以下引用
【入門・日米戦争どっちが悪い(9)】押し付けられた日本国憲法 GHQの社会主義者が9日間で作る
「戦争犯罪人」の逮捕が行われていた1945(昭和20)年10月11日、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは首相の幣原喜重郎に対して憲法改正を指示しました。政府は国務大臣の松本烝治が中心となって大日本帝国憲法を大幅に修正した改正案(松本乙案)などを作りましたが、マッカーサーは拒否して自分たちで憲法を作ると言いました。
「ソ連憲法は私を夢中にさせた」
わが国は伊藤博文らが苦心して作った大日本帝国憲法の下、当時としては先進的な立憲君主制国家でした。ポツダム宣言も「民主主義的傾向ノ復活強化」と、わが国に民主主義があることを前提にしていました。しかし米国にとっては「民主主義対ファシズムの戦い」としてたたき潰したわが国にもともと民主主義があったという事実は都合が悪く、自分たちによって民主主義国家にしたことにしなくてはなりませんでした。
マッカーサーはマッカーサーノートと呼ばれる憲法改正の原則をGHQ民政局長の陸軍准将コートニー・ホイットニーに提示しました。ホイットニーはこれを基にした憲法改正草案の作成を課長(後に次長)の陸軍大佐チャールズ・ケーディスに指示しました。
ソ連への協力者やニューディーラーと呼ばれる社会主義者が入り込んでいた米国民主党政権ですが、GHQ民政局は特にそうした傾向の人物で占められ、ケーディスはその代表格でした。彼らは自分の国で実現できない社会主義的な政策を他国の憲法を変えることで実験したのです。
1946(昭和21)年2月4日、ケーディスら急遽集められたGHQのメンバー25人に憲法の専門家は一人もいませんでした。例えば、ベアテ・シロタという22歳のユダヤ系ウクライナ人女性(終戦直前に米国籍取得)は、5歳から15歳まで東京に住んでいたため、日本語力を買われてGHQで通訳兼アシスタントを務めていたというだけの経歴でした。
シロタは著書『1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』で、他国に憲法を押し付けるという行為を悪びれることなく回想しています。
シロタによると、このときホイットニーはマッカーサーノートを読み上げた後、自分たちの案を日本政府が受け入れない場合は「力を用いると言って脅すだけではなくて、力を用いてもよいという権限をマッカーサー元帥から得ている」と、軍事力を使ってでも憲法を押し付けると宣言しました。さらにこう述べました。
「出来上がった文書は、日本側からマッカーサー元帥に承認を求めて提出されることになる。そして、マッカーサー元帥は、この憲法を日本政府が作ったものとして認め、全世界に公表するであろう」
シロタは「簡単に言えば、出来のわるい生徒の試験答案を先生が書いて、それを口を拭って生徒が書いたとして提出して及第点を貰おうというようなものだ」と表現し、「でも、そんなことは十分あり得る状況に、当時の日本は置かれていた」と書いています。
憲法について「ハイスクールの社会科で習った程度の知識しかない」と認めながら、「どうしよう! でもチャンスだわ!」と軽いノリで参加します。まずやったのは、日比谷図書館や東大などでアメリカ独立宣言や合衆国憲法など各国の憲法を集めることでした。GHQが東京の図書館で米国の憲法を探したのです。まるでコメディーです。
それらの資料を読んだシロタは「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」「ソビエトの憲法は…社会主義が目指すあらゆる理想が組み込まれていた」と目を輝かせます。
GHQには社会主義的な民政局のほかに参謀2部という反共の勢力があり、民政局の動きを監視していました。部長のチャールズ・ウィロビーは著書に、諜報部門がシロタを調査した秘密文書を載せています。そこにはシロタの日本への憎悪が指摘され、ソ連との関係が強く示唆されています。
サンドイッチをかじりながら徹夜したメンバーは、12日までのわずか9日間で英文のマッカーサー草案を作りました。
B29を飛ばして受け入れ迫る
翌13日、ホイットニー、ケーディス、陸軍中佐マイロ・ラウエル、海軍中佐アルフレッド・ハッシーは東京・麻布市兵衛町の外相官邸に吉田茂を訪ねました。国務大臣の松本と吉田の側近の終戦連絡事務局参与、白洲次郎が同席しました。
サンルームで太陽を背に腰かけたホイットニーらは吉田らにマッカーサー草案を手渡すと席を外し、庭に出ました。そのときB29爆撃機が超低空で近付き、轟音をあげて通り過ぎました。白洲が外に出るとホイットニーはこう言いました。「われわれは戸外で原子力の起こす暖を楽しんでいるのです」
