奄美大島の田中一村美術館に行きました。
奄美の高倉(穀類を貯蓄するための倉庫)をモチーフにした建物です。
美術館プロフィールより
明治41年(1908)、栃木県に生まれ18歳で東京美術学校日本画科に入学しますが
病気や生活苦で中央画壇とは一線を画し、清貧の中で画業に励みました。
昭和33年、50歳の時に南の島々の自然に魅せられ、奄美大島に移り住み、
大島紬の工場などで働きながら、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続け、
昭和52年(1977)69歳でその生涯を終えました。
生前、作品は世に出ることはありませんでしたが
1980年代、テレビの美術番組での紹介が空前の反響を呼び全国に知られるようになりました。
絹の画布に描かれた大胆な構成と繊細な絵。
一村が最後に暮らした家もぜひ見たくて訪ねました。
ガジュマルの木と碑
小さな借家からここに転居し「まるで御殿のようだ」と喜んだと言います。
でも転居してたった十日後に亡くなったそうです。
貧しくても中央のしがらみから離れ奄美の自然をひたすら描いた一村、
今、こんな立派な美術館ができるなんて夢にも思わなかったでしょう。
奄美の高倉(穀類を貯蓄するための倉庫)をモチーフにした建物です。
美術館プロフィールより
明治41年(1908)、栃木県に生まれ18歳で東京美術学校日本画科に入学しますが
病気や生活苦で中央画壇とは一線を画し、清貧の中で画業に励みました。
昭和33年、50歳の時に南の島々の自然に魅せられ、奄美大島に移り住み、
大島紬の工場などで働きながら、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続け、
昭和52年(1977)69歳でその生涯を終えました。
生前、作品は世に出ることはありませんでしたが
1980年代、テレビの美術番組での紹介が空前の反響を呼び全国に知られるようになりました。
絹の画布に描かれた大胆な構成と繊細な絵。
一村が最後に暮らした家もぜひ見たくて訪ねました。
ガジュマルの木と碑
小さな借家からここに転居し「まるで御殿のようだ」と喜んだと言います。
でも転居してたった十日後に亡くなったそうです。
貧しくても中央のしがらみから離れ奄美の自然をひたすら描いた一村、
今、こんな立派な美術館ができるなんて夢にも思わなかったでしょう。