こういうのも、日本のマスゴミは、殆ど報じないか
主観に憶測と妄想に捏造を加え、脚色したドラマで流しますから
余計に真実が伝わりづらくなるだけです。
流石に、記事や発言では触れられてないようですが
実際は、筆舌に尽くし難い蛮行は、他にもありますし
こういう発言があるたびに
左巻き反日界隈筋からは
「日本が戦争したから仕返しされた」みたいな論調で
世論誘導を諮りますが、
実は、元々他国での蛮行、もしくは当事国で自国民に対し行われた
虐殺や蛮行、弾圧を、隠蔽する目的で、相手国が行ったかのように
印象付け、後世の歴史を捏造する工作手口の一つでもあります。
先の戦争経験者も、高齢になり、やがては去りゆく身ですから
その時に、真実を語れる人が居なくなり
捏造された歴史が一人歩きをして行く…
そこを巧く利用(悪用)して、捏造する訳です。
「嘘も100回言えば真実に」などが、その例でしょう。
「卑劣なやり方、許せない」シベリア抑留帰還者95歳の庄子英吾さんウクライナ侵攻に
ロシア軍のウクライナ侵攻という〝蛮行〟をめぐっては、日本も77年前に同じような暴挙を経験している。ロシア前身国の旧ソ連は昭和20年夏、武装解除した旧満州国の将兵らをシベリアなどに連行し、約6万人が息絶えた。仙台市太白区の庄子英吾さん(95)も抑留された1人。今回のウクライナ侵攻で庄子さんは戦友の命を奪ったソ連の行為が思い起こされ、怒りで唇をかみしめる。
「何ら話し合いもなく、突然武力を持ち込むことは論外だ。プーチン露大統領は正気の沙汰ではないのではないか」
庄子さんは27日までに、産経新聞の取材にこう述べ、プーチン氏を非難した。高齢者向け住宅で暮らす庄子さんはウクライナ侵攻の新聞記事は丹念に目を通す。市民への無差別攻撃もためらわないロシア軍の無法行為と、シベリア抑留が重なるからだ。
「武器を捨て、丸腰になった者を帰国させるとだまして抑留し、悲劇を起こした。卑劣といえるやり方は断じて許せない」
庄子さんは仙台市出身。昭和19年12月、下関港(下関市)から朝鮮半島経由で満州に渡った。満州国陸軍軍官学校で勉学と武道にいそしむ生活は20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って一変した。庄子さんも爆弾を背負い戦車に向かう自爆訓練を重ねた。戦車砲も戦車もない。ソ連軍に対峙(たいじ)するには肉弾戦しかなかった。
8月15日、ラジオで玉音放送が流れた。終戦を知り、周りも自分も茫然(ぼうぜん)自失、涙を流した。自殺を図った者は区隊長に諭され、思いとどまった。
ソ連軍の指揮のもと武装を解除した。日本が受諾し、ソ連も参加したポツダム宣言は武装解除した日本の将兵は各自の家庭に復帰させると規定している。庄子さんも復員し、再起を期すと誓った。
庄子さんらは帰国のためとされた貨車に乗り、満州国の新京(現・長春)を後にした。ソ連兵も「トウキョウ、ダモイ(帰国)」とジェスチャーを交え、語りかけた。捕虜になるなど考えず、防寒対策も十分ではなかった。
満州を北上し、黒竜江を渡り、夜に対岸のソ連のブラゴエ駅に到着。鉄道はこの先、分岐している。東に進めば極東ウラジオストク、西に進めばモスクワ。貨車は東の方角の太陽に向かうか、どうか─。
翌朝、貨車は太陽を背に走っていた。
「だまされた!」
同年10月、行きついた先はシベリアど真ん中の炭鉱の町、ブカチャーチャー。ロシア語の呼び名は「悪魔の棲む所」。足元の水たまりは氷が張っていた。
庄子さんらは森林伐採から鉄道敷設、石炭の貨車積み込みに従事した。零下40〜50度になる極寒での作業は鼻が凍傷になっても、まひして気が付かない。手遅れになり指を切断した戦友も数多かった。
食事も少量の大豆スープとわずかな黒パンのみ。育ち盛りの若者にはあまりに少なく、庄子さんも骨と皮の見た目になっていた。
さらにシラミが苦しめた。みなが着替えの服はなく、シラミが大量発生し、発疹チフスを媒介した。ある者は高熱で意識がもうろうとし、部屋を徘徊(はいかい)する。ある者は「船が来た。国に帰る」と叫び、戸外に出て凍死した。大勢の戦友が両親や妻子の名前を呼びながら倒れた。
庄子さんもチフスで1週間以上意識を失った。回復後の仕事は戦友の遺体を大八車に載せ、2、3キロ離れた落葉松が立つ「墓地」に運び、埋葬することだった。棺おけはなく、遺体はテント張りの小屋に安置される。カチコチに凍った遺体は何度も車から滑り落ちては、拾い上げた。
23年9月、飢えと寒さに苦しんだ庄子さんらは帰国を果たす。入ソ当時、約200人いた同期生は83人が亡くなった。旧友と平成初頭、遺骨調査団を結成し、シベリアに渡った。落葉松が立つ墓地から戦友の遺骨を収集、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)に埋葬した。
庄子さんは長い間、抑留体験を家族にも封印していたが、平成20年代半ばから講演を行い、戦争体験を文書でまとめている。シベリア抑留の事実が学校でろくに教えられていないと知ったからだ。
「俺は帰国の際、必ず迎えに来るからと約束した。その約束を果たすために遺骨収集に参加して遺骨を千鳥ケ淵墓苑に合祀(ごうし)した。これらの英霊に95歳まで生かされたと思っている。だから死ぬまで語り続け、書き続ける覚悟だ」
体の調子を崩し、しゃべることもかなわなくなったが、それでも無理を押し、ひらがなの五十音表に指さしながら取材に応じる。
戦争には反対だ。だが、祖国を守る気概を持つべきだ。庄子さんは若者たちにこう思いを託す。
「望むならば、殴られたら、殴り返す。この気迫だけは持ってほしい。それに耐え得る体力と力を養ってほしい」(奥原慎平)