まだ広島、長崎への原爆投下の記憶が生々しいとき、「原子力」を口にするのは威嚇以外の何物でもありません。このB29は事前に指示されて外相官邸の上空を飛んだのです。吉田らを脅すための仕掛けです。
サンルームに戻ったホイットニーは次のように言いました。
「あなた方がご存じかどうか分かりませんが、最高司令官(マッカーサー)は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています」「しかし皆さん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています」
受け入れなければ昭和天皇の身柄は保障しないと脅したのです。外相官邸跡地には現在、「日本国憲法草案審議の地」という碑が建っていますが、「審議」などというものではなく、恫喝による押し付けでした。
政府はマッカーサー草案を若干修正して政府案を作りましたが、GHQの圧力で元に戻されました。帝国議会での審議もGHQの統制下に置かれ、ポツダム宣言の言う「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思」などありませんでした。
こうして「大日本帝国憲法を改正した」という建前で日本国憲法がこの年の11月3日(明治天皇の誕生日)に公布され、翌1947(昭和22)年5月3日(東京裁判開廷1周年)に施行されました。サンフランシスコ講和条約が発効してわが国が主権を回復したのは1952(昭和27)年4月28日ですから、占領下に「憲法」ができたのです。
GHQの検閲指針には「日本の新憲法起草に当ってSCAP(マッカーサー)が果たした役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当たってSCAPが果たした役割についての一切の批判」が含まれており、国民は日本国憲法が外国製だと知らされていませんでした。その日本国憲法は21条で「検閲は、これをしてはならない」と定めていますが、冗談にしても悪質すぎます。
日本国憲法下の「戦犯」処刑
日本国憲法の中身に対する批判は前文や9条をはじめとして出尽くしていますが、いくつか指摘しておきます。前文に「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」とありますが、「恵沢」とは何か日本人には分かりません。英文(つまり原文)を見ると「blessing」になっています。神の祝福という意味です。キリストから自由を授かったのが日本国憲法ということになります。
18条に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」とあります。「奴隷」と言われても、当時も今も日本人には実感がありません。かつて奴隷がいたのは米国です。
米国人が自分たちの感覚で憲法を作ったからこうなっているのです。
米国の奴隷制度は、欧州諸国より何十年も遅れて1865年の合衆国憲法修正13条で公式に廃止されましたが、ミシシッピ州は実に148年後の2013年まで正式承認しませんでした。
連載の3回目で述べたように、わが国は1919年、国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むよう提案し、米国に潰されました。その米国では1964年の公民権法、翌年の投票権法で制度上の黒人差別が終わったとされていますが、実際には州によってはリテラシーテスト(読み書きテスト)に合格しなければ有権者登録ができず、廃止されたのは1971年でした。日本でいえば大阪万博の翌年まで、米国では普通選挙が行われなかったのです。
前回、東京裁判の被告の起訴が昭和天皇の誕生日に行われたと紹介しましたが、東条英機ら7人への絞首刑は、皇太子殿下(今の天皇陛下)の誕生日に合わせて1948(昭和23)年12月23日に執行されました。最初から最後まで嫌がらせでした。
日本国憲法98条は「この憲法は、国の最高法規であつて」と規定しています。しかし日本国憲法が施行された後に日本国憲法によらない死刑執行が行われているのです。どこが最高法規でしょうか。
日本国憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…この憲法を確定する」とありますが、「国会」はまだ存在せず、日本国憲法を審議したのは帝国議会です。
戦時国際法のハーグ陸戦法規は「占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重し」と、戦勝国だからといって敗戦国の憲法を変えてはいけないと規定しています。
米国に押し付けられた日本国憲法なるものは、憲法としては本来無効なのです。
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【入門・日米戦争どっちが悪い(9)】押し付けられた日本国憲法 GHQの社会主義者が9日間で作る
