力に見事な心を備えておられたなんて 私は本当に素晴らしい民謡の聖地に行けた喜びが抜けないのです 嬉しくて、唄を聴く度に涙が出そうになるのです。 民謡なんてね、民謡に興味のない人にとっては、なんでもないものだと想像致します ですが、生きるか死ぬるかの道を歩んだ私にとって、民謡というものは命の恩人であり、民謡があったからこそ、ここまでなんとか生きてこられたという、まさに民謡のあっての私なのでございます。 私はななさんとは、なんの面識も言葉を交わしたこともありません。 それでも、あのお方が見事な心を備えていることは、唄や姿勢から伝わって参ります でないと、あのような涙が出る唄なんて、あの若さでは決して唄えませんもの
私が思うに民謡とは、昔、苦労を重ねてこられ苦労を共にした先人方々が仕事を少しでも楽にするために知恵を絞り考えられた唄であり、詩であります。 よって、人の痛みや苦労が想像できない人に唄え表現ができるはずがないと考えているのです。 私が尊敬する民謡人さんは、皆、レベルが低かろうが高かろうが関係なく、皆に親切で優しく、自らも苦労を重ねており、人の痛みの分かる方だと感じております。 どんなに民謡の練習だけを重ねたところて、人間が出来ていなければ、魅力ある唄になど絶対にならないと感じております。 この間、私の唄には「塩と胡椒がないのだ」と伝えていただきました。 これは、私が下手ということではなく、人間に味がないということだと感じました。 同じ人間がどれだけあがいても、魅力が変わるものではございません。 無理をあがいたって後に後遺症が出るだけで無理は長くは続かないのです。 民謡とは、人生そのものだと考えます。 自分の人生を声に表し発表する。 だから輝きが大小さまざまであり趣があると私は感じております。
私が思うに上級の方の唄などは、勝つことを目的に唄っている方が多いように思います。 私も同じです。 欲がどうしても出るんです。 それは自分の唄をビデオに撮影して後から観るので歴然です。 そのような唄は、あまり良い唄にはなりません。 自分では良い唄には出来ないので、決勝に残れない方の唄を例えとして書かせていただきます。 決勝に残れない方の中で、何名かの方の唄が見事でした それは欲が感じられない素直さが感じられたからでした。 民謡に欲は必要はない。 それが、ゆうさんの考え方です。 勿論、欲がなければ練習や努力は出来ません。 全国大会が各地にあるからこそ、この民謡という伝統は生きているし、伝承もできるのだと理解しております。 ただ、私にとっての素晴らしい民謡と感じる瞬間といいますのは、決勝に残れない方の中に多いのが事実でございます。
私の民謡がもし、今以上に素晴らしい民謡に少しでも上がれると考えるならば、優勝を意識しないことが実践できた時でしょうか。 だけど、あの決勝の舞台上では、とても出来ません 高橋ななさんの唄から、私は勝ちたいという意識が全く聞こえてきませんでした。 とにかく素直で心が篭っていて、私にとりまして誠に見事な民謡唄だったのです 民謡は本当に奥が深くて素晴らしい 一人一人の人生の中に、それぞれの思いや経験があるのと全く同じで、民謡の感じ方も、それぞれです。 私は辛い経験が出来たからこそ、民謡がそれだけ身に心に染みるのです。 涙なしに民謡を観覧出来ないというのが物語っております 民謡をされていらっしゃる皆様へ、頑張っていつの日か日本民謡フェスティバルにどんな形でも良いので出場してみてくださいませ
私は日本民謡協会や日本郷土民謡協会に属していないために、大きな立派な大会の経験が持てておりませんでした。 それだけに日本民謡フェスティバルを経験できたということは、誠に素晴らしい経験でした 今、聴いている民謡の音が素晴らしいと感激できる自分で良かった 理解できる人間で本当に幸せです。 ラジオに出演される方々・・ うーん凄すぎますね これが日本の民謡の世界だったんですね 驚きです 本日もご拝読、誠にありがとうございました
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ななさんは、あの紅白の舞台上にて刈り干し切り唄を唄われておられました。 余りに私に取りまして素晴らしい心の唄であり、特に
