当人は「偶然」のように話されてるようですが
どう考えても狙いを付け行動を監視してたでしょう。
子供じゃあるまいし、まさか拉致されると思わなければ
周囲に自分を付ける輩が居ても、気付きづらいですから。
「偶然」というのは、
「偶然」人気の無い拉致しやすい場所へ
二人で行ったことでしょうか。
連中は、ずっとその機会を窺ってたと考える方が自然です。
手当たり次第に拉致しても
使い物にならない人材では工作するだけ無駄ですからね。
今はこういう犯罪形式ではなく、
別の手口を実行する工作員がウジャウジャ居ます。
それは様々な所に入り込んでしまって
余程注意しないと、なかなか分かりません。
当然マスゴミの中にも、
「朝鮮学校出身者がいっぱいいる」と
関係者自信が暴露してましたしね。
無論、政界にも…企業にも…そして…
以下引用
「たばこの火を貸して」正体は工作員 蓮池薫さん拉致40年、重い証言
1978年7月31日。福井県小浜市の地村保志さん、富貴恵さん=ともに当時(23)=が北朝鮮の工作員に拉致されてから24日後、新潟県柏崎市の海岸で蓮池薫さん=当時(20)、祐木子さん=当時(22)=が拉致された。40年の歳月を経て、薫さんが福井新聞のインタビューに応じた。証言を基に、事件の真相に迫る。
夕方、薫さんと祐木子さんが砂浜を歩いていると、右後方から男3、4人がついてきているような気がした。そのまま200メートルほど進み、腰を下ろした。今度は左側からスーツ姿のような男が1人近づいてきた。「たばこの火を貸してください」。流ちょうな日本語だった。ライターを差し出そうとした瞬間、忍び寄ってきた複数の男に殴られ物陰で押さえ込まれた。高校生らしき若者が近づいてきたようだったが、工作員に追い払われた。日が暮れてボートに乗せられた。
蓮池さんや地村さんは日本側の協力者にマークされ拉致された―との警察関係者の指摘がある。しかし「私は彼女と海に行くことを誰にも言っていない。デートの流れで『じゃあ海でも行こうか』となった。(工作員が)若者を物色しているところに、われわれのことが目に入ったとしか考えられない。北朝鮮の情報力、組織力を過大評価しすぎると物事を見誤る」。地村さん夫妻も、たまたま現場に居合わせたために狙われたのだろうと語っている。
× × ×
北朝鮮では、指導員から「恋人は日本に返した」と言われた。おかしいと思ったが、どうしようもなかった。78年10月ごろから、保志さんと同じ建物で暮らし始めた。すぐにお互いのことを話した。当時の保志さんに対する印象は「精神的に強いなという感じ。お互いこうなった以上、しっかり生きていこうと支え合った」
79年11月、保志さんは結婚。蓮池さんも80年5月に祐木子さんと結婚した。両夫妻は平壌から20キロほど離れた忠龍里(チュンリョンリ)招待所で暮らし始め、工作員に日本語を教えた。日本人同士の接触は許されてなかったが、薫さんと保志さんは指導員の目を盗んでは会い、近況を報告し合った。
× × ×
86年、両夫妻は太陽里(テヤンリ)招待所に移った。ここで薫さんと保志さんは仕事の傍ら、一緒に畑で汗を流した。「トウモロコシやジャガイモ、マメなどを作った。収穫物は2軒で分配した。お互い病気になったら『きょうは俺が(農作業を)やるから大丈夫』と言って助け合った」
北朝鮮で出会った数少ない日本人というだけでなく、子育てなど同じ悩みを持つ仲間だった。「地村さん夫妻の存在はとても大きかった。いろいろなことを相談した。4人だからこそ(拉致から帰国までの)24年間耐えてこられた」と感謝を口にする。
「特に富貴恵さんの明るさには助けられた。私の家内もそうだが女性は強い。状況に動じないから」とも。子どもが生まれてからは、祐木子さんは、子どもが栄養失調にならないようにご飯を食べさせたり、ちゃんとした服を着させたりと、とにかく今を生きた。「そんな姿を見ていると、先のことで悩んだってしょうがねえやって思えてきた」。一瞬一瞬を乗り越えていこうと、気持ちを奮い立たせた。
引用終わり
どう考えても狙いを付け行動を監視してたでしょう。
子供じゃあるまいし、まさか拉致されると思わなければ
周囲に自分を付ける輩が居ても、気付きづらいですから。
「偶然」というのは、
「偶然」人気の無い拉致しやすい場所へ
二人で行ったことでしょうか。
連中は、ずっとその機会を窺ってたと考える方が自然です。
手当たり次第に拉致しても
使い物にならない人材では工作するだけ無駄ですからね。
今はこういう犯罪形式ではなく、
別の手口を実行する工作員がウジャウジャ居ます。
それは様々な所に入り込んでしまって
余程注意しないと、なかなか分かりません。
当然マスゴミの中にも、
「朝鮮学校出身者がいっぱいいる」と
関係者自信が暴露してましたしね。
無論、政界にも…企業にも…そして…
以下引用
「たばこの火を貸して」正体は工作員 蓮池薫さん拉致40年、重い証言
1978年7月31日。福井県小浜市の地村保志さん、富貴恵さん=ともに当時(23)=が北朝鮮の工作員に拉致されてから24日後、新潟県柏崎市の海岸で蓮池薫さん=当時(20)、祐木子さん=当時(22)=が拉致された。40年の歳月を経て、薫さんが福井新聞のインタビューに応じた。証言を基に、事件の真相に迫る。
夕方、薫さんと祐木子さんが砂浜を歩いていると、右後方から男3、4人がついてきているような気がした。そのまま200メートルほど進み、腰を下ろした。今度は左側からスーツ姿のような男が1人近づいてきた。「たばこの火を貸してください」。流ちょうな日本語だった。ライターを差し出そうとした瞬間、忍び寄ってきた複数の男に殴られ物陰で押さえ込まれた。高校生らしき若者が近づいてきたようだったが、工作員に追い払われた。日が暮れてボートに乗せられた。
蓮池さんや地村さんは日本側の協力者にマークされ拉致された―との警察関係者の指摘がある。しかし「私は彼女と海に行くことを誰にも言っていない。デートの流れで『じゃあ海でも行こうか』となった。(工作員が)若者を物色しているところに、われわれのことが目に入ったとしか考えられない。北朝鮮の情報力、組織力を過大評価しすぎると物事を見誤る」。地村さん夫妻も、たまたま現場に居合わせたために狙われたのだろうと語っている。
× × ×
北朝鮮では、指導員から「恋人は日本に返した」と言われた。おかしいと思ったが、どうしようもなかった。78年10月ごろから、保志さんと同じ建物で暮らし始めた。すぐにお互いのことを話した。当時の保志さんに対する印象は「精神的に強いなという感じ。お互いこうなった以上、しっかり生きていこうと支え合った」
79年11月、保志さんは結婚。蓮池さんも80年5月に祐木子さんと結婚した。両夫妻は平壌から20キロほど離れた忠龍里(チュンリョンリ)招待所で暮らし始め、工作員に日本語を教えた。日本人同士の接触は許されてなかったが、薫さんと保志さんは指導員の目を盗んでは会い、近況を報告し合った。
× × ×
86年、両夫妻は太陽里(テヤンリ)招待所に移った。ここで薫さんと保志さんは仕事の傍ら、一緒に畑で汗を流した。「トウモロコシやジャガイモ、マメなどを作った。収穫物は2軒で分配した。お互い病気になったら『きょうは俺が(農作業を)やるから大丈夫』と言って助け合った」
北朝鮮で出会った数少ない日本人というだけでなく、子育てなど同じ悩みを持つ仲間だった。「地村さん夫妻の存在はとても大きかった。いろいろなことを相談した。4人だからこそ(拉致から帰国までの)24年間耐えてこられた」と感謝を口にする。
「特に富貴恵さんの明るさには助けられた。私の家内もそうだが女性は強い。状況に動じないから」とも。子どもが生まれてからは、祐木子さんは、子どもが栄養失調にならないようにご飯を食べさせたり、ちゃんとした服を着させたりと、とにかく今を生きた。「そんな姿を見ていると、先のことで悩んだってしょうがねえやって思えてきた」。一瞬一瞬を乗り越えていこうと、気持ちを奮い立たせた。
引用終わり