「戦争犯罪人」の逮捕が行われていた1945(昭和20)年10月11日、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは首相の幣原喜重郎に対して憲法改正を指示しました。政府は国務大臣の松本烝治が中心となって大日本帝国憲法を大幅に修正した改正案(松本乙案)などを作りましたが、マッカーサーは拒否して自分たちで憲法を作ると言いました。
「ソ連憲法は私を夢中にさせた」
わが国は伊藤博文らが苦心して作った大日本帝国憲法の下、当時としては先進的な立憲君主制国家でした。ポツダム宣言も「民主主義的傾向ノ復活強化」と、わが国に民主主義があることを前提にしていました。しかし米国にとっては「民主主義対ファシズムの戦い」としてたたき潰したわが国にもともと民主主義があったという事実は都合が悪く、自分たちによって民主主義国家にしたことにしなくてはなりませんでした。
マッカーサーはマッカーサーノートと呼ばれる憲法改正の原則をGHQ民政局長の陸軍准将コートニー・ホイットニーに提示しました。ホイットニーはこれを基にした憲法改正草案の作成を課長(後に次長)の陸軍大佐チャールズ・ケーディスに指示しました。
ソ連への協力者やニューディーラーと呼ばれる社会主義者が入り込んでいた米国民主党政権ですが、GHQ民政局は特にそうした傾向の人物で占められ、ケーディスはその代表格でした。彼らは自分の国で実現できない社会主義的な政策を他国の憲法を変えることで実験したのです。
1946(昭和21)年2月4日、ケーディスら急遽集められたGHQのメンバー25人に憲法の専門家は一人もいませんでした。例えば、ベアテ・シロタという22歳のユダヤ系ウクライナ人女性(終戦直前に米国籍取得)は、5歳から15歳まで東京に住んでいたため、日本語力を買われてGHQで通訳兼アシスタントを務めていたというだけの経歴でした。
シロタは著書『1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』で、他国に憲法を押し付けるという行為を悪びれることなく回想しています。
シロタによると、このときホイットニーはマッカーサーノートを読み上げた後、自分たちの案を日本政府が受け入れない場合は「力を用いると言って脅すだけではなくて、力を用いてもよいという権限をマッカーサー元帥から得ている」と、軍事力を使ってでも憲法を押し付けると宣言しました。さらにこう述べました。
「出来上がった文書は、日本側からマッカーサー元帥に承認を求めて提出されることになる。そして、マッカーサー元帥は、この憲法を日本政府が作ったものとして認め、全世界に公表するであろう」
シロタは「簡単に言えば、出来のわるい生徒の試験答案を先生が書いて、それを口を拭って生徒が書いたとして提出して及第点を貰おうというようなものだ」と表現し、「でも、そんなことは十分あり得る状況に、当時の日本は置かれていた」と書いています。
憲法について「ハイスクールの社会科で習った程度の知識しかない」と認めながら、「どうしよう! でもチャンスだわ!」と軽いノリで参加します。まずやったのは、日比谷図書館や東大などでアメリカ独立宣言や合衆国憲法など各国の憲法を集めることでした。GHQが東京の図書館で米国の憲法を探したのです。まるでコメディーです。
それらの資料を読んだシロタは「ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた」「ソビエトの憲法は…社会主義が目指すあらゆる理想が組み込まれていた」と目を輝かせます。
GHQには社会主義的な民政局のほかに参謀2部という反共の勢力があり、民政局の動きを監視していました。部長のチャールズ・ウィロビーは著書に、諜報部門がシロタを調査した秘密文書を載せています。そこにはシロタの日本への憎悪が指摘され、ソ連との関係が強く示唆されています。
サンドイッチをかじりながら徹夜したメンバーは、12日までのわずか9日間で英文のマッカーサー草案を作りました。
B29を飛ばして受け入れ迫る
翌13日、ホイットニー、ケーディス、陸軍中佐マイロ・ラウエル、海軍中佐アルフレッド・ハッシーは東京・麻布市兵衛町の外相官邸に吉田茂を訪ねました。国務大臣の松本と吉田の側近の終戦連絡事務局参与、白洲次郎が同席しました。
サンルームで太陽を背に腰かけたホイットニーらは吉田らにマッカーサー草案を手渡すと席を外し、庭に出ました。そのときB29爆撃機が超低空で近付き、轟音をあげて通り過ぎました。白洲が外に出るとホイットニーはこう言いました。「われわれは戸外で原子力の起こす暖を楽しんでいるのです」
まだ広島、長崎への原爆投下の記憶が生々しいとき、「原子力」を口にするのは威嚇以外の何物でもありません。このB29は事前に指示されて外相官邸の上空を飛んだのです。吉田らを脅すための仕掛けです。
サンルームに戻ったホイットニーは次のように言いました。
「あなた方がご存じかどうか分かりませんが、最高司令官(マッカーサー)は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています」「しかし皆さん、最高司令官といえども、万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています」
受け入れなければ昭和天皇の身柄は保障しないと脅したのです。外相官邸跡地には現在、「日本国憲法草案審議の地」という碑が建っていますが、「審議」などというものではなく、恫喝による押し付けでした。
政府はマッカーサー草案を若干修正して政府案を作りましたが、GHQの圧力で元に戻されました。帝国議会での審議もGHQの統制下に置かれ、ポツダム宣言の言う「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思」などありませんでした。
こうして「大日本帝国憲法を改正した」という建前で日本国憲法がこの年の11月3日(明治天皇の誕生日)に公布され、翌1947(昭和22)年5月3日(東京裁判開廷1周年)に施行されました。サンフランシスコ講和条約が発効してわが国が主権を回復したのは1952(昭和27)年4月28日ですから、占領下に「憲法」ができたのです。
GHQの検閲指針には「日本の新憲法起草に当ってSCAP(マッカーサー)が果たした役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当たってSCAPが果たした役割についての一切の批判」が含まれており、国民は日本国憲法が外国製だと知らされていませんでした。その日本国憲法は21条で「検閲は、これをしてはならない」と定めていますが、冗談にしても悪質すぎます。
日本国憲法下の「戦犯」処刑
日本国憲法の中身に対する批判は前文や9条をはじめとして出尽くしていますが、いくつか指摘しておきます。前文に「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」とありますが、「恵沢」とは何か日本人には分かりません。英文(つまり原文)を見ると「blessing」になっています。神の祝福という意味です。キリストから自由を授かったのが日本国憲法ということになります。
18条に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」とあります。「奴隷」と言われても、当時も今も日本人には実感がありません。かつて奴隷がいたのは米国です。
米国人が自分たちの感覚で憲法を作ったからこうなっているのです。
米国の奴隷制度は、欧州諸国より何十年も遅れて1865年の合衆国憲法修正13条で公式に廃止されましたが、ミシシッピ州は実に148年後の2013年まで正式承認しませんでした。
連載の3回目で述べたように、わが国は1919年、国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むよう提案し、米国に潰されました。その米国では1964年の公民権法、翌年の投票権法で制度上の黒人差別が終わったとされていますが、実際には州によってはリテラシーテスト(読み書きテスト)に合格しなければ有権者登録ができず、廃止されたのは1971年でした。日本でいえば大阪万博の翌年まで、米国では普通選挙が行われなかったのです。
前回、東京裁判の被告の起訴が昭和天皇の誕生日に行われたと紹介しましたが、東条英機ら7人への絞首刑は、皇太子殿下(今の天皇陛下)の誕生日に合わせて1948(昭和23)年12月23日に執行されました。最初から最後まで嫌がらせでした。
日本国憲法98条は「この憲法は、国の最高法規であつて」と規定しています。しかし日本国憲法が施行された後に日本国憲法によらない死刑執行が行われているのです。どこが最高法規でしょうか。
日本国憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…この憲法を確定する」とありますが、「国会」はまだ存在せず、日本国憲法を審議したのは帝国議会です。
戦時国際法のハーグ陸戦法規は「占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重し」と、戦勝国だからといって敗戦国の憲法を変えてはいけないと規定しています。
米国に押し付けられた日本国憲法なるものは、憲法としては本来無効なのです。
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