「稲かろうかよ~」 の、稲(いね)という発音の部分が涙を誘った見事な唄い方、表現であり、あのとてもお若い方が、あれだけの心の篭った素晴らしい表現力に見事な心を備えておられたなんて 私は本当に素晴らしい民謡の聖地に行けた喜びが抜けないのです 嬉しくて、唄を聴く度に涙が出そうになるのです。 民謡なんてね、民謡に興味のない人にとっては、なんでもないものだと想像致します ですが、生きるか死ぬるかの道を歩んだ私にとって、民謡というものは命の恩人であり、民謡があったからこそ、ここまでなんとか生きてこられたという、まさに民謡のあっての私なのでございます。 私はななさんとは、なんの面識も言葉を交わしたこともありません。 それでも、あのお方が見事な心を備えていることは、唄や姿勢から伝わって参ります でないと、あのような涙が出る唄なんて、あの若さでは決して唄えませんもの
私が思うに民謡とは、昔、苦労を重ねてこられ苦労を共にした先人方々が仕事を少しでも楽にするために知恵を絞り考えられた唄であり、詩であります。 よって、人の痛みや苦労が想像できない人に唄え表現ができるはずがないと考えているのです。 私が尊敬する民謡人さんは、皆、レベルが低かろうが高かろうが関係なく、皆に親切で優しく、自らも苦労を重ねており、人の痛みの分かる方だと感じております。 どんなに民謡の練習だけを重ねたところて、人間が出来ていなければ、魅力ある唄になど絶対にならないと感じております。 この間、私の唄には「塩と胡椒がないのだ」と伝えていただきました。 これは、私が下手ということではなく、人間に味がないということだと感じました。 同じ人間がどれだけあがいても、魅力が変わるものではございません。 無理をあがいたって後に後遺症が出るだけで無理は長くは続かないのです。 民謡とは、人生そのものだと考えます。 自分の人生を声に表し発表する。 だから輝きが大小さまざまであり趣があると私は感じております。
私が思うに上級の方の唄などは、勝つことを目的に唄っている方が多いように思います。 私も同じです。 欲がどうしても出るんです。 それは自分の唄をビデオに撮影して後から観るので歴然です。 そのような唄は、あまり良い唄にはなりません。 自分では良い唄には出来ないので、決勝に残れない方の唄を例えとして書かせていただきます。 決勝に残れない方の中で、何名かの方の唄が見事でした それは欲が感じられない素直さが感じられたからでした。 民謡に欲は必要はない。 それが、ゆうさんの考え方です。 勿論、欲がなければ練習や努力は出来ません。 全国大会が各地にあるからこそ、この民謡という伝統は生きているし、伝承もできるのだと理解しております。 ただ、私にとっての素晴らしい民謡と感じる瞬間といいますのは、決勝に残れない方の中に多いのが事実でございます。
私の民謡がもし、今以上に素晴らしい民謡に少しでも上がれると考えるならば、優勝を意識しないことが実践できた時でしょうか。 だけど、あの決勝の舞台上では、とても出来ません 高橋ななさんの唄から、私は勝ちたいという意識が全く聞こえてきませんでした。 とにかく素直で心が篭っていて、私にとりまして誠に見事な民謡唄だったのです 民謡は本当に奥が深くて素晴らしい 一人一人の人生の中に、それぞれの思いや経験があるのと全く同じで、民謡の感じ方も、それぞれです。 私は辛い経験が出来たからこそ、民謡がそれだけ身に心に染みるのです。 涙なしに民謡を観覧出来ないというのが物語っております 民謡をされていらっしゃる皆様へ、頑張っていつの日か日本民謡フェスティバルにどんな形でも良いので出場してみてくださいませ
私は日本民謡協会や日本郷土民謡協会に属していないために、大きな立派な大会の経験が持てておりませんでした。 それだけに日本民謡フェスティバルを経験できたということは、誠に素晴らしい経験でした 今、聴いている民謡の音が素晴らしいと感激できる自分で良かった 理解できる人間で本当に幸せです。 ラジオに出演される方々・・ うーん凄すぎますね これが日本の民謡の世界だったんですね 驚きです 本日もご拝読、誠にありがとうございました
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河内音頭がメジャーですが、江州音頭のほうが歴史が古いのです。
江州音頭は滋賀県発祥ですが、広く関西に広まり、明治時代には大阪の盆踊り唄としても親しまれてました。
いろんなバージョンがあるのです。
玉子家円辰さん、近江源三郎さん、志賀國天寿さん、八代目岩井梅吉さん(改良節)動画を御覧ください。
江州音頭も大好きです。
河内踊りのメッカ、八尾市にはいくつも踊りのグループがございます。
皆さん素敵ですよ!
そして、河内のマドンナと言われるとび喜代さん。
何と!衣装も手作りなのです!
他にもたくさんいらっしゃいますよ!
自然なことのように考えております。 人は
生まれて育った環境が一人一人違うために
考え方も受け取り方も本当にさまざまだから
だと考えます。
私は、出来ることならば、もっと早くに
民謡に目覚めたかった。 私が民謡と出会
ったのが今から10年前のことです。 当時
は何も知らず、ただ一生懸命に舞台の上に
震えて立ち、間違わずに唄いきる!
それが一番の目標でした。 何年も撮影し
た映像を自分で観て感じて、好きな表現
方法を選び、とにかく真似ました。 私は
撮影を学ぶ糧と生きてこられたのです。
私が思う民謡の素晴らしさは、時代がどん
なに進化を遂げても、民謡の世界は時が
止まっていることだと考えます。 つまり
民謡は、その時代の風景、人間、苦労や
時代背景の無形文化財であります。
民謡は、私達、民謡ファンと共に形を保ち
古き良き日本の素晴らしさを崩すことなく
形を残していることが、誠に素晴らしいの
です。
それは時代が進化し便利な世の中になれば
なるほどに、昔の日本の風景の素晴らしさ
が環境が崩れてしまえばしまうほどに輝き
を増すのです。
時代は便利な世の中になればなるほど・・
残念ながら自然は破壊され、空気も悪く
なり、水さえも汚れてしまいます。 そん
な中、民謡は無形としてずっとずっと日本
に残り続ける。
今の民謡は人気こそ弱火ではございますが
その弱火の火を一生懸命に守ろうとしてい
るのが私達、素人も含めての民謡人だと
とても貴重に考えているのです。
人があまりやっていないことだからこそ、
私は三味線や尺八、太鼓を叩く度に、その
貴重さに幸せを感じられていると感じて
おります。
その貴重さを経験し、継承してゆけるので
あれば、和楽器に50万や100万費やし
てもお金で価値を計ることなど出来ない
高い価値がそこには存在します。
ですが、その存在の意味は、長年、民謡を
行ってきた者でなければ、理解ができない
ことでしょう。 民謡は必ずこの先、流行
し始めます。 なぜならば、時代が進むほ
どに古き日本の姿を思い越したいと願う
人の心が、どこかに眠っているから。
私は、民謡をこれからも無理せず、自分の
ペースにて楽しんで生きて参ります♪
だから、ま~りんさんも、河内踊りの国宝
目指して頑張ってくださいませ。
将来、対談しましょうぞ(夢)
追伸:若いのに偉いねとは、お客様から
言われることはありますよ。 でもね、若
いとか年とかを考えることが、何か違うよ
うにも思うのです。 人生に遅いなんて
ありませんから。 やりたいと感じた時が
適正な時期なのかもしれませんものね。
私のように歳を重ねて良さがわかる人も多いです。
だから、日本の民謡は高齢者のファンが多いというイメージを持たれがちです。
ゆうさんはお若いのにえらいね、と言われたことはございませんか?