民謡は、そもそも古い昔の先人方が作業を少しでも楽にしようと考えられたものが唄となり生まれたものである。
そんな昔のことを、今の近代に再現することは基本的には出来ない。 そんな私達、民謡人がなぜ民謡を志し一体、何を目指して頑張っているのだろうか。
ある人はこう言う「日本一を目指す」と、ならば、日本一になれたなら、どうなるのか? その先を想像してみたことがあるだろうか。
私が思うに、この民謡という世界は非常に難しく奥が深い。 何が難しいといえば、それは民謡人、自らの心の持ち方の制御であり心の構え方だと私は思う。
絶体に起こらないことではあるのだが、万が一、私が民謡日本一に輝けたと課程してお話してみよう。
私が日本一になってしまうと必ず声すら掛けてくださらなかった民謡人や周りの方達から、「あなたは大した者だ」と持て囃やされる事であろう。
そして私はいつ日か自分は優れているのだと大きな勘違いを巻き起こすのだ。 それは目指すまでの自分の作り上げてきた素晴らしい唄を崩してゆき心の闘志さえ波にさらわれる砂浜の砂のように削られてゆくであろう。
人生というものは波乱に満ち溢れ頂点に立てば更なる仕掛けや罠が私達を待ち受けているように私は想像している。
大体、私のような器のない男一匹が民謡大会で日本一になるなんて全く持って似合わない。 私の民謡の為には、なるべく優勝は後に楽しみを回しておくのが良い。
そんなことになれば、あなたは年を重ねチャンスがなくなるわよー はい、それで良いのです。 私は考え方を改めたのです。
実際、優勝者は翌年度より競技に参加出来なくなってしまう為に、その唄のレベルを優勝時のまま保つことなど非常に無理な話なのです。
私が考えるに、これからの大会では、過去の優勝者にも、競技者の一員として、決勝に進むことは出来なくとも参加を奨めるべきであると信じております。
音戸大会の場合には、過去の優勝者には、名人を決める優勝者だけの決勝大会が5年に一度だけ行われるシステムになっているのですが、やはり競技に参加出来ないためにレベルを保てていないケースが見受けられるのです(私だけが感じたことです)
素晴らしい民謡を維持してゆくためには、一人でも多くの競技者に、その素晴らしき唄を生で聴かせる機会がとても必要と考えます。
もし過去の優勝者も舞台上にて自分の唄を表現できるのならば、競技でなくとも技術の維持にはなります。
お手本としては、しげさ節コンクール東京大会におきましては、過去の優勝者が舞台上で発表する場を設けておられます。
私は偶然、運が良くも、過去優勝者の中から、誠に見事な心打つ、しげさ節と出会えたことがございます。
音戸大会におきましても、そのような発表の場を設けていただけるよう競技者の一人として願っております。
最後に民謡の種まきについてですが、種をまくためには素が必要です。 素とは、民謡にまつわる現地に行き、その風景を体全身から感じ受けることです。
それらを感じて昔の先人達の苦労と努力を心の中から想像を沸き立て自ら組み立ててやる必要があるのではないでしょうか。
音戸へ行き、隠岐へ渡り、富山も秋田も行く。 自分の好きな民謡の素となる県には一度は必ず渡りたい。
その為に働きお金を稼ぎ貯金をして計画を立てる。 その間にも三味線妻たちは私に愛を求める。 弾いてちょうだいと…
三味線を弾いていると… 今度は尺八が私を誘ってくる… 俺達も息を吹き込んでくれと… そして尺八を吹き込めば… やがて私の心は昔の先人を思う。
その先人達のお陰にて今の平和があり、私達は三味線を弾けているのだと… 民謡は平和が保たれていないと成立はしない。
今こそ、この素晴らしき民謡を日本国民に伝えてゆこうではないか。 民謡は世界を救う。 私はそう信じて今日も和楽器を奏でている。
そんな昔のことを、今の近代に再現することは基本的には出来ない。 そんな私達、民謡人がなぜ民謡を志し一体、何を目指して頑張っているのだろうか。
ある人はこう言う「日本一を目指す」と、ならば、日本一になれたなら、どうなるのか? その先を想像してみたことがあるだろうか。
私が思うに、この民謡という世界は非常に難しく奥が深い。 何が難しいといえば、それは民謡人、自らの心の持ち方の制御であり心の構え方だと私は思う。
絶体に起こらないことではあるのだが、万が一、私が民謡日本一に輝けたと課程してお話してみよう。
私が日本一になってしまうと必ず声すら掛けてくださらなかった民謡人や周りの方達から、「あなたは大した者だ」と持て囃やされる事であろう。
そして私はいつ日か自分は優れているのだと大きな勘違いを巻き起こすのだ。 それは目指すまでの自分の作り上げてきた素晴らしい唄を崩してゆき心の闘志さえ波にさらわれる砂浜の砂のように削られてゆくであろう。
人生というものは波乱に満ち溢れ頂点に立てば更なる仕掛けや罠が私達を待ち受けているように私は想像している。
大体、私のような器のない男一匹が民謡大会で日本一になるなんて全く持って似合わない。 私の民謡の為には、なるべく優勝は後に楽しみを回しておくのが良い。
そんなことになれば、あなたは年を重ねチャンスがなくなるわよー はい、それで良いのです。 私は考え方を改めたのです。
実際、優勝者は翌年度より競技に参加出来なくなってしまう為に、その唄のレベルを優勝時のまま保つことなど非常に無理な話なのです。
私が考えるに、これからの大会では、過去の優勝者にも、競技者の一員として、決勝に進むことは出来なくとも参加を奨めるべきであると信じております。
音戸大会の場合には、過去の優勝者には、名人を決める優勝者だけの決勝大会が5年に一度だけ行われるシステムになっているのですが、やはり競技に参加出来ないためにレベルを保てていないケースが見受けられるのです(私だけが感じたことです)
素晴らしい民謡を維持してゆくためには、一人でも多くの競技者に、その素晴らしき唄を生で聴かせる機会がとても必要と考えます。
もし過去の優勝者も舞台上にて自分の唄を表現できるのならば、競技でなくとも技術の維持にはなります。
お手本としては、しげさ節コンクール東京大会におきましては、過去の優勝者が舞台上で発表する場を設けておられます。
私は偶然、運が良くも、過去優勝者の中から、誠に見事な心打つ、しげさ節と出会えたことがございます。
音戸大会におきましても、そのような発表の場を設けていただけるよう競技者の一人として願っております。
最後に民謡の種まきについてですが、種をまくためには素が必要です。 素とは、民謡にまつわる現地に行き、その風景を体全身から感じ受けることです。
それらを感じて昔の先人達の苦労と努力を心の中から想像を沸き立て自ら組み立ててやる必要があるのではないでしょうか。
音戸へ行き、隠岐へ渡り、富山も秋田も行く。 自分の好きな民謡の素となる県には一度は必ず渡りたい。
その為に働きお金を稼ぎ貯金をして計画を立てる。 その間にも三味線妻たちは私に愛を求める。 弾いてちょうだいと…
三味線を弾いていると… 今度は尺八が私を誘ってくる… 俺達も息を吹き込んでくれと… そして尺八を吹き込めば… やがて私の心は昔の先人を思う。
その先人達のお陰にて今の平和があり、私達は三味線を弾けているのだと… 民謡は平和が保たれていないと成立はしない。
今こそ、この素晴らしき民謡を日本国民に伝えてゆこうではないか。 民謡は世界を救う。 私はそう信じて今日も和楽器を奏でている